122回目 ありふれた朝の贅沢
ガチャチャチャ、ガチャチャチャ。ゴトッ。 パカ
世界のどこかで争いが起きようと、見知らぬ誰かが一夜にして富を得ようと、この安アパートの薄い壁を抜けてくる風の冷たさは変わりません。
午前六時。古いアラーム時計が、心臓を叩くような無骨な音を響かせます。
私は重い瞼を押し上げ、冷え切ったフローリングに足を下ろしました。足裏から冬の気配がじわりと伝わり、思わず身震いしながら狭いキッチンに立ちます。
財布の中身は心許なく、昨日の夕食を少し削って買った食パンと、特売の卵が二つだけ。今の私たちにとっては、ほとんど全財産のようなものです。
世間では流行や景気の話題が絶えませんが、この半径数メートルの世界には、それらを気にする余裕などありません。
「……ん、おはよう」
背後から、眠気の混じった声がします。振り返ると、使い古した毛布を肩にかけた彼女が、目をこすりながら立っていました。ボサボサの髪と、少し頼りない笑顔。
私が今日を始める理由は、その笑顔の中にあります。
「おはよう。今、目玉焼き焼くから座ってて」
フライパンに落とした卵が、パチパチと小気味よい音を立てます。白身が固まり、黄身が震える。そのささやかな光景が、今の私にはどんな映画のワンシーンよりも尊く思えます。
私たちは安物のインスタントコーヒーを啜りながら、小さなテーブルを囲みました。
「ねえ、今日が終わったら、帰りにあの公園の桜、見に行かない? もう咲き始めてたよ」
彼女がパンの耳をかじりながら言います。
「いいよ。お団子でも買えたら最高だけど、今日は我慢かな」
「はは、そうだね。でも、花を見るだけならタダだから」
その笑顔を見るたびに、胸の奥にある“足りないもの”への焦りが、ふっと消えていきます。
お金があれば、もっと広い部屋に住めるでしょう。もっと良い服を着て、美味しいものを食べられるでしょう。
けれども、この狭い部屋に漂うトーストの香りと、彼女と交わす何気ない言葉の温度を、何かの数字と交換したいとは思えません。
玄関で見送るとき、彼女は私の肩を軽く叩きました。
「行ってきます。夕飯、楽しみにしてる」
「いってらっしゃい。気をつけて」
扉が閉まると、再び静寂が訪れました。
テレビをつければ、相変わらず騒がしいニュースが流れています。それでも、私の心は不思議と凪いでいました。
世間がどれほど移ろい、形を変えても、明日もまた同じ時間にアラームは鳴るでしょう。私は少し冷たいフローリングを踏み、卵を焼き、彼女の「おはよう」を待つのです。
お金はありません。けれど、失いたくない日常があります。
それだけで、私は今日という一日を静かに抱きしめて生きていける気がします。
おわり
※ありふれた日常を、贅沢なんて呼んでもよいでしょうか。




