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エピローグ・2

 家族を失って、親戚の家をたらい回しにされていた頃。私は居場所を失っていた。

 預けられる先では厄介者扱いで、心と体に傷を負わされる毎日だった。

 学校も所詮はその延長で、行きたくなかったが、行かなければ名ばかりの保護者にすぐばれてしまう。

 どこかに行ってしまおうと思っても、子供の足で行くことが出来る範囲は高が知れていた。あの連中は誰も私を心配などしていないのに、世間体とやらは大事らしい。問題を起こせば、世間の目が届かないところで酷い目に遭わされた。

 鬱々とした想いを抱えたまま、家ではただひたすら周囲のご機嫌を伺い、学校では休み時間の度に人の居ない教室を探す毎日だった。

 そんな時、たまたまどこかにあった本に載っていた狼の絵を目にした。

 一人でも強く生きていくその狼の絵に、私は強く憧れたのを覚えている。その狼が、本来群れで生きるものだと言う事実は、今思えば随分と皮肉なものだ。

 それからしばらくして、ふと妙なことに気がついた。

 きっかけが何だったのかは今でも分からない。あるいは全てがきっかけだったのかもしれないが。

 私には黒い影のような狼が見えるようになっていた。その狼が自分の意思で動くことを理解するのに、そう時間は必要としなかった。

 私の胸は、久しく忘れていた高鳴りを思い出した。

 そして私は、その激情に突き動かされるまま、保護者を騙る敵たちを貪り屠った。

 彼らが魅せた、恐怖に引きつった表情、絶望に染まった呻き声、怯えた瞳、許しを請う仕草。それら全ては、私に、今まで感じたことの無かった昂揚感を与えてくれた。

 その時からか、私は今までの怨嗟を振りまくようにして、幸せを感じている連中や私を見下ろしてた連中を葬ることに享楽を見出した。

 ――けれど、時を重ねる毎に、それ以外の何かが心に入り込んで来ていた。

 その気持ちの正体に気付かないふりをしたまま、私は大学へ進学することになり、そしてそこで一人の男子に出会う。

 彼は不思議な人だった。

 その視界には何も映っていないようで、その心には何も抱いていないようで、一人そこに佇んでいて、そのことを気に病むことすらないように見えた。

 幸せそうに微笑む人達も、私の過去を知って同情の眼差しを見せる人達も受け入れることが出来なかった私は、幸も不幸も知らなそうな、周囲に無関心であり続けるその人に惹かれていた。

 結局、彼はそんな自分の世界を壊してしまったようだったが……誰のお陰かは知らないが、余計なことをしてくれたものだ。

 …………

 彼が言っていた言葉を思い出してしまう。

『――手を伸ばすことを知らないって言われたんだ』

 彼はきっと、手を伸ばした先にある物を知らない。

 差し出された手の先には、歪んだ偽善と飾り立てられた憐憫ばかりだった。手を差し伸べるその行為に陶酔するだけで、その手が取られれば迷惑そうに振り払う。そんな世界で、手を伸ばしてどうなるというのだろう。

 誰も私を見ていない。見てるのは私の後ろに出来てる道だけ。

 手を伸ばす度に、深く悪意に沈んでいくだけだった。

 沈まないように、屍を積み上げて立てる場所を作って来ていたけど、ふと周りを見渡したら、そこには闇が広がるだけだった。

 寄り掛かることの出来る何かも存在せずに、遠くに見える微かな光に、憎しみと――羨望を抱いていることに気がついて。だからって、その想いに正面から向き合えるだけの余裕はきっともうなかったんだろう。

