108回目 何もしなくていい
ガチャチャチャ、ガチャチャチャ。ゴトッ。 パカ
最初にその人に出会った日のことを、私はもう思い出せなでいました。
ただ、気がついた時には、柔らかい毛布と温かいスープと、「君は何もしなくていいんだよ」という声に包まれていただけです。
その声は、雨音より静かで、眠気より甘く、私の思考をゆっくりと溶かしていきました。
部屋には危険なものは何もなく、代わりに“考えなくていい仕組み”が丁寧に並べられています。
食事は運ばれ、服は用意され、時間は告げられ、眠るべき瞬間には灯りが落とされました。
私はただ頷き、従い、そして少しずつ“自分で決める”という行為を手放していったのです。
「君は何もしなくていいんだよ」
その言葉は、檻の形をしていませんでした。だからこそ、檻だと気づくのが遅れたのでしょう。
ある日、ふとした拍子に、胸の奥に小さなざわめきが生まれました。理由はわかりません。ただ、窓の外の光がいつもより遠く見えただけのような気がします。
(……帰らなきゃ)
その思いが浮かんだ瞬間、私は立ち上がり、扉へと向かいました。
手を伸ばし、鍵に触れる。そこで、指が止まりました。
(回し方が、わからない)
驚きより先に、空白が広がりました。
ならばと電話を探し、手に取ってみます。長らく数字の並びを見つめるも、押し方が、思い出せません。
急に胸が冷たくなりました。世界全体が急に、私の知らない言語でつづられているように見えたのです。
「どうしたの」
背後から、あの優しい声がしました。
振り返ると、いつもと同じ穏やかな表情があります。怒っていませんし、私を責めてもいません。
ただ、心配そうに私を見つめているだけのようです。
「大丈夫。君は何もしなくていいんだよ」
その言葉が、今は恐ろしく聞こえました。
私は震える声で言いました。
「……帰り方が、わからないんです」
相手は少しだけ目を伏せ、静かに息をつきました。そして、まるで壊れ物を扱うように優しく、私の手から電話を取り上げます。
「忘れてしまったんだね。ゆっくりでいいよ。何なら思い出さなくてもいい」
その瞬間、私は悟りました。
ここにいる限り、私は二度と自分には戻れない。
私は、震える足で一歩、後ずさりました。
忘れてしまったのなら、もう一度覚え直すしかありません。逃げ方を、鍵の回し方を、数字の押し方を。
自分の世界へ戻るために。
私は壁面に埋め込まれた、通信装置と思われるものに手を伸ばしました。
見慣れない記号が並んでいます。どれが呼び出しなのか。どれが外部通信なのか。判断はできそうにありません。
いや、それ以前に、私は数字の上下すら思い出せなくなっていました。
再び胸が冷たくなりました。
自分の記憶が、少しずつ削られているような感覚という表現が正しいでしょうか。
「どうしたの」
背後から、あの柔らかい響きがしました。
振り返ると、異星人はいつもと同じ穏やかな光を放っていました。
相変わらず怒っていませんし、責めたりもしません。
ただ、その体が、私の混乱に対して“理解している”という色を帯びているだけです。
「大丈夫。君は何もしなくていいんだよ」
その言葉は、今や重力よりも重く圧し掛かっていました。
私は震える声で言いました。
「……あなたは、何?」
存在は少しだけ目を伏せるような態度で光を揺らし、静かに答えました。
「君を保護している者だよ。地球の環境は、君にはもう危険だから」
おわり
※少しは運動させてあげないと、病気になりますよ。




