五月十一日・1
それは次の日、耀が大学で二時限目の講義を受け終わった時だった。
講義室から皆が出て行く中、耀は玖珠葉がこちらを見ていることに気がついた。その視線が何故か耀を退室させることを拒んでいる気がして、部屋から出ることが出来ずにいた。
その日も玖珠葉は朝から普通に姿を見せていた。
振る舞いも、話し方も、周りへの接し方も。今までとは変わることなく、昨日聞いた玖珠葉に関する事実は性質の悪い冗談だったように思えてしまう。
奇抜な格好をしていた女性と、剣呑な雰囲気で話していたことに関しても、多少注目を集めていたようだったが、別にそれは玖珠葉に対する周りの態度を変化させるものではなかった。
おしなべて、今までの大学生活と同じ風景が広がっていた――遼平が居ないと言う一点を除けば。
昼食を食べるために、講義を受けていた学生は全員退室して行った。
残っているのは玖珠葉と自分だけだ。
玖珠葉はいつもと同じように穏やかな笑みを浮かべたまま、いつもと変わることない可憐な声で話しかけてくる。
「初めてだね。私が声を掛けるより先に、こっちを向いてくれたのは」
ゆっくりと、玖珠葉の足音が近づく。
「どう言う心境の変化?」
尋ねる玖珠葉の声は、普段と全く変わりがないように聞こえた。しかしその仕草が、既に答えの分かっている質問を投げかけている様に見えてしまう。
「遼平が……休んでる理由。箕柳さんは知ってる?」
「……知らないって言ったら、信じて貰える?」
玖珠葉は微かに笑うと、小さく首を傾けて尋ねて来た。
「……分からない」
耀は何故か、否定も肯定もする気にならず、そう答えた。
遼平や桜花、恵那が揃って嘘をつく理由は見当たらない。何より、実際に傷を負わされた遼平が言っていたのだから、疑う余地が無いようにすら思える。
しかし、限りなく黒だと思っていても、不思議と玖珠葉の言葉を否定する気持ちが起こらなかった。自分がその現場を見ていないからだろうか。
玖珠葉はそんな耀を眺めながら、通路を挟んだ机の上に腰を下ろし、
「そっか」
と、薄く笑った。
「でもそれって――」
玖珠葉がその笑みを湛えたまま、耀をじっと覗き込む。
「――分からないんじゃなくて、興味がないんだよ」
変わらないはずのその声は、嫌に耳に刺さって聞こえた。
「遠い世界で誰かが死んで、その時憤りを覚えても、興味が無ければすぐに忘れてしまう。それと同じ」
二人きりの講義室に、玖珠葉の鈴の音のような声が響く。
「私が宇多君を殺そうとしたのが事実だって言っても、きっとそれは変わらないよね」
朗々と語られるその言葉は、恐らく告白で。しかしそれを聞いてもやはり、動揺をあまり覚えない自分がそこに居るのを認識してしまう。
「……何で……遼平を?」
まるで詰問されているような息苦しさを覚えながら、耀がぽつりと声に出来た言葉はそれだけだった。
玖珠葉はふっと顔から笑みを消して、目を細めた。
「邪魔だったから」
短く言い捨てるその姿は、耀に昨日の桜花との一幕を思い出させる。
「邪魔……?」
「そ、邪魔だったの。まぁ、あの日になったのは、本当にただの偶然だけど」
玖珠葉はまるで世間話をするような軽さで、そう答えた。
「羽柴君は、宇多君をどう思う?」
「え……どうって……」
耀は急に問われて考え込んだが、玖珠葉は耀の答えを特に期待していない様子で続ける。
「彼はきっと、幸せな人。過去を懐かしんで、今を楽しんで、未来を待ち望める人」
そう言う玖珠葉の声は酷く冷たいものだった。
僅かな沈黙の後、玖珠葉はふっと表情を緩め、耀を見つめた。
「羽柴君は、昔を懐かしむことがある? 心から今を楽しいと思ったことがある? 明日を待ち望んだことがある?」
出し抜けに尋ねられて、耀は言葉を詰まらせた。
その様子を見た玖珠葉が嬉しそうに微笑む。
「ないよね。きっと」
耀は言い返す言葉を持っていなかった。ただただ、玖珠葉の声が耳に刺さっていく。
「そんな羽柴君のそばに、あんな宇多君みたいなのが居て、もし羽柴君が感化されたら嫌だったから」
「嫌って……何が……」
「好きな人が変わってしまったら、嫌でしょ?」
唐突な告白は、しかし微塵も甘い思いを生み出すことはなかった。逆に耀は、無性に居心地の悪さを覚えてしまう。
「初めてだったんだよ、羽柴君みたいな人を見たのって」
玖珠葉はあくまで嬉しそうに微笑みながら、
「生きてることを――全く楽しめてない人。何に対しても、関心を持たない人」
教室に溶けて消えていく言葉は、耀の心を冷たい手で掴みこんで来た。
「日常を退屈だと思ってる人だって、必ず何かしら関心を持ってて、少なくともそれに対しては楽しいと思える人ばっかりなのに。羽柴君は違った」
玖珠葉の表情に微かな翳が射す。
「本当は、少し不安だったんだよ。私のことを知ってしまったら、羽柴君は私に対してどう思うだろうって。でも、何も変わらなかったね。やっぱり殆ど関心がなさそう」
耀は、玖珠葉の瞳から視線を外せないまま、言葉を継ぐことが出来ないでいた。
僅かな沈黙――
「だってほら、私のことを知っていても。あなたは何一つ変わらず、日常生活を送ってる」




