・5-16 第51話:「打って出るべし! 」
・5-16 第51話:「打って出るべし! 」
ラモン伯爵が見せた涙は、軍議の雰囲気を一変させていた。
ここは、撤退するべきだ。
それがもっとも合理的であり、軍事的に理にかなった、最良の選択である。
その事実は、なにひとつ変わってはいない。
しかし、そのことを言い出せるような雰囲気ではなくなってしまっていた。
恥も外聞もなく、民が被る苦難のことを思って泣きわめく姿。
それを目の当たりにしながらそれでも撤退を主張するには、よほど強固な胆力か、人情の部分が欠落した冷淡な人間性の持ち主でなければならないだろう。
生きるために戦うことが当然とされている社会ではあったが、命を守り、慈しむということが貴ばれないわけではない。
諸侯のように領民を統治する立場の者がその支配下にある者たちに見せる慈悲の心は美点とされることが一般的で、相応に尊重され、賞賛される。
その精神を、ラモン伯爵は全身で激しく体現していた。
そしてそれを敢えて否定するようなことを言えば、ともすれば冷酷な、慈悲の心を持たない人物としての印象を強く周囲に持たれかねない。
そういった悪評を得ることは、決して望ましいことではない。
なにより、この場にいる誰にも、人並の人情というものは備わっていた。
「ううぬ……っ!
まこと、ラモン殿のおっしゃる通りだ!
我らが戦わねば、弱き民草は、いったいどうなってしまうのか……っ! 」
そう言ってハラハラと涙をこぼしているベルトラン伯爵でなくとも、フェルナンド三世も、シモン伯爵も、民を保護しなければならないという統治者としての責任を再認識し、心を動かされている様子でジンと目頭を熱くしている。
エリアスだって、そうだ。
彼は、兵士たちの犠牲を嫌い、撤退する方が犠牲は少なくて済むと考えていた自身のことを恥じていた。
なぜなら、その場合は確かに兵が傷つくことはないが、その代わりに、大勢の民衆が苦しむことになるということを失念してしまっていたからだ。
農民は、土地に張りつくように生きている……。
ラモン伯爵の言葉が重く響く。
農業は言うまでもなく重労働だったが、働きさえすれば、どこでも十分な収穫を得られるかと言えばそうでもない。
気候などの環境に左右されるのはもちろん、土壌の性質にも影響される。
そして、農民たちは何世代もかけて自分たちの土地に手を加え、より良い収穫を得るために苦心して来た。
たとえば、土づくり。
作物が育ちやすくなるよう、開墾した土地から石や木の根を取り除き、耕し、肥料を加え、数十年数百年をかけて豊かな土壌を作り出した。
たとえば、用水路。
水が無ければ作物はうまく育たない。
だから多大な労力と時間、資金をかけ、何世代も費やして水路などを整備してきた。
そういった、気の遠くなるほどの勤労によって作り上げられたインフラの上に、現在の生活が成り立っている。
いかに合理的であろうとも、戦わずに撤退する、ということは、そういった社会の基盤、領民たちの生きる術、いや、命そのものとイコールとも言えるものを、放棄することになる。
常日頃から諸侯の統治によく従い、忠良を示して来た臣民に対し、生きる術を捨てさせるという耐えがたい苦痛を甘受させることは、善良な領主たちの心に少なくない痛みと深い自責の念を喚起させた。
「陛下ッ!
何卒、敵を打ち破れと、そうお命じ下さいませッ! 」
その諸侯の心の動きを察したかのようなタイミングで、ラモン伯爵が前に進み出て来て跪き、懇願する。
「いかに敵が守りを固めていようとも、我らが結束してことに当たれば、必ず突き崩せまする!
我らの意気に、必ずや聖王マニュスがご加護を賜って下さりましょう! 」
「お待ちあれ、ラモン殿」
打って出るべし。
その見解で一致しかけた刹那、その流れを何とか制止しようとしたのは、リオン王子だった。
「私とて、民のために戦いたいとは思います。
ですが、ここには敵の迂回軍が迫っているのです。
正面の敵を破る前に襲われては、聖王マニュスのご加護があろうとも、窮地に陥るのは確実です」
「それがしに、お任せあれっ!! 」
するとラモン伯爵は向きを変え、今度はリオン王子に向かって跪いていた。
「我が手勢、三千!
インスレクト伯爵家は、山岳での戦いに長けておりまする!
敵の迂回軍が一万であろうとも、山中にて迎撃し、我らの得意の山の戦で、食い止めて見せまする!
その間に、皆様は悠々と敵の主力を駆逐してくださいませッ!!! 」
三千で、一万人を食い止めて見せる。
なかなか簡単に口にできることではなかった。
籠城するのであれば十分な兵力であるのかもしれないが、山地で迎え撃つと言っても、野外での戦闘になる。
三倍以上の兵力差はかなり大きな負担になるだろう。
「しかし、ラモン殿」
「最後の一兵になりましても、必ず成し遂げて見せまするっ!
それゆえ、何卒っ!
何卒ォッ!!! 」
リオン王子は冷徹にも思われかねない冷静さを発揮してその不利を指摘しようとしたが、ラモン伯爵は猛烈に頭を下げ、懇願し、その勢いで反論を封殺してしまう。
王子は、なおも異議を唱えたそうな様子だった。
しかしすでに軍議の結論が定まってしまったという雰囲気を察し、これ以上はなにを言ってもくつがえせないと理解して、落胆しながら諦めたように沈黙する。
「よろしい! 」
全員一致、というわけではないが、もはや異論を述べようとする者はいない。
そのことを確かめたフェルナンド三世はその場に立ち上がると、全身に覇気をみなぎらせ、敵陣がある方向を見すえながら宣言した。
「ラモン伯爵の意気や良し!
民を守ることこそ、我ら、貴族の務めである!
聖王マニュスの御霊よ、ご照覧あれ!
必ずや火の民を我らの地から駆逐して見せん! 」
そして王は鞘から剣を抜くと、不退転の決意を示すべく天に向かって大きく突き出す。
それに、王国の五本指と称される伯爵たちが次々と呼応した。
ベルトラン伯爵が、次いでシモン伯爵がラモン伯爵を助け起こして加わり、一歩遅れてエリアスも剣を引き抜き、その切っ先をフェルナンド三世がかかげた剣に合わせる。
「打って出るべし! 」
「「「「打って出るべしッ!!!! 」」」」
心を合わせた王国の五本指の声が、高らかに響き渡る。
———その、一方で。
リオン王子は痛恨の極み、といった深い後悔の表情を浮かべながら沈黙していた。




