110回目 目に見えぬ者たちの交差点
ガチャチャチャ、ガチャチャチャ。ゴトッ。 パカ
都会の雑踏を闊歩するのは、至福のひとときでした。
誰の視線も気にせず、誰に道を譲ることもない。透明な肉体を手に入れた私にとって、この街は障害物の存在しない広大なプライベート空間も同然だったのです。
ですが、その全能感は、唐突な質量の衝突によって打ち砕かれました。
ドスッ、と鈍い衝撃が左肩に叩き込まれたのです。よろめいた私に、何もない空間から怒声が突き刺さりました。
「おい、気をつけろ。どこに目をつけてやがる」
どういうことでしょうか、何も存在しない場所から声だけが聞こえてきました。その後しばらく、警戒心の中に気まずさが混じったような、奇妙な沈黙が流れます。
「……透明人間か?」
漏れ出た呟きを逃さず、私は直感的に拳を固め、声の発生源へ渾身のパンチを繰り出しました。
スカッ。
拳は虚空を切り、わずかに何かをかすめただけだでした。相手の低い呻き声が、たじろいでいる気配を感じさせます。幸い、私は一言も発していません。沈黙を維持する限り、私の位置は特定されないはずです。
そこからは、この世で最も滑稽で、最も空虚な死闘が始まりました。
見えない敵を撃ち落とすべく、闇雲に放たれる打撃。かすかな風切り音、荒い息遣い、石畳を蹴る足音。私たちは互いの間合いを測りかね、虚無を睨み続けました。
私は無言という圧倒的優位を確信し、勝利を疑いませんでした。相手の呼吸を読み、次の一撃で仕留める……その刹那です。
背後から、鼓膜を揺らす轟音と狂暴な風圧が迫ってきていました。
大型トラックです。鉄の塊が、夜の路上を疾走してきていました。しかし、ドライバーの瞳には誰もいない、ただの空道しか映ってはいないはずです。
別々の方向に逃げ出そうとした私たちの足が、皮肉にも絡み合いました。見えない足が、見えない足に足を取られます。
「あーーっ!!」
相手の悲鳴と同時に、視界が白熱したヘッドライトの光に塗りつぶされました。
痛みを感じる余地すら残っていません。
街には、誰もいないかのような静寂がすでに戻っています。路上に打ち捨てられた、二つの“存在しない死体”を残して。
試合終了を告げたのは、無慈悲に響き渡るクラクションの余韻だけでした。
おわり
※透明人間って、目が見えないんですよね。




