121回目 火星の白い眼
ガチャチャチャ、ガチャチャチャ。ゴトッ。 パカッ。
地球から見ると、火星には大きな白い眼玉が一つ、張り付いているように見えます。
その正体は、オリンポス山の頂上に鎮座する天蓋機関が休むことなく吐き出し続ける、人工的な雨雲でした。
地球の半分ほどの重力しかなく、大気の層も極端に薄いこの星では、太陽からの容赦ない光線が動植物を焼き尽くし、街すらも溶かし、人々の皮膚を容易く傷つけてしまいます。だからこそ、テラフォーミングの拠点であるこの街を覆うように、分厚い雲の盾が生成されているのです。
その雲の下、太陽の光が届かない街は、常に暗く、冷たい雨が降り続いています。
地球からやって来たばかりの人々は、このじめっとした陰鬱な景色をひどく嫌います。ここには、彼らが知るような輝く青い空など存在しないのですから。
しかし、天蓋機関の維持管理技術者として赴任して数十年。私はこの雨が降り続く世界にすっかり馴染んでいました。
雨音の絶えない路地、苔むした壁、水たまりに反射する街灯の光。私は雨に慣れ、雨に依存し、この小さな閉ざされた揺りかごの中で生きる術を身につけていたのです。
そんなある日のこと。天蓋機関の中央制御室に、私を含む古参の技術者たちが長年待ち望んでいた通知が静かに点灯しました。
[土壌保水率および広域大気圧、閾値を突破。広域環境維持フェーズへ移行可能]
それは、この街を局地的に守り続けてきた盾が、ついに次の段階へ進む合図でした。
数十年にわたって降り続いた雨は、ただ街を濡らしていただけではなかったのです。大地深くに浸透し、凍てついていた火星の広大な土壌を密かに蘇らせ、星全体を包み込めるだけの大気の元を蓄積させ続けていたのでした。
私は万感の思いを込めて、システムの移行シークエンスを実行しました。オリンポス山頂の機関が、これまでとは違う深く穏やかな駆動音を響かせます。
眼玉のように一箇所に留まっていた分厚い雲が、ゆっくりと、しかし確かな風に乗って火星全土へと解けるように広がり始めました。
街を永遠に閉ざしていた鉛色の天井が薄れ、やがて幾つもの切れ間が生まれます。
人々がざわめきながら外へ出て空を見上げる中、雲の隙間から差し込んできたのは、かつてのような街を焼き焦がす凶暴な光ではありませんでした。新たに火星全体を覆い始めた大気の層と、薄く広がった雲によって濾過された、優しく暖かな光だったのです。
見上げると、そこには地球のものより少しだけ淡い、美しい薄紅色の空が広がっていました。
傘を打つ雨音が、少しずつ小さくなり、やがて止みました。
数十年ぶりに味わう柔らかな陽射しの中で、私はずっと寄り添ってきた雨との別れにほんの少しの寂しさを覚えながらも、私たちが長い年月をかけて育て上げた新しい星の空を、いつまでも眩しそうに見上げていました。
おわり
※月も火星も、開発が進み過ぎたあたりで、「これはまずい、保護しなければ」となって、結局、部分的に国指定の自然公園みたいになるんだと思います。




