第6話 地図の外
痛みで目が覚めた。
右肩が熱を持ったように疼き、背中にも鈍い痛みが残っている。左膝にも違和感があり、息を吸うと胸の奥が少しだけ苦しかった。
すぐに起き上がるのはやめた。まず指を動かす。右手、左手。どちらも動く。次につま先を動かし、足首をゆっくり回した。左膝は痛むけど、関節そのものは問題なさそうだ。
頭にも触れてみる。額、側頭部、後頭部。血はついていない。吐き気もない。
少なくとも、動ける。
「……生きてるな」
声にすると、ようやく少し実感が湧いた。
崩れた床。縁へ引っかけた指。身体を引き上げようとして、捨てた荷物。それでも崩れた石。
そして、落下。
俺は身体を横向きにしてから、ゆっくり上体を起こした。右肩に痛みが走る。手のひらには擦り傷があり、左膝にも軽い痛みが残っている。
それでも、立てないほどじゃない。
問題は周りだった。
何も見えない。
本当に、何も。
落ちる途中で灯りが外れたのは覚えている。小さな光は俺より先に暗闇へ消えていった。
「予備……残ってるか」
腰回りを探る。
大きな荷物は落としたけど、身体へ直接固定していた小袋は残っていた。包帯。火口箱。少量の水。折れ曲がった地図。それから、小型の簡易灯具。
何度か火を起こし、ようやく灯具に明かりがついた。
橙色の光が、暗闇をほんの少しだけ押し返す。
見えるのは足元と、その周囲だけだった。灯りを高く掲げても天井は見えない。壁も近くにはなさそうだ。
「誰かいるか!」
声を張る。
返事はない。
少し遅れて、自分の声だけが遠くから返ってきた。
「……広いな」
◇
立ち上がる前に、残っている物をもう1度確認した。
短剣。少量の水。包帯。火口箱。簡易灯具。地図。
食料は一部なくなっている。でも、完全に失ったわけじゃない。
右肩をゆっくり回してみる。痛むが、腕は上がる。左膝も体重をかければ少し痛い程度だった。
歩ける。
次に確認するべきなのは、帰り道だ。
灯りを頭上へ向ける。
落ちてきた穴らしきものは見つからない。天井が高すぎるのか。それとも落ちた時に位置がずれたのか。
判断できる材料がなかった。
周囲を少し歩くと、ようやく壁へ行き当たった。
手を触れる。
冷たい。
でも、いつもの迷宮の石壁とは感触が違う。表面が妙に滑らかで、石のざらつきがほとんどない。指をかけられそうな隙間も見つからなかった。
「登るのは無理そうだな」
ここで救助を待つことも考えた。
ギルドには帰還予定時刻を伝えてある。戻らなければ、そのうち捜索隊が出るはずだ。
ただ、さっきまで通っていた道を思い出すと、それだけを当てにするのは怖かった。
いつもならすぐ着くはずの角が妙に遠くなり、覚えていた壁の傷が消え、地図にない脇道まで現れた。
しかも、振り返った時には、その道さえなくなっていた。
あそこを捜索隊が同じように通れる保証はない。
なら、ここで何もせず待つのも危ない。
地図を開く。
当然、今いる場所は載っていなかった。
それでも捨てる気にはならない。
余白へ木炭で書き込む。
現在位置、不明。
3階より下と思われる。
落下地点。
今は、それしか分からない。
「……周りだけ見るか」
遠くまでは行かない。
戻れる範囲だけ調べる。
目的は、安全な場所と帰路の手がかり。
それだけだ。
◇
歩き始めて、すぐに足音が違うことに気づいた。
カツ、カツ、と靴底の音が硬く返ってくる。
ルーメン迷宮なら、もっと音が籠もる。湿った石や土が音を吸うからだ。
ここには、あの湿り気がない。
灯りを壁へ向ける。
黒に近い表面が鈍く光った。
「……石じゃない?」
近づいて見る。
金属に近い。
少なくとも、俺の知っている迷宮の壁とは違う。
