114回目 優しさのバトン
ガチャチャチャ、ガチャチャチャ。ゴトッ。 パカ
雨が降り出したのは、予報よりも一時間ほど早く、駅の軒下で立ち往生する人々で入り口は混雑していました。
軒先に連なるコンビニの前で、私は誰のものかもわからない傘の集合体に目をやると、その中から最もボロそうな一本を引き抜きました。
「借りるよ。いつか、誰かに返すから」
心の中でそう言い訳をしながら、私はその傘を開いたのでした。
持ち手には少しだけ傷があり、薄汚れたリボンが巻かれています。傘を回すと、骨が一本曲がっているのが目立ちました。灰色の生地も一部骨から外れています。風にあおられると、傘はバタバタと湿った音を立てたのでした。
強い雨に叩かれている冷たい街は、この傘のおかげでいつもより少しだけ優しく見えました。
ひょっとしたら、このよく傷んだ傘の持ち主が、今ごろコンビニで雨宿りをしていたりするのでしょうか。それとも、これよりもマシな傘を、すでに買っていたりするでしょうか。
私は、見知らぬ誰かの持ち物に守られながら、濡れずに目的地へと辿り着くことができたのでした。
一時間後、雨は嘘のように上がりました。雲の切れ間から差し込む西日が濡れたアスファルトをオレンジ色に焼き、水たまりが鏡のように空を映しています。
手元には、もう役目を終えた灰色のボロい傘があります。
家まで持ち帰るべきか、私は少し迷っていました。家にはすでに何本かの傘がありますし、何より、これを持ち帰ることは、自分のものにしてしまうようで、どこか後ろめたさを覚えたのです。
結局、私は、通りがかった図書館の入り口にある傘立てに、その傘をそっと差し込みました。
ここは雨宿りに来る人が多い場所ですから、またいつか急な雨が降ったとき、途方に暮れる誰かの助けになるかもしれません。
「またいつか、傘が必要な人のために」
そう呟いて、私は傘から手を離しました。
法律やルールという物差しで測れば、勝手に持ち去り、勝手に捨てたに過ぎないように見えるのかもしれません。図書館の管理人は、持ち主不明の忘れ物が増えたことに眉をひそめるでしょう。
けれども、あのアスファルトの匂いと、ボロい傘越しに透けて見えた灰色の空を思い出すとき、それが優しさのバトンだったと言い張ることができるような気がします。
空はすっかり晴れ渡り、私は手ぶらで歩き出しました。
灰色のよく傷んだ傘は、次はどこへと旅立つのでしょうか。
おわり
※傘の持ち主と、図書館の管理人さんにとっては、優しくないバトンですから。




