109回目 聖なる家畜の遺産
ガチャチャチャ、ガチャチャチャ。ゴトッ。 パカ
買い物帰りの夕暮れ時。私は、見慣れたはずの街の風景が決定的に壊れていることに気づきました。
スーパーの自動ドアの前に佇む数頭の豚。その瞳には、家畜特有の怯えなど微塵もなく、まるで獲物を品定めするような冷徹な知性が宿っていたのです。
すべての始まりは、移植用の臓器を豚の体内で生成するバイオ企業が、その技術を応用して人間の脳細胞の培養を試みたことでした。
その過程で偶発的に異常な神経接続が形成され、人類を凌駕する知性と、運動野の異常発達による人間並みの動作模倣能力が急速に開花してしまったのです。
実験は成功したものの、直後に会社はあえなく破綻。倫理観を欠いた無責任な幹部たちは、世間への意趣返しとばかりに、人の脳を持つ豚たちをそのまま街へ解き放ってしまいました。
当初、人々は単なる家畜の脱走だと高を括っていましたが、その楽観はすぐさま絶望へと変わります。
街を占拠していく彼らの進撃は、驚くほど手際の良いものでした。まず配電用変電所を乗っ取ると、前脚の蹄を器用に扱って機器を操作し、一帯を完全な闇に沈めてしまったのでした。
そして暗闇の中で街全体を人質に取り、奪ったタブレット端末の合成音声を通じて、自らの絶対的な安全を要求してきたのです。
天才的な頭脳を持ち、動物本来の高い運動能力を誇示しながら歩く姿を前にして、人類はようやく理解しました。檻の中の獲物は、自分たちの方なのだと。
けれども、その支配はわずか三日で終わりを迎えます。
四日目の朝には、街から彼らが鼻を鳴らす音はすっかり消え失せていました。
恐る恐る避難所を出た人々が目にしたのは、路傍で激しく咳き込み、力なく横たわる豚たちの群れでした。
原因はひどく皮肉なものでした。クリーンルームで育った彼らの体には、外界の常在菌に対する免疫が皆無だったのです。
無菌状態から一気に外界の菌へ曝露されたことで、潜伏期間を経て三日目の夜に症状が爆発的に悪化。人間にとっては鼻風邪程度の菌やウイルスでさえ、彼らにとっては致死的な猛毒だったのです。
ただ、彼らは自らの滅びを、その高すぎる知能ゆえに瞬時に悟っていたのでしょう。死を覚悟した彼らが最期の数時間に選んだ行動は、破壊ではなく記録でした。
死の直前、知性が極限まで加速した彼らは、見事な連携で作業を進めました。
街中の壁、駅の通路、公園のタイルに至るまでが、彼らの遺した痕跡で埋め尽くされていたのです。
物理学者が生涯をかけて追った理論が簡潔な数式としてアスファルトに刻まれ、地下鉄の壁には未観測の銀河の地図が、毛細血管のような緻密さで描かれています。広場には、複雑な幾何学模様によって、生命の存在意義への答えまでもが提示されていました。
どのような経緯で、彼らは必要な基礎知識を得ていたのでしょう。しかも、残された僅かな時間だけで、人類が数千年かけても到達できなかった真理を一気に記述してみせたのです。
それを見た人々は言葉を失いました。自分たちが家畜として生み出した存在が、人類の知性を遥かに超越していたという途方もない事実に対してです。
現在、街の至る所には彼らを模した石像が建てられています。人々は彼らを偉大なる先師として崇拝するようになりましたが、その一方で、人類が豚肉を食べる習慣を手放すことはありませんでした。
私たちが数千年の歴史の中で到達できなかった宇宙の真理を、わずか一週間で解き明かした悲しき天才たち。人類が自ら作り出した実験体は、死の間際に私たちの神となったのでした。
私たちは今、彼らの遺した幾何学模様を、幼子が言葉を覚えるように一つずつなぞり続けています。
彼らの遺した記録によって、人類はようやく文明の進むべき道に気づくことができました。彼らが全滅した後の世界で、私たちはその沈黙の教えに従い、静かに新しい時代を築き始めているのです。
おわり
※豚のレバーは加熱しろ。