継ぎ目は少なく、ところどころに細い白線が走っている。その間には、文字とも模様ともつかない刻印が残されていた。
読めない。
「誰かが作った場所……なのか?」
そう見える。
でも、それだけだ。
誰が作ったのかも、何のための場所なのかも分からない。迷宮の一部なのか、それともまったく別の場所なのか。
決めつけるには情報が足りない。
分かるのは。
いつものルーメン迷宮とは違う。
それだけだった。
俺は地図の余白へ、進んだ方向と曲がった回数を書き込みながら歩いた。戻るための目印を探したけど、壁は似たものばかりで使えそうな傷も少ない。
床は妙に平らだった。
埃は積もっているのに、壁も床も驚くほど壊れていない。金属らしい表面にも、目立った腐食は見当たらなかった。
古そうなのに。
壊れていない。
そのことだけ覚えておく。
通路は静かだった。
水滴の音も。
魔物の鳴き声も。
何も聞こえない。
湿った土の匂いもなく、代わりに古い埃と冷たい金属みたいな匂いが残っている。
何もいない。
それが逆に落ち着かなかった。
その途中。
足元が、ほんの少し沈んだ。
「っ」
すぐに止まり、後ろへ下がる。
さっきの崩落が頭をよぎった。
数秒待つ。
何も起きない。
灯りを床へ向けると、黒い床の一部が少し低くなっているだけだった。
壊れているのか。
何かの仕掛けなのか。
分からない。
近くに落ちていた細い破片を拾い、前方の床を何度か押してみる。
反応はない。
俺は沈んだ場所だけを避けて進んだ。
罠だとは決めない。
安全だとも決めない。
分からないなら。
分からないまま扱う。
◇
しばらく進むと、通路の先が大きく開けた。
俺は入口で足を止め、灯りを掲げる。
広い部屋だった。
奥までは光が届かない。
その中央付近に、大きな影がある。
壁際から離れすぎないよう、ゆっくり近づく。
少しずつ形が見えてきた。
盾だった。
「……でかい」
大盾。
俺の身体なら、ほとんど隠れてしまいそうな大きさがある。
黒鉄色の表面には埃が積もっているのに、目立った錆も欠けもなかった。
こんなもの、本当に人が持つのか。
最初に浮かんだのは、それだった。
何のためのものなのかは分からない。
ただ。
この場所と同じように、妙なくらい綺麗に残っている。
そして、大盾から少し離れた場所に。
もう1つ影があった。
灯りを向ける。
剣だ。
黒い剣。
盾ほど大きくはない。形だけなら、こっちの方がずっと普通の武器に近い。
なのに。
なぜか目を離しにくかった。
刃へ灯りを向けても、ほとんど光を返さない。
黒というより。
光そのものを吸っているように見える。
部屋の中央に。
大盾と黒剣。
2つだけが並んでいる。
偶然ここへ置かれたようには見えなかった。
俺は1歩だけ近づいた。
その瞬間。
壁を走る白い線が、ごく薄く光った。
「っ」
すぐに止まり、短剣へ手をかける。
床は動かない。
壁にも変化はない。
音もしない。
数秒後。
白い光は、何事もなかったように消えた。
「近づいたから……?」
分からない。
それとも、偶然か。
なら。
まだ触らない。
まず部屋の周囲を確認する。別の出口があるのか。危険なものがないのか。
それが先だ。
そう決めて。
黒剣から視線を外しかけた。
灯りが揺れる。
その光が、黒い刃へ映った。
一瞬。
何かがいた。
「……え?」
自分の顔じゃない。
黒い影。
人の形にも見える、何か。
反射的に振り返る。
誰もいない。
静かな部屋。
そこにいるのは俺だけだった。
もう1度。
黒剣を見る。
何も映っていない。
ただ、黒い剣がある。
その隣には。
巨大な盾。
地図にもない場所で。
2つの武器だけが、静かにそこにあった。




