エピローグ・3
五月十四日、月曜日。
耀は大学へ顔を出していた。
玖珠葉との一件の後、土曜日曜と愁慈の家での治療を兼ねた逗留を経て、耀は日常生活へと戻っていた。
まだ左腕が上手く動かないときがあるが、これは放っておけば近いうちに治るらしい。ちなみに遼平はまだ愁慈の家に居て、明日か明後日に解放されると伝えられている。
時刻は十時半を回り、丁度一時限目が終わった所だ。
今の講義は、玖珠葉も取っているはずだった。しかし、彼女の姿はなかった。
耀は自分の右手を見つめる。
あの時の――玖珠葉を貫いた時の感触がまだこびり付いている。僅かな抵抗を感じながら、柔らかい肉に刀身が埋まっていく感触。
きっと一生拭えないのだろう。
ただ、思いのほか嫌悪感も罪悪感も感じていなかった。
ああしなければ、自分が死んでいたかもしれないから、と正当化するつもりはなかったし、彼女は生きているから、などという結果論を口にするつもりもなかった。それなのに、彼女に対してそういう感情を抱くことが無かった。あるいは、自分がしたことに対しての認識が薄いだけなのかもしれないが――いずれにしても――
耀は空を見上げた。突き抜けるような青空が広がっている。
清々しいほどに澄んでいるその空とは反対に、胸の底には今まで無かった澱が溜まっているような感覚がして、見えない何かが心に支えているようだった。
玖珠葉は、土曜の夜に出て行ったらしい。その場に居合わせたと言う秋穂が言っていた。ただ一言、「箕柳さんなら昨晩帰りましたよ」と、あの話好きな少女にしてはそれ以上何も語らずに。
そんなわけで耀が気づいた時にはもう玖珠葉の姿は無く、結局あれから一度も姿を見ていない。あの後、自分が玖珠葉に関して知ったことと言えば、どうやら桜花が探していた行方不明者を出していた犯人は彼女ではなかった、ということくらいだった。
軽くため息をついて、視線を地上へと戻す。
二時限目の講義のために教室を移動しなければならない。しかし、耀は出席する気にはなれず、駅を目指すことにした。
確信があったわけではない。ただ、何となく。そうとしか説明のしようも無い、いわゆる勘だ。
耀は、ゴールデンウィーク頭に玖珠葉と出会った時のことを思い出しながら、あの時と同じように人気の無い遊歩道を歩いていた。
改めて振り返ると、まだあれから二週間も経っていないことに気がつき、少し驚いてしまう。
たった二週間で、随分と色々なことがあったものだ。自分を取り巻く環境は、大きく変化した。そして、自分自身に変化があったのかどうかは分からないが、恐らく二週間前なら、講義をサボってまで何かをするようなことはなかったように思う。
前方のベンチに人影を認め、歩く速度を落とした。
彼女はきっとこちらに気づいているのだろう。しかし、こちらを見ることはせず、その場から動くこともしなかった。
「……箕柳さんが講義サボるなんて、珍しいね」
「…………別に、そうでもないよ」
玖珠葉はやはり、こちらを見ようとはしなかった。淡々とした声からは、彼女の感情を読み取ることも出来ず、耀は会話を続ける材料を見つけられずにいた。
晴々とした風景に似つかわしくない、少し重い空気が辺りを支配しているようだった。
耀が言葉を探しあぐねていると、玖珠葉の気の無い声がする。
「こんなところに、何しに来たの?」
「何しにってわけでもないんだけど……何となく、箕柳さんが居るような気がして」
「……何か用?」
「いや……用事があるってわけでもないんだけど……」
「……何それ」
そして会話が途切れる。
そもそも玖珠葉に会ったとしても、特に話したいことがあったわけでもない。自分は一体何を考えてここまで来たのだろうか。
玖珠葉は前方の欄干へと、表情に乏しい顔を向けたまま黙り込んでいる。今まで基本、話しかけられる側だった耀にとっては、上手く会話を切り出すのが困難で、玖珠葉がそんな調子である以上、自然と沈黙が下りることになる。
