・6-6 第57話:「混乱:1」
・6-6 第57話:「混乱:1」
つい先ほどまで、「勝利は目前」という雰囲気に支配されていたというのに。
一転して、ソラーナ王国軍は混乱の坩堝の中にあった。
「これは……、撤退の合図? 」
急いでベルトラン伯爵に加勢しようとヴェンダヴァルを走らせていたエリアスは、霧が晴れた前線から聞こえて来る角笛の音色で焦燥感を強めていた。
あのまま王国軍の優勢が続いていたのなら、このような命令は出されないはずだ。
やはり、戦況が一変するような出来事が起こってしまったのに違いない。
前線に接近するのに連れて、そこで戦っていた将兵の動揺の大きさがはっきりと分かるようになってくる。
突然の轟音と霧で呆気に取られていたところに撤退を告げる角笛の音色が響き、わけもわからぬまま慌てて柵の外に逃れて来た兵士たちはみな酷く戸惑った様子で、隊列を整え直して応戦の準備を作ることさえ忘れている様子だった。
「エリアス。
一言、注意して差し上げた方がよろしいのではなくって? 」
「……そうだね、リアーヌ」
約束通り自身の側にピッタリとついて来てくれていたリアーヌに言われてうなずき、エリアスは混乱の渦中にある兵士たちに向かって叫ぶ。
「リンセ伯爵・エリアス、王命により、ベルトラン伯爵に加勢しに参った!
みな、なにを呆然としている!?
敵を迎え撃つため、応戦の準備を整えられよ!
貴殿らはそれでも、武勇名高きベルトラン伯爵の手の者か!? 」
その叱咤で、ベルトラン伯爵の手勢は我に返った。
慌てて隊列を組みなおし、武器を構える彼らの様子を眺めてほっとしながら、エリアスはニコラス筆頭騎士長に質問する。
「ニコラス殿。
この状況で、我らはどう動くべきだろうか」
すると、兜のバイザーをはね上げて顔を見せたニコラスは、悩ましそうな表情で眉間にしわを寄せていた。
「ことの詳細が分かりませぬので、できることは限られて参ります。
闇雲に敵陣に攻め入っては、味方の混乱に巻き込まれる恐れもございます。
まずはこの地点を確保し、撤退して来るベルトラン伯爵の部隊を収容、態勢を立て直すべきかと。
そしてなによりも、まずは伯爵ご本人との合流を図ることが肝要であるかと存じます」
「わかった。まずはそうしよう。
何名か選んで、斥候を出して欲しい。
ベルトラン殿の所在も確認し、できるだけ早く合流したい」
「御意に」
新たな指示にうなずいた筆頭騎士長は、騎士の中から数人を見繕い、前方を偵察して来るよう、可能ならベルトラン伯爵と連絡を取るように命じて斥候に放った。
彼らが帰ってくる間、エリアスはとにかく自軍の防衛態勢を整えることにした。
決して柵を越えて敵陣に踏み入るようなことはせず、小川の手前に前衛と後衛に分けて二段に部隊を配置し、盾を並べさせて守備に専念する。
そうしている間に、敵陣の深くにまで突入していたベルトランの配下の将兵が退却して来る。
彼らは、———酷い状態だった。
柵の付近に残っていた者たちも動揺していたが、それとは比較にならない。
混乱してパニックを起こし、恐慌状態に陥っていた。
なにしろ、装備していたはずの武器を捨てている者までいるのだ。
それは、完全に戦闘を放棄して、逃げることしか頭の中にない、敗残兵の姿であった。
「うろたえるなっ!!!
各隊、隊形を崩さず、防御を維持しろ! 」
そのあまりの惨状にリンセ伯爵家の手勢も感化されてざわついたが、ニコラス筆頭騎士長がすぐに手を打って鎮めてくれた。
「これは、ただ事ではありませんわね」
「うん。
……僕らも、撤退を考えておかないと」
我先にと逃げ散って行くベルトラン伯爵の将兵の姿を眺めつていたリアーヌの言葉に、エリアスもうなずく。
撤退を視野に入れておく。
それに、獅子令嬢も反対しなかった。
この戦場でも手柄を立て、ソラーナ王国の中でリンセ伯爵家の立場をさらに高めようと意気込んでいたというのに、あっさりと引き下がる。
それだけ、目の前で起こっている光景が深刻に見えている、ということだ。
あの、柵の向こう。
火の民が築いた防御陣地の内側で、いったい、なにが起こっているのか。
熾烈な戦いになっていることは間違いなかった。
悲鳴と怒号、様々な声が入り混じって聞こえ、武器と武器が打ち合わせる音も混ざっている。
おそらくは早期に脱出できず、火の民の軍勢に捕捉されてしまった王国軍の将兵が生き残りをかけて必死に戦っているのに違いない。
(援護、するべきだろうか……)
エリアスは友軍を救出するために配下に前進を命じるかどうか、躊躇した。
今進めば助けられる味方は多いだろうが、その分、自身の家臣たちを危険にさらすこととなる。
あるいは敗走を始めたベルトラン伯爵の軍勢に巻き込まれ、こちらの軍も瓦解しかねないという懸念もある。
だが、———やはり、放置することはできない。
ベルトラン伯爵が斥候に放った騎士に両脇から抱えられるようにして戻って来たのは、エリアスが部隊に前進するように指示を出そうとしていた時のことだった。
「ベルトラン殿!
ご無事でしたか! 」
「むぅ……、エリアス殿か。
救援、かたじけない。
おかげで、ひとまずは命拾いいたしたわ」
ヴェンダヴァルから飛び降りて駆け寄ると、ベルトラン伯爵は苦悶に歪み脂汗が浮かんだ表情を若干和らげ、そう礼を述べてくれた。
「酷いお怪我だ!
すぐに後方へ!
治療をなさってください! 」
「いいや、お気遣いはありがたいが、けっこう。
そのような時間は、ない! 」
出血量から一目で重傷だと理解したエリアスはベルトランを後送しようとしたが、彼は首を左右に振ると、険しい表情で告げる。
「エリアス殿こそ、お退きあれ!
それがし、火の民が、[魔法]を使う所を目の当たりにいたした!
我が精鋭の騎士が、まるで木端のように、みな討ち取られてしもうた!
このままでは、貴殿らも同じ目に遭う!
ここは、それがしが殿を務める故、一刻も早くお下がりなされ!
そして、火の民の[魔法]に対抗するための、策を編み出すのです!
そうしなければ……、我らは、勝てぬ!
決して、勝てぬのです! 」




