・5-10 第45話:「ミシェル:2」
・5-10 第45話:「ミシェル:2」
ミシェルは、リアーヌ・ジルベールおつきの女中。
それ以上でも、それ以下でもない。
出身地も家筋も定かではない身分の低い人物で、何人もいる使用人の一人でしかなく、取るに足らない分際。
———そういうことになっている。
その方がなにかと都合がいいからだ。
つまりは、ミシェルはただの女中などではない。
諜報を専門とし、その技能を身に着けた、世を忍んで生きる一種の特殊な専門家たちの一人で、今はリアーヌに仕えている。
なぜ獅子令嬢が裏社会の住人と関係を持っているのか。
それは、彼女の実家に由来している。
ジルベール伯爵家は、貧乏だった。
伯爵家という高位の爵位を持つからにはもちろん相応の財産を持ってはいたのだが、門地は家格に比べればあまりにも小さく、[あの由緒あるジルベール一族]という、世間の評判通りの立ち居振る舞いをするためには、常に金策をやり続けなければならないほどだ。
そういった自転車操業のようなくり返しの中で、ひとつの気風が生まれた。
それは、人を大切にする、ということだ。
たとえば、畑。
どんなに土壌が豊かで広大な土地があろうとも、そこを耕す農民、必要な道具を作り出す職人、耕作を手助けする家畜などがいなければ、なにも実ることはない。
なにごとも、人があればこそ。
人間がいるからこそ生産活動が行われ、財産が生まれるのである。
だから、貧乏な伯爵家は人を大事にするようになった。
領地が小さくとも、勤勉で怠らない領民、家臣がいれば、なんとか食っていくことができる。
そういう事情で、ジルベール伯爵家では、人を集めることが貴ばれていた。
人、といっても、ただの人間のことではない。
それぞれになにか得意分野や一芸を持った、[人材]を探し求めていた。
そういった者たちを多く召し抱えていれば役に立つ。
一見すると手に余るような問題が生じたとしても、様々な技能を持った家臣たちの創意工夫によって乗り切ることができるのだ。
伯爵家の財政が苦しいのは、実際のところ、こういった人材を好んで集めて来たから、という側面もある。
優秀な家臣が欲しいから金策をし、できるだけ多くを召し抱える。
そうなるとまた資金繰りで困るので金策を、と、そういうことの繰り返しが起きているのだ。
だがその対価として、金銭といった形状のある具体的な財産ではなく、特技を持った有能な臣下たちという、無形の、そして何にも代えがたい莫大な宝物を保有するに至っていた。
嫁入りするリアーヌに対し、ジルベール伯爵家はあまり多くの嫁入り道具を持たせることはできなかった。
金銀財宝は手持ちにはあまりなかったためだ。
その一方で、優れた軍馬であるネージュや、役に立つ家臣たちを用意し、送り込んでいる。
それが最大最良の資産であると信じているからだ。
ミシェルもその一人だった。
間諜、スパイとしての技能を買われ、伯爵家に召し抱えられ、異国に赴くリアーヌのために働けと命じられている。
———暗闇の中、低く、長く、犬の遠吠えをする声が響き渡る。
それは、実際に犬が吠えているわけではなかった。
リアーヌから火の民を探るようにと言いつけられ、暗闇の中に姿を消していったミシェルがその喉を鳴らし、巧みに真似ているのだ。
事情を知らない者が聞いても、野犬か、くらいにしか思わなかっただろう。
しかしその遠吠えには意味が通じる者には伝わる独特の符牒が込められており、一種の暗号として機能していた。
「……お呼びにございまするか」
遠吠えを響かせて少し待っていると、茂みの中から声がかかる。
年季の入った感じの男性のものだ。
おそらく、つい先ほどまでは誰もいなかったはずの場所。
しかし足音ひとつ、枝葉がこすれる微かな音さえも聞こえない。
そうやって[忍び歩く]術を身に着けた、影に生きる者の仕業に違いなかった。
「姫様のご依頼だ。
火の民の懐に潜り込む術は整っているか? 」
「いささか、難しゅうございまする」
「のんびり屋の女中」という体面を形成するための間延びしたしゃべり方を止め、歯切れのよい口調で短く問いかけたミシェルに、重々しい様子の返答がある。
「シアリーズ大陸のどのような国、どのような諸侯でも、容易に忍び込むことは叶いまする。
しかしながら、火の民は、我らと習俗をまったく異にするだけでなく、外観にも大きな違いのある異民族。
紛れ込むのは至難の業。
商人を始め民草との交流も断っておりますゆえ、とっかかりがございませぬ」
「我らの平常の手段は使えない、か」
「左様でございまする」
「騎士の方々を笑ってばかりもいられないな」
「今回ばかりは」
普段、ミシェルたちは、斥候を命じられた騎士のやり方を「非効率だ」と見なしていた。
武具を身に着けたまま敵中に忍び込み、情報を探り出そうなどと、あまりにも正直すぎる。
木を隠すのなら、森の中。
人を隠すのなら、人の中。
どんな軍隊であれ、普通は、外部の者との接触があるものだった。
必要とする物資を調達するために商人や村人と関わり、時には陣中に引き入れる。
そういった民衆に紛れ込めば、敵の動向を探り出すのは比較的に容易なことだった。
騎士は馬鹿正直に[騎士として]潜入しようとするが、ミシェルたち、間諜は違う。
巧みに民草に化け、気づかれることなく浸透し、必要な情報を抜き取る。
ソラーナ王国軍の後方には多くの商人や芸人たちが集まり、賑やかな歓楽街ができあがっているが、あの中にはきっと、同業者たちが数多く紛れ込んでいるのに違いない。
実際、ミシェルの仲間たちも何人かいる。
だが、今回ばかりは勝手が違った。
相手は完全な異民族であり、外部との接触をすべて絶ってしまっている。
これまでミシェルたちが培ってきたノウハウが通用しない相手だった。
「大変そうだけれど、強引に行くしかないか」
「すでに、抜け道を探っております。
正面から潜り込もうとしても、騎士の方々の二の舞でございますから」
諦めたように呟くと、影の中からそんな言葉が。
———リアーヌたちには指摘しなかったが、ソラーナ王国側の斥候が成功しないのは、スパイがいるというのも要因のひとつには違いなかったが、それ以外にも原因があった。
それは、忍び込む対象が[火の民]である、という点だ。
外観から習俗までまるで違う異民族たちの中に入って行こうとしてもすぐに発見されてしまうし、その場で密偵であることが露見してしまう。
なぜなら、火の民にとってはシアリーズ大陸の者はすべて異物であり、一目で排除するべき敵と見なせるからだ。
だが、今回ばかりは、ミシェルたちもそういう危険を冒さなければならなかった。
いつものような搦め手が使えないから、自分たちの目と耳で直接調べなければならない。
かといって、ただそれだけでは、おそらくはうまく行かないだろう。
これまで潜入を試みて帰って来なかった騎士たちと同じ目に遭ってしまう。
工夫が必要だった。
そしてこの場合は、なるべく敵の警戒が手薄で、簡単には発見されず、かつ、見つかったとしても安全に逃げることのできる[道]を探し出す、ということだ。
「候補は、すでにいくつか絞ってございます。
山を越え、火の民の占領地に向かうことのできる道がございます」
「わかった。
どの道が使えるか、皆で一緒になって探そう」
「承知に」
短い返答の後、すっ、と、茂みの中から気配が消える。
消えたのは声の主だけではなかった。
いつの間にかミシェルの姿もそこにはなく、後にはなんの痕跡もない。
一瞬の幻のようだった