しばらく、二人とも口を閉ざしたままの時間が過ぎた後、玖珠葉がぽそりと口を開いた。
「なんで……」
その声は、今まで聞いたことがない程に不安の色を帯びていて、その後に続くいくらかの沈黙がそのことを強調していた。
「……なんで……私を助けたの?」
「なんでって……」
耀はあの時のことを思い返した。しかし思い出そうとしても、あの時の記憶がおぼろげだった。玖珠葉を刺した時の感触は鮮明に覚えていると言うのに、その後のことはほとんど全てがあやふやだ。
耀が考え込んでいると、玖珠葉の鬱屈した静かな声がする。
「自分を殺そうとした人間なんて、放っておけば良かったのに」
「ん……それは、まぁ……」
耀は苦笑しながら言葉を濁した。
確かにそう言われればその通りかもしれない。しかしはっきりしない記憶の中にも、一つだけ思い当たることはある。
「……自分の方を見てくれてる人が、自分のせいで死ぬのは嫌なことだって。あの時初めて気がついたから」
「……」
「だから、放っておきたくなかったんだと思う。……まぁ刺した本人が言っても、って感じはするけど」
最後は冗談交じりに言ってみたものの、失言だった気がしてくる。こう言うところは今までろくに対人コミュニケーションを取っていなかったツケを感じてしまう。
再び会話が途切れ、後ろに生い茂る木々の擦れる音だけが響く。欄干の先にある少し濁った水の流れが、五月の日差しを受け止めて鈍く輝いていた。
ゆっくりと、玖珠葉が立ち上がりこちらへと振り返る。
「羽柴君は、変わっちゃったね」
「……そう?」
「前はそんなに他人のことを気にかける人じゃなかったし……きっとこんなところに来るために、わざわざ講義、サボったりなんかしなかったよ」
「そうかな」
耀は空を見上げる。降り注ぐ陽の光に目を細めながら続けた。
そういえば、以前もここでこうして空を見上げたことがあった気がする。あの時に比べれば、確かに変わったのだろう。
ふと視線を戻すと、玖珠葉がじっとこちらを見つめていた。しかし目が合ったのは一瞬のことで、彼女はすぐに目を伏せた。
「用がないなら、もう行くね」
玖珠葉はそう言うと、目を合わせることなくその場を去ろうとする。
「――さよなら」
すれ違いざまに呟かれた言葉が、木々のざわめきを縫って融けていった。
その声が、耀の心に沈む澱を濁らせていく。
そして次の瞬間――
「――っ」
小さく声を漏らした玖珠葉が驚いた表情でこちらを振り返る。
だが、それ以上に驚いているのは耀自身だった。
思わず伸ばした手は、玖珠葉の手首を掴んでいた。自分の行動に意表を突かれるというわけの分からない状況に、耀は呆然としてしまう。
先に我に返ったのは玖珠葉だった。
「……何?」
「っ……あ……と……」
妙な威圧感を感じて、言葉に詰まる。
「ひ、昼飯食べない?」
混乱した状況で慌てて出した言葉は、玖珠葉の顔に怪訝な表情を浮かばせた。
「はぁ?」
玖珠葉は手を振り払いながら訝しげに続ける。
「……正気? 自分を殺そうとした相手に」
「あー……まぁ、でもそれは、お互い様な感じもするし」
「お互い様、ね……羽柴君に殺意があったとは思えないけど」
小馬鹿にしたような声と共に、玖珠葉の瞳に剣呑な光が宿る。
「呆れるくらいお気楽な羽柴君に教えといてあげる。私は……今まで何人も人を殺してるんだよ……きっとこれからも。そんな人間とのん気に一緒に居られるの? 二人きりで居たら殺されるかもとか思わないの? それを知ってもまだ、そんな目で私を見れるわけ?」
耀は、あの晩、恵那と会話をしていた玖珠葉を思い出した。あの時はそれどころではなかったが、こんな風に、周りの全てを遠ざけようとしていたのだろうか。
彼女の気持ちは分からない。欲しい言葉も分からない。そもそも自分にそんな器用な真似が出来るわけもない。なら、せめて、思い残すことが無いように伝えよう。
