五月十日・5
二階のリビングでの晩餐は、耀にとっておよそ一ヶ月半ぶりの一人ではない夕食になった。その最中、話の流れで――またもや秋穂の勢いに負けて――今晩は泊まっていくことになっていた。
賑やかな食事の後、秋穂が中心になっていた団欒も終わり、耀は入浴を終えてから与えられた部屋のベッドで寝転んでいた。
階下では今、秋慈が遼平に治療を施していて、秋穂は今しがた起きた遼平のための食事を作っている。
手持ち無沙汰になった耀は、喉の渇きを覚えて水を貰いに行くために部屋を出た。
キッチンに居た秋穂から水を貰い、部屋に戻ろうと三階に続く階段の横を通った時、ふと階段から人の気配を感じた。
耀は何故かそれが気になり階段を上がっていく。
階段を上がりきった左手にはガラスの扉があり、その先は少し広めのテラスのような空間になっている。二階の天井部分に出ることが可能になっているようだった。
その扉が半開きになっていて、テラスの中央で空を見上げている少女の姿があった。一瞬その少女がが恵那であることに気付かなかったのは、彼女がいつも着けていた髪飾りをしていないからだということに気付く。
「あれ……羽柴さん?」
恵那がこちらの存在に気付き振り返る。両手に抱えたマグカップからは白い湯気が立ち上っていた。
「こんな造りになってるんだ。珍しいね」
「そうですね」
静かに言って、恵那が再び空を見上げる。
「辺りに灯りがないせいか、星が綺麗で。秋穂がちょっと、羨ましいです」
「あれ……此処に住んでるわけじゃないの?」
「あ……結構泊まることは多いですけど、一応、桜花さんと一緒に住んでる家が別にあります」
恵那につられて空を見上げると、確かに此処が都市部に近い場所だとは思えない程の星空が広がっていた。
辺りは静まり返っていて、恵那の言うように灯りが少ない。一面に広がる夜空をぼんやりと見上げていると、吸い込まれそうな錯覚に陥る程だった。
「これは、確かに……すごいね……」
耀の言葉に恵那は小さく微笑んだ。
「ですよね。そろそろ寒さも和らいできて、お風呂上りにぼーっとするのが結構好きなんです」
それで髪飾りをしていないのか、と思いながら恵那を見ていると、恵那が不思議そうな表情を浮かべた。
「ど、どうしました?」
「あ、いや……さっき、一瞬誰だか分からなかったんだけど、いつもの髪飾りをしてないからかと思って」
「あぁ……そうですね。外すのはお風呂に入るときと寝るときくらいで、いつも着けてますからね」
恵那はそう言うと手櫛で髪を梳いてみせる。
トップでまとめていた髪は無造作に後ろに流れていて、少し癖のあるそのロングの黒髪は、いつもより大人びた印象を見せていた。
「随分と気に入ってるんだね」
「気に入ってる、と言うよりは……お守りみたいなものですから」
「お守り?」
少し懐かしむように、恵那は闇に溶け込んだ小高い山の稜線方向を眺めた。
「はい。桜花さんに貰った、お守りです」
耀はその視線を追うようにして、広がる夜闇を覗き込む。
恵那が手にしたマグカップはどうやらココアが注がれているようで、風に乗って時折その香りが、石鹸の香りと共に耀の鼻腔をくすぐった。
恵那はココアを一口飲み込む。
「私は昔……一人ぼっちだったんです」
夜の空気を振るわせるその声は、決して悲しさを伴ったものではなかった。
「苦しくて、悲しくて、辛くても……誰も私を助けてはくれないし、守ってもくれませんでした」
紡がれる言葉とは裏腹に、その声は遠い昔を孤愁するように聴こえた。
「……今思えば、当たり前だったんですけど……子供だった私は、そんなことには気付けずに……昏い想いを抱えきれなくなってて……」
恵那は一度だけ、表情を消したまま目を閉じ、
「私が、もうどうしようも無くなったときに……桜花さんが助けてくれたんです」
すっと開くと頭上に広がる星空を眺めた。
「……その時、桜花さんがくれたんです。『常にお前を守ってやることは約束出来ない。その代わりと言ってはなんだが、これを受け取ると良い。身に着けている者を守護する輝石の髪飾りだ』って。その時の私は髪が短くて、最初は着けるのにちょっと違和感を感じたりしてました」
そう言うと、恵那は懐かしそうに目を細める。
「その時、私は誰かが助けてくれることや守ってくれることを強く……強く願っていたから、すごく鮮烈に印象に残ってて……それからはずっと。今では、服の一部みたいになっちゃってますね」
そこで見せた恵那の笑顔からは、桜花に対する感謝と親愛の想いが溢れていた。
「……野杜神さんは恩人なんだね」
耀は再び夜空を眺めた。
その桜花に対して、自分の我侭を通そうとしていた玖珠葉の件は、そんなにもこの少女にとって大切なことなのだろうか。
「少し、冷えてきましたね」
風に吹かれた恵那が、小さく身震いをして呟いた。
確かに少し冷えてきたように感じる。こんな所で風邪をひくのも馬鹿らしい。
「そうだね。そろそろ戻ろうか」
廊下へと戻り、耀は扉を静かに閉めた。
「それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみ」
耀は恵那にそう答え、自室へと戻る。
ベッドに寝転び窓の外を眺めると、先ほどと同じように星空が映った。
恵那のこと。玖珠葉のこと。遼平のこと。桜花のこと。秋慈のこと。秋穂のこと。
ぼんやりと考えている間に、北極星が目に留まる。
確か北極星に端を成す星座に、こぐま座があったはずだ。何となくそんなことを思い出し、自然と星を探していく。
一つ、二つ、三つ……六つ目……縁の壊れた柄杓の形が出来上がる。
本来であれば七つの星から成るはずだったが、この暗さでも見えないのだろうか。
――どこにあっただろう。
耀は記憶を頼りに目を凝らしたが、そこにはただ、闇が広がるばかりだった。




