第5話 撤退
石床を横切る細い亀裂を見た瞬間、俺はその場から1歩下がった。昨日、壁で見つけたものとは別の亀裂だ。位置も違うし、ここへ来た時にはなかった。
「……帰る」
調べる必要はない。触る必要もない。何が起きているのかは気になるけど、それを確かめるためにここへ来たわけじゃない。
俺が持ち帰るべきなのは、答えじゃなくて情報だ。
床から距離を取ったまま地図を開き、現在地と亀裂の位置を書き込む。近くの壁の形も一緒に記して、安全な場所に小さな目印を残した。
これで十分だ。
俺は地図をしまい、来た道へ戻り始めた。
◇
最初の違和感は、距離だった。
「……遠いな」
前方に見えているのは、何度も通った角だ。右側の壁が少し張り出して、その先で通路が左へ曲がる。いつもなら、ここから10数歩もあれば着く。
歩きながら数える。
5歩。10歩。15歩。
まだ着かない。
20歩を越えたところで、ようやく角へたどり着いた。
振り返ってみても、通路そのものが伸びたようには見えない。壁の形も、幅も、覚えているものと同じだった。
「数え間違えたか……?」
あり得ないとは言い切れない。歩幅だって毎回同じじゃないし、昨日から変なことばかり気にしているせいで、必要以上に意識している可能性もある。
地図を開く。
位置関係は合っている。
少なくとも、今のところは。
その時、背中から弱い風が吹いた。髪が前へ揺れる。
「また変わった……?」
昨日は、普段とは逆向きだった。今は俺の背中側から、帰る方向へ押すように流れている。
風向きが一定じゃない。
地下の空気の流れが変わっただけかもしれない。そう考えた直後、前方から水滴の落ちる音がした。
ぽつん。
少しして。
ぽつん。
今度は後ろから聞こえた。
「……反響か?」
迷宮の中なら、音が壁へ跳ね返ること自体は珍しくない。
ただ。
ここは、こんなに音が回る場所だったか。
分からない。
なら、それ以上考える必要はない。
帰る。
判断は変わらなかった。
◇
少し進むと、見慣れた欠けた柱が現れた。
位置も形も合っている。
次にあるはずなのは、右の壁へ斜めに走る古い傷だ。俺は歩きながらそこを探した。
「……ない」
足を止める。
壁はある。場所も間違っていない。
でも、傷だけが消えていた。
後ろを確認すると、欠けた柱はちゃんと見える。分岐も通っていない。別の道へ入り込んだわけでもない。
「一部だけ違う……?」
全部が変わっているなら、まだ分かりやすい。
柱はある。
通路の幅も同じ。
壁の形も覚えている。
なのに、目印だけがなくなっている。
喉が乾いた。
水筒からひと口だけ飲み、すぐにしまう。
焦るな。
帰れないと決まったわけじゃない。
記憶違いの可能性もあるし、俺が気づいていなかっただけかもしれない。
ただ。
確かめるために歩き回るのは違う。
入口方向へ進む。
それだけだ。
◇
さらに進んだところで、俺はまた足を止めた。
右側に、浅い脇道が伸びている。
「……こんなの、あったか?」
奥は暗く、どこまで続いているのか分からない。
地図を見る。
今いる場所に分岐はない。
なら使わない。
入口方向は正面だ。
知らない道を調べる理由はない。
俺は脇道を無視して、そのまま前へ進んだ。
10数歩。
そこで嫌な感じがして、振り返った。
「……」
脇道が消えていた。
そこにあるのは、途切れなく続く石壁だけだった。最初から何もなかったみたいに。
俺は動かず、ゆっくり息を吸った。
吐く。
もう1度。
水はある。
灯りもある。
短剣もある。
怪我もしていない。
予定帰還時刻までも余裕がある。
今すぐ危険な状況じゃない。
問題は、道だ。
距離や足場や魔物なら、見て判断できる。でも、道そのものが変わるなら、今まで使っていた基準が信用できない。
胸の奥がざわついた。
それでも、走り出すのは違う。
「出口は後だ」
目標を変える。
いきなり迷宮の入口まで戻ろうとしない。まずは、近くにある見通しのいい広間まで行く。
そこで安全を確保して、位置を整理する。
「広間まで」
それならできる。
俺は地図を畳み、歩き始めた。
◇
広間までの道は覚えている。
少し狭い通路を抜け、その先の緩い下りを進めば空間が広がる。
最初の通路は合っていた。
下りもある。
「あと少し」
そう呟いた直後。
足裏へ振動が伝わった。
コト。
止まる。
昨日と同じだ。
床の下から響く、低い震え。
「ここでも……」
場所が違う。
さっき見つけた亀裂からも離れている。
あそこだけの異常じゃない。
天井から細かな粉塵が落ち、足元の小石が微かに跳ねた。
コト。
2度目。
俺はすぐに後ろへ下がる。床の中央から離れ、壁際へ寄った。
その瞬間、音が消えた。
風も。
水滴も。
何も聞こえない。
自分の呼吸だけが妙に大きい。
嫌な静けさだった。
さらに1歩、後ろへ下がった。
その時。
床が沈んだ。
「っ!」
反射的に横へ跳ぶ。
壁際なら大丈夫だと思った。
でも、着地した場所まで沈んだ。
ガンッ、と石の割れる音が響く。
足元へ亀裂が走った。
1本。
2本。
そこから一気に広がる。
「まずい!」
走る。
崩れる範囲から離れようとする。
間に合わない。
床全体が抜けた。
身体が落ちる。
反射的に手を伸ばし、指先が崩れ残った床の縁へ引っかかった。
「ぐっ……!」
身体が止まった。
片手。
もう片方も縁へかける。
足の下には何もない。
暗闇。
底が見えない。
腰の荷物が身体を下へ引っ張る。
「……荷物」
捨てる。
迷っている余裕はない。
片手を離し、腰の留め具を外す。
袋が落ちた。
暗闇へ吸い込まれる。
音はすぐには返ってこない。
少し軽くなった。
「上がれ……!」
腕へ力を入れる。
肘を曲げる。
身体が少し持ち上がった。
いける。
あと少し。
ミシッ。
指をかけていた石が割れた。
「あ」
手が外れる。
もう1度伸ばす。
届かない。
床が遠ざかっていく。
腰の灯りも外れ、俺より先に暗闇へ落ちていった。小さな光がどんどん遠ざかり、やがて見えなくなる。
身体が壁へぶつかった。
「ぐっ!」
肩。
背中。
回転する。
上下も分からない。
ただ落ちている。
その途中。
下から冷たい空気が吹き上がってきた。
地面が消えた。
次の瞬間。
俺は暗闇の中へ落ちていた。
ルーメン迷宮の3階。
その下に。
地図には存在しないはずの場所へ。