玖珠葉の視線を正面から受け止め、そらさずに、見返す。
「正直、あれこれ言われても、実感ないんだよね。椚さんも遼平も、俺も生きてて、なんだかんだで俺は箕柳さんが誰かの命を奪う所を見てないし。今だって、俺を殺す気があるようにも見えないし」
「……嘘かもしれないって?」
「嘘でも本当でも、俺にとってはあんまり変わらなくてさ……俺の知ってる箕柳さんは、そういう箕柳さんで……俺が知らない所で俺に関係のない何かがあっても、興味が無いって言うか……」
胸の底の澱を掬い上げても、それが上手く言葉にならない。耀はもどかしさを覚えながら、言葉を探し続ける。
「別に……誰かの命を奪うとか……そう言うことを肯定するわけじゃないけど、箕柳さんがやってきた事の是非は、俺には判断出来ないし……例えば、椚さんか遼平か、どっちかが死んでたらたぶん、こんな都合のいいことは言えなかったんだろうけど、今の俺の生きてる世界と関係の無い世界の出来事なら……どんなに自分本位だと言われても、俺の世界には影響が無くて……」
この先、自分の歩く道と玖珠葉の過去がいつか交わるとしても、その時はその時だろう。
「箕柳さんの過去は今の箕柳さんの一部だし、関係ないわけじゃないんだけど……それは俺にとっては……テレビを通して見てるような遠い世界の出来事なんだよ」
徐々に何を言っているのかわからなくなり、耀は思わず頭をかいた。
言いたいことを過不足なく言い切ることが、こんなにも難しいとは思っても見なかった。
「……私の過去は私の一部って……その通りだよね」
途切れた言葉に挟むようにして、玖珠葉が言う。
「羽柴君がどう思ってようと、私の過去が変わるわけじゃない。羽柴君はまだ私のことを知らないだけだよ。知ったらきっと――」
「知らないし、別にそれを聞くつもりもない」
玖珠葉の声を遮って、耀は断言した。
言葉を遮られた玖珠葉が、不意を衝かれた様子で目を瞬かせる。
耀はその瞳を見つめたまま、言った。
「別に、相手の全てを知らなければ一緒に居られないわけじゃないし」
その言葉に、玖珠葉の目に宿る光が揺れた気がした。
「話したくないことも、聞きたくないことも、知られたくないことも、知りたくないことも。そんなことまで晒し合わないと成り立たない人間関係なら、面倒くさくてしょうがないと思わない?」
玖珠葉の返事は無い。彼女の視線は自分を捕らえている、その瞳が何を見ているのかはわからない。
耀は少しの気恥ずかしさを押さえ込んで、そっと付け加えた。
「……いつか、話したいと、そんな時が来たら……その時はちゃんと聞くけど」
風が吹く。木々を揺らす涼やかな風は、二人の会話をさらったかのように、その後に静寂を残していった。
耀はいつだったか、恵那に言われたことを思い出した。
――あぁ、沈黙が気まずいって、こう言うことか。
随分と長い静寂を破り、やがて――
「馬鹿みたい」
玖珠葉の呆れた声がする。そのままくるりと背中を見せると歩き出す。
その背中に掛ける言葉も無いまま、耀は立ち尽くすことしか出来なかった。
自分の浅はかな思いだけでは、結局のところ玖珠葉には届かないのだろうか。これ以上は伝えられる言葉も、術も無い。
遠ざかる玖珠葉の背中を眺めるのも諦めて、耀がその場を去ろうとした時だった。
玖珠葉が振り返る。
「何してるの?」
「え?」
「昼ご飯。奢ってくれるんでしょ」
「え……え、奢る?」
「快復祝い」
玖珠葉はそう言うと、腹部を押さえて見せた。
「……俺の快復祝いは?」
「今度、学食で何か奢ってあげるよ」
「それ、釣り合わなくない?」
どこまでも青く澄んでいる空から降り注ぐ光は眩しかったが、以前のように攻め立てられる感じはしない。少しは変われたのだろうか。
再び歩き出す玖珠葉を、耀は慌てて追いかける。
「そう? 気のせいじゃない?」
そう答えた玖珠葉の口元には、初めて見る悪戯めいた笑みが浮かんでいるように見えた。




