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108/125

108回目 何もしなくていい

ガチャチャチャ、ガチャチャチャ。ゴトッ。  パカ

 最初にその人に出会った日のことを、私はもう思い出せなでいました。


 ただ、気がついた時には、柔らかい毛布と温かいスープと、「君は何もしなくていいんだよ」という声に包まれていただけです。


 その声は、雨音より静かで、眠気より甘く、私の思考をゆっくりと溶かしていきました。


 部屋には危険なものは何もなく、代わりに“考えなくていい仕組み”が丁寧に並べられています。


 食事は運ばれ、服は用意され、時間は告げられ、眠るべき瞬間には灯りが落とされました。


 私はただ頷き、従い、そして少しずつ“自分で決める”という行為を手放していったのです。



「君は何もしなくていいんだよ」


 その言葉は、檻の形をしていませんでした。だからこそ、檻だと気づくのが遅れたのでしょう。


 ある日、ふとした拍子に、胸の奥に小さなざわめきが生まれました。理由はわかりません。ただ、窓の外の光がいつもより遠く見えただけのような気がします。


 (……帰らなきゃ)


 その思いが浮かんだ瞬間、私は立ち上がり、扉へと向かいました。


 手を伸ばし、鍵に触れる。そこで、指が止まりました。


(回し方が、わからない)


 驚きより先に、空白が広がりました。


 ならばと電話を探し、手に取ってみます。長らく数字の並びを見つめるも、押し方が、思い出せません。


 急に胸が冷たくなりました。世界全体が急に、私の知らない言語でつづられているように見えたのです。


「どうしたの」


 背後から、あの優しい声がしました。


 振り返ると、いつもと同じ穏やかな表情があります。怒っていませんし、私を責めてもいません。


 ただ、心配そうに私を見つめているだけのようです。


「大丈夫。君は何もしなくていいんだよ」


 その言葉が、今は恐ろしく聞こえました。


 私は震える声で言いました。


「……帰り方が、わからないんです」


 相手は少しだけ目を伏せ、静かに息をつきました。そして、まるで壊れ物を扱うように優しく、私の手から電話を取り上げます。


「忘れてしまったんだね。ゆっくりでいいよ。何なら思い出さなくてもいい」


 その瞬間、私は悟りました。


 ここにいる限り、私は二度と自分には戻れない。


 私は、震える足で一歩、後ずさりました。


 忘れてしまったのなら、もう一度覚え直すしかありません。逃げ方を、鍵の回し方を、数字の押し方を。


 自分の世界へ戻るために。



 私は壁面に埋め込まれた、通信装置と思われるものに手を伸ばしました。


 見慣れない記号が並んでいます。どれが呼び出しなのか。どれが外部通信なのか。判断はできそうにありません。


 いや、それ以前に、私は数字の上下すら思い出せなくなっていました。


 再び胸が冷たくなりました。


 自分の記憶が、少しずつ削られているような感覚という表現が正しいでしょうか。


「どうしたの」


 背後から、あの柔らかい響きがしました。


 振り返ると、異星人はいつもと同じ穏やかな光を放っていました。


 相変わらず怒っていませんし、責めたりもしません。


 ただ、その体が、私の混乱に対して“理解している”という色を帯びているだけです。


「大丈夫。君は何もしなくていいんだよ」


 その言葉は、今や重力よりも重く圧し掛かっていました。


 私は震える声で言いました。


「……あなたは、何?」


 存在は少しだけ目を伏せるような態度で光を揺らし、静かに答えました。


「君を保護している者だよ。地球の環境は、君にはもう危険だから」



おわり

※少しは運動させてあげないと、病気になりますよ。

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