112回目 誰かのために
ガチャチャチャ、ガチャチャチャ。ゴトッ。 パカ
薄暗いアパートの一室で、彼は何もせず、ただ古びたソファに身を沈めていました。
窓の外では夕刻の街が慌ただしく動き出していますが、その喧騒は彼の世界とは無縁でした。
特に成し遂げたいことも、手に入れたい何かがあるわけでもありません。今日を明日へ繋ぐだけの、無為な日々を過ごすのみです。
自分の将来のために頑張るという言葉は、彼にとって砂を噛むような味気なさを孕んでいました。腹を満たし、雨風をしのげればそれで十分。それ以上の努力を払う価値が、自分という存在にあるとは思えなかったのです。
そんな彼が重い腰を上げ、深夜の配送バイトを始めたのは、ひと月前のことでした。きっかけは、妹がこぼした一言です。
「音楽、続けたいな。でも、やっぱり就職しなきゃかな」
贔屓目に見ても、彼女に才能があるのは確かでした。そして彼は、そのことを誇りに感じていたのです。
けれども、実家の家計が厳しいのもまた現実でした。彼女は自分の夢を諦めることで、家族の負担を減らすべきではないかと葛藤するようになっていたのです。
彼は知っていました。彼女が何度、指の皮が擦り切れるまでギターを練習していたかを。
空っぽな心しか持たない自分とは違い、彼女の心には守るべき輝きがあることを。
「就職なんてしなくていい。金なら、俺がなんとかしてやる」
ぶっきらぼうにそう告げたから、彼の日常は一変しました。
昼間のルーチンワークに加え、深夜は冷たい風に吹かれながら荷物を運ぶ生活。休息の時間は削られ、足は鉛のように重く、疲労は常態化していきました。以前の彼なら、一日と持たずに投げ出していたはずの過酷なスケジュールです。
けれども、不思議と力は湧き続け、尽きる気配は微塵も感じられませんでした。
信号待ちの最中、かじかむ指先を温めながら、彼は思います。これが自分の贅沢のためなら、きっと昨夜のうちに辞めていただろうと。しかし、この労働の対価が彼女の新しい弦になり、楽譜になり、ステージ上で笑うための時間になるのだと思うだけで、枯れ果てていたはずの気力の奥底から、熱いものがせり上がってくるのです。
誰かのためにというのは、独りよがりな自己犠牲とも言えるでしょう。ですが、空っぽだった自分に守るべきものという輪郭が与えられたとき、それは何物にも代えがたい目標へと変わったのでした。
自分のために出せない力も、誰かの笑顔を守るためなら、無限に引き出せるような気がしてなりません。
そして、働くことで満たされていく空白は、やがて妹の未来を繋ぐためだけのものではなく、彼自身が抱く小さな誇りへと変わっていったのでした。
東の空が白み始める頃、最後の荷物を届け終えた彼の胸の内は、冷え切った身体とは裏腹に、静かな充足感で満たされていました。妹の目標を支えたい。ただそれだけで、人は自分でも驚くほど強く、そして懸命になれるのです。
その日々の積み重ねが、やがて彼女の心にも別の影響を与えていきました。彼が差し出した手は、彼女にとって単なる金銭的な援助以上の意味を持っていたのです。
兄が自分の時間を削ってまで応援してくれている。その事実は、彼女にとって大きなプレッシャーであると同時に、折れそうな心を支える最強の盾となっていました。
音楽の道は厳しく、幾度となく自信を失いそうになる夜もありましたが、そのたびに彼女は兄の、労働で硬くなった手のひらを思い出したのでした。
「ここで私が諦めたら、兄さんの頑張りが無駄になってしまう。兄さんが信じてくれた私を、私自身が裏切るわけにはいかない」
自分一人のためなら投げ出していたかもしれない壁も、兄の期待に応えたい、いつか最高の景色を見せて恩返しをしたいという強い願いが、彼女を何度も奮い立たせたのでした。
そして数年後、彼女は決して小さくはないライブ会場のステージに立っていました。
スポットライトを浴びて歌う彼女の歌声に、かつての迷いはありません。兄が繋いでくれた時間に、彼女自身の必死な努力が積み重なり、その才能はついに開花したのです。
ライブの終わり、客席の隅で相変わらず所在なさげに立っている兄を見つけると、彼女はマイクを握り直し、誇らしげに胸を張って言いました。
「この曲を、私が一番苦しかった時に、ずっと支えてくれた大切な家族に捧げます」
その歌声は、彼の心の奥底まで響き渡りました。
守りたい人がいるから頑張れた兄と、その想いに応えるために強くなった妹。二人の『誰かのために』という不器用で優しい想いは、互いを高め合い、一人では辿り着けなかった未来を鮮やかに描き出していたのです。
おわり
※その頃、弟は‥‥‥。