 誰もが私の通ってきた道を見て、その瞳に自尊の光を宿す。

 誰もが私の作ってきた道を見て、その瞳に拒絶の翳を落とす。

 ――彼なら私のことを知ったとしても、何一つ関心を示さず、それまでと同じように接してくれるかもしれないと、そう思っていたのだろうか。

 闇の中で一人きり。私は手を伸ばす。

 遥か彼方に見える幻想にも似た光に、憧憬を携えて。

 届くはずがない。どうせその手は闇の中に溶けて消えてしまう――はずだった。

 不意に指先に何かが触れて、私の意識は現実に引き上げられる。

「あ……」

 聞き覚えのある、耳障りな声が聴こえた。

「だ、大丈夫……ですか?」

 声の方へと視線を向けると、あの子がこちらを覗きこんでいる。

「なんで……あんたが……」

 発した言葉は、自分でも驚くほど弱々しかった。

 ふと、指先に視線を向けると、そこには彼女の手があった。

 視線に気がついたのか、彼女は慌てた様子で手を引っ込め、

「あ、あの……っ、お、お水持ってきますね」

 そういい残し、そのまま部屋を出て行ってしまう。

 体を起こそうとして、腹部に痛みを覚える。その痛みで、彼のことを思い出してしまった。

 ――私は、助けられたのだろうか。

 彼があの子を救おうとした時、その手はもう、私に差し伸べられることはないと思ったはずなのに。

 気だるさを覚えながらぼんやりとしていると、あの子が部屋に戻ってくる。それと同時に現れた訪問者に、私は表情を険しくした。

「思った程、体調は悪くなさそうだな」

 眼帯の女は、日常の会話をするような気軽さでそう言った。

 私は不快感を顕にして黙り込んでいたが、この女はそんなことを意にも介さないらしい。変わらない口調で一人勝手に話を続ける。

「ところで箕柳玖珠葉。確認させて貰いたいことがある」

 女はそこで一呼吸挟んでから続ける。

「お前はその力を、四月に利用したか?」

「……さぁ? どうだったかな……」

 わざわざ答えてやる義理はない。私は嘲笑を含んで返事をした。

 しかし女は、なんら気にする素振りも見せなかった。

「四月に二人、五月に二人。行方不明者が出ている。恐らくもう生きてはいないだろうが、お前に関係があるのは五月の二人で、四月の二人は無関係。そう言う認識でいるんだが」

 遠まわしな言い方に、苛立ちを覚えた。そこまで分かっているのなら、何も確認する必要などないだろう。

「お前が手を出した二人のうち、お前と同じような力を持った人間は含まれて居なかったか?」

「……そこまで知ってるなら、私に訊くことなんてないんじゃないの」

「確認したいのはその人間が今どうなっているかだ」

 女の左目は、じっとこちらを見つめていた。何を考えているのか分からない。

 私は吐き捨てるように、嘲り笑った。

「もう居ないよ。私が、殺した」

「そうか。それなら手間が省ける。助かった、礼を言う」

 想定外の返事をされて、私は虚を衝かれる。

「何言ってるの……」

 気がつけば、そう尋ねていた。

「私が仕事としてやるはずだったことを、お前が終わらせたんだ。礼を言うのはおかしい事でもなんでもないだろう」

 瑣末なことを話すようなその気安さに、私は言葉を失っていた。

「何か勘違いしているようだから言っておくが――」

 女は小さくため息を挟む。

「我々は別に、正義の味方を気取っているわけではない。与えられた仕事に関係のない所で何が起ころうと、自らに火の粉が降りかからない限りはどうでもいいことだ。四月に起きた事件の犯人がもう居ないのであれば、今回我々が解決すべき案件は完了している。お前が何をしていたとしても、私の知るところではない。もっとも、今後お前が仕事の対象になるか、あるいは私に害を成すようなことがあればその限りではないが」

 言い終わり、女の視線が私を捉える。しかしそれも一瞬のことで、話が終わったと思ったのか、そのまま背中を見せると部屋を出て行こうとする。

 女は部屋から出る際、一度だけ足を止めて振り返った。

「あぁ、そうだ。後で少年に礼を言っておくと良い。死に掛けの体でわざわざお前を運んだんだ。感謝していなかったとしても、労いの一言を掛けて罰が当たるわけではないだろう」

 そう言い残し、今度こそ退室していく。

 最後に放たれた言葉に、気持ちがざわついた。

 感謝の気持ちなんて全く湧いてこなかった。ただ、彼が何を思って私を助けたのか。それを想像すると気分が悪くなる。不安なのか、恐怖なのか、苛立ちなのか、怒りなのか。それすらもよく分からないのが尚更だった。

 気がつけば、部屋に残された――確か椚恵那とか言っただろうか――例の子がこちらを見ていた。

 私がわざとらしくため息をついて醒めた視線を向けると、体を強張らせて息を呑むのが傍目にも分かった。

 しかしいくら待っても話しかけてくるわけでもなく、このままでは埒が明かない。

「……何か用でもあるの?」

「あ……いえ……その……」

 それだけぼそっと口にしてまた黙り込む。

 こちらはあからさまに刺々しい態度を取っているというのに、相手は全く距離を置こうともしない。それどころか、その顔には微かに笑みさえ浮かんでいるように見えた。

「……何で、無事なわけ? 殺せたと思ったんだけど」

 言い表しようのない感情を抱え損ねていると、そんな言葉を口にしていた。

「い、いえ。無事では、無かったんですけど――」

 そう言って語られた内容は、正直馬鹿馬鹿しすぎて信じられるようなものではなかった。けれど、それ以上に信じられなかったのは、この子の表情だ。

 自分のことを明確に殺そうとした相手に、なんでそんな表情を向けられるんだろう。実は別人だとか、記憶喪失だとか。そうでなければ頭がおかしいとしか思えない。

「……」

 私のことを知っている人間が、こんなにも生温い表情を見せたのは、いつ以来だっただろうか。

 あぁ――気持ち悪い。

 私は倒れるようにして、ベッドへと体を横たえた。

「だ、大丈夫ですか?」

 あの子の慌てた声が聴こえた。

「……用がないなら、出て行ってくれない」

 私は、彼女の方を見ることが出来ないまま、そう呟いた。

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