115回目 失われたトキメキ
ガチャチャチャ、ガチャチャチャ。ゴトッ。 パカ
巨大な地震が実験場を襲ったとき、私は物資輸送用の量子テレポーテーション・ユニットのすぐそばにいました。床が割れ、天井が軋む音を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなるのを感じました。
崩落する天井、噴き出す有害なガス。それらから逃れるために、私は赤いライトで異常を知らせ続ける試作機の中に飛び込むしかなかったのです。
私が装置に飛び込んだのを確認した直後、仲間は起動のボタンを押しました。
物質を量子レベルまで分解し、別の場所で正確に再構築するという物質輸送技術。それは試験的には成功していたのです。
それからしばらく後、私は病院のベッドで、傷一つない体で目を覚ましました。医師たちは奇跡だと手を取り合って喜んでいました。
しかし、数日後。車椅子の私の前に現れた妻が私の手を握った瞬間、私は戦慄することとなったのです。
彼女の手の温もりも、記憶の中にある二人の思い出も、すべて思い出せました。けれども、愛おしいという感情の脈動だけが、どこを探しても見当たらないのです。
かつて愛した女性を、私は、知人の一人としか認識できなくなっていました。再構築のプロセスで、私の意識にあった何かが失われてしまったことを認めるしかなかったのです。
その日の夜、台所にて、私は思い切って彼女にすべてを打ち明けました。
「君との思い出は全部覚えている。でも、顔を見ても心が動かないんだ。今の僕は、君を愛していたあの男の精巧な偽物かもしれない」
長い沈黙の後、彼女は寂しげに笑って、私の手を強く握り返しました。
「なら、一から確かめましょう。私たちが誰なのかを」
翌日から、私たちは愛を再起動するための試みを始めました。
最初は、体験の記憶を掘り起こすことで、感情の記憶に刺激を与えることでした。彼女は古い写真や、初めて二人で行ったライブのチケットを並べました。
次は、日常を共有することでした。特別なことではなく、ただ一緒にコーヒーを淹れ、同じ曲を聴いて静かに過ごすことで、普段の関係を取り戻せないか試してみたのです。
そして、次は模倣と実践です。私は「夫ならこうするだろう」という正解を論理的に導き出し、彼女に優しく接することにしたのでした。
それから何日が過ぎても、心はずっと凪いだ海のように静かでした。ただ、それでも彼女が私の隣に居続けてくれるという事実は、今の私の心を温めてくれたのでした。
ある日の夕暮れ、ちょっとした事件が起きました。
台所で作業をしていた彼女が足をもつれさせ、包丁を持ったまま転びそうになったのです。
「危ない!」
考えるよりも先に、私の体は動いていました。そして彼女を抱き留めた瞬間、胸の奥でドクンと何かが跳ねたのを感じたのです。それは以前のような甘いトキメキではなく、胸の奥を強く掴むような、この人を失いたくないという強い意志だったように思います。
驚く私に、彼女は少しだけ誇らしげに言いました。
「今の、少しだけ『あなた』っぽかったわよ」
その時、私はようやく理解しました。量子テレポーテーションが何を奪ったのかなど、もう重要ではなくなっていたということを。
愛とは、勝手に湧き上がる魔法ではなく、毎日、この人を大切にすると決めて積み重ねる、地道な選択の結果なのだと。
季節がすっかり変わった頃、私の胸には新しい色の感情が根付いていました。それは、かつて持っていた情熱とは少し違う、静かで強固な信頼に近いものです。
これまで私は、消滅したかつての自分が、再構築された今の私に託した「最優先で彼女を大切にし続ける」という願いに応えるために、彼女を愛する男を演じ続けてきました。
失われた連続性は、もう戻らないでしょう。けれども、私たちは昨日までの選択という名の糸で、新しい自分たちを繋ぎ合わせています。
風が通り抜けるベランダで、私はもう一度彼女の横顔を見ました。そこには、確かに、以前とは違うかもしれない「愛おしさ」という名の温度が宿っていたのです。
おわり
※物質ではないですが、人間の魂も一緒にテレポートするんでしょうか。




