104回目 初夢
ガチャチャチャ、ガチャチャチャ。ゴトッ。 パカ
「これって、私のことですか?」
彼女の声に振り返った瞬間、自分の心臓が大きく跳ねるのを感じました。
彼女が見ていたのは、表紙に何も記されていない大学ノート。内容は、今年の一月二日から付け始めた僕の夢日記でした。
言うまでもなく、それを無造作にテーブルの上に置いておいた自分が悪いのです。彼女を咎めるつもりなど、微塵もありませんでした。
「あっ、それは……」
思わずコーヒーを淹れる手を止めて彼女に向き直りましたが、何と答えればいいのか、咄嗟に言葉は出て来ませんでした。
最初のページに記されていたのは、今年から夢日記を付けようと思い至るきっかけとなった、大切な初夢の全貌だったからです。
初夢の内容を決して人に話さず、心の中に留めて忘れずにいれば、いずれそれは正夢となる。幼い頃より信じてきた、おとぎ話のような言い伝えです。
そのような迷信を信じていると言えば、単純に痛々しい人間と思われるでしょう。
ですが、今回に限り、心の底から正夢になってほしいと思える内容だったため、僕は誰にも、神様にさえも秘密にして守り抜いてきたのでした。
一富士、二鷹でもなく、ましてや宝船でもありません。
冷たい冬の朝、目覚めたときに胸に残っていたのは、温かな誰かへの恋心でした。
夢の中で僕の手を握り、名前を呼んでくれたその人の横顔について、僕は一言も明かさぬまま大切に育ててきたのです。
だからこそ、現実の街角で彼女に再会したときの衝撃はすさまじく、“運命”という言葉は安っぽすぎて使いたくないほどでした。
その場で告白し、デートまでこぎつけた喜びは例えようもありません。
ただ、夢の細部が現実の彼女と重なるたびに、自分の振る舞い次第で世界の均衡が崩れていってしまうのではないかというような、掴みどころのない緊張感に襲われたのでした。
僕は、この初夢の話だけは、彼女に明かさないでおこうと心に決めていたのです。
しかし、今。彼女の瞳は、僕が綴った「夢の中で君に恋をした」という青臭い告白の記録を、一字一句逃さず捉えていました。
「初夢って、秘密にしておけば叶うって聞いたことがあるんだけど」
彼女がぽつりと呟きました。そしてそれを聞いた、僕は天を仰いですべて観念したのでした。
「ずっと誰にも、君にも言わないで隠しておこうと思っていたんだけど、まさかこんな形で知られちゃうなんて……。もう、終わりかな」
初夢が正夢として完成するためには、その神秘性が守られなければなりません。僕の中で守り続けてきた奇跡は、彼女の視線という他者による認知を受けた瞬間に、霧散してしまったように感じられました。
コーヒーカップを並べていた僕の肩を、柔らかな感触が包みます。
見上げると、彼女は日記から目を離し、悪戯っぽく、けれど少しだけ潤んだ瞳で僕を見つめていました。
「心配しなくていいよ。だって、これでお相子なんだから」
「お相子?」
「私もね、見たの。今年の初夢」
「ひょっとして!?」
「あなたと出会う夢、見ていたの。ずっと秘密にしていたけれど、この部屋に入ったとき、あ、夢と同じ場所だって確信しちゃったから」
二人の間に、静かな沈黙が流れました。
秘密は開示され、ルールは破られ、魔法は解けてしまったのかもしれません。けれども、僕の目の前には、夢の中よりもずっと鮮やかな体温を持った彼女が立っています。
「夢は、もう叶ったんだよ。これからは秘密じゃなくて、二人で話せる思い出にしていこう?」
彼女の手が、日記の上で僕の手に重なりました。
初夢という名の長いプロローグが終わり、ようやく僕たちの“現実”という本編が始まったのです。
夢が二人を結んでいたのだと知ったとき、僕の不安は少しずつ溶けていきました。
冬の終わりの柔らかな光が、開かれたままの日記を白く照らしています。
僕たちは互いの夢について語り合いました。
日記はもう秘密ではなくなりましたが、代わりに同じ温度でお互いを想う気持ちが、確かな形となって芽生えています。
彼女は日記を閉じ、あらためて僕の手を取りました。それは、言葉にしなくても伝わるものがあると、生まれて初めて知った瞬間だったのでした。
おわり
※元旦、二日、三日、どの朝に見たのが初夢かっていうのは、地方によって変わるらしいんですよね。




