第4話 昨日までなかった傷
見間違いではない。
俺は壁の前でしゃがみ込み、もう1度その細い亀裂を見る。古い斜め傷のすぐ横。昨日もここで足を止めて、柱と傷と風を確認した。
その時、こんなものはなかった。
「……たぶん」
言い切ろうとして、やめた。
自分の記憶だけで決めつけるのは良くない。昨日は岩甲虫と戦ったあとだったし、疲れていた可能性もある。
人間の記憶なんて、そこまで信用できるものじゃない。
俺は立ち上がり、周囲を確認した。
まず、欠けた柱。
位置も欠け方も昨日と同じ。
次に、壁の古い斜め傷。
長さも角度も変わっていない。
そして。
その横にある、細い亀裂。
これだけが違う。
「……見落とした?」
あり得ないとは言えない。
俺は腰の袋から小さな木炭を取り出し、亀裂から少し離れた床へ目印を付けた。壁へ直接書き込むのは避ける。
次に地図を開く。
現在地は3階。東側の分岐から2つ目の広間へ向かう途中。
間違っていない。
地図の端へ短く書き込む。
壁面に細い亀裂。
昨日は未確認。
そこまで記録して、もう1度壁を見る。
「今日は戻るか」
予定よりかなり早い。
それでも、分からない変化を見つけたなら報告するべきだ。
自分で調べる必要はない。
俺は踵を返しかけた。
その時、頬に何かが触れた。
「……ん?」
風。
弱い。
気のせいかと思うくらいの、ごく小さな流れ。
俺はその場で目を閉じた。
待つ。
もう1度。
頬を撫でる。
「逆だ」
3階の風は、普段なら奥から入口側へ向かって流れている。
強いものじゃない。
帰り道を判断するほど確かなものでもない。
ただ、何度も歩いているから身体が覚えている。
今は。
入口側から奥へ。
いつもとは逆向きだった。
指先を少し濡らし、空気へかざす。
やっぱり同じ。
「亀裂と……風」
偶然かもしれない。
亀裂は昨日見落としただけ。
風向きは、たまたま変わった。
そう考えれば説明はつく。
たぶん。
「……たぶん、か」
自分で口にして、嫌になる。
こういう時に都合のいい方へ考えるのは危ない。
俺は地図へもう1つ書き込んだ。
風向き、通常と逆。
これで十分だ。
帰ろう。
そう思った時。
足元に、細かな砂が落ちていることに気づいた。
しゃがむ。
指で触れる。
乾いている。
砂自体は珍しくない。
問題は、その上に残っている跡だった。
小さな足跡。
魔物のものだと思う。
奥からこちらへ向かって続いている。
そして。
途中で消えていた。
「……消えてる?」
俺は少し距離を取った。
短剣へ手をかける。
跳んだ?
壁を登った?
天井へ逃げた?
順番に見る。
壁。
何もない。
天井。
影もない。
床。
穴もない。
もう1度、足跡へ戻る。
爪の跡は続いている。
歩幅も普通。
その先だけ。
ない。
「戻った……?」
足跡を辿り返してみる。
重なった跡は見えない。
少なくとも。
俺には分からなかった。
嫌な感じがした。
魔物そのものが怖いわけじゃない。
説明のつかないものが増えている。
亀裂。
逆向きの風。
途中で消える足跡。
1つなら見落とし。
2つなら偶然。
3つになると。
「……帰ろう」
今度は迷わなかった。
俺が調べることじゃない。
少なくとも、1人でやることじゃない。
ギルドへ戻る。
報告する。
必要なら、調査隊が来る。
それでいい。
俺は地図をしまい、来た道へ戻り始めた。
数歩。
そこで。
コト。
小さな音がした。
足を止める。
振り返る。
何もない。
もう1度。
コト。
今度は分かった。
下だ。
床の中。
「……下?」
しゃがみ込み、手のひらを石床へ当てる。
待つ。
何もない。
息を止める。
コト。
微かに。
指先へ伝わる。
震え。
地響きというほど強くない。
遠くで何かが動いたような。
そんな振動だった。
俺はゆっくり立ち上がり、短剣を抜く。
周囲を見る。
敵はいない。
音もしない。
数秒後。
振動も止まった。
「……何なんだよ」
返事はない。
迷宮は、いつもと同じ顔をしている。
石壁。
発光石。
薄暗い通路。
昨日まで何度も歩いた場所。
なのに。
少しずつ。
何かが噛み合わなくなっている。
俺は急がず、でも止まらずに入口へ向かった。
◇
3階から2階へ上がる階段が見えたところで、少しだけ肩の力が抜けた。
何も起きていない。
魔物にも会わなかった。
そのまま階段へ向かう。
途中。
左の壁を見る。
浅い窪み。
古い鉄釘。
ある。
いつもと同じ。
「大丈夫」
声に出す。
確認する。
帰路は変わっていない。
2階へ上がる。
通路。
分岐。
発光石。
全部、知っている。
そのまま1階。
そして出口。
外の光が見えた。
そこで初めて、大きく息を吐いた。
「……帰れる」
自分でも変なことを言ったと思う。
いつもの迷宮。
いつもの3階。
帰れて当然だ。
でも今日は、その当然が少しだけ遠く感じた。
◇
「早いね」
入口の職員が俺を見た。
「何かあった?」
「3階で、ちょっと気になることが」
「魔物?」
「いや」
「怪我?」
「ないです」
「じゃあ?」
説明しようとして、少し困った。
壁に亀裂。
風が逆。
足跡が消えた。
床が震えた。
並べると、自分でも曖昧に聞こえる。
「……ギルドで報告します」
「分かった。帰還記録だけ付けとく」
「お願いします」
俺はそのままリベルへ戻った。
◇
ギルドへ着くと、ミナさんはいつもの受付にいた。
「おかえり。今日は早かったね」
「ちょっと報告があります」
「怪我?」
「ないです」
「なら良かった」
ほっとしたあと。
俺の顔を見て、表情が変わった。
「何があったの?」
俺は地図を広げ、印を付けた場所を指す。
「3階です」
「うん」
「昨日までなかった亀裂がありました」
「亀裂?」
「細いです。壁の表面だけじゃなく、少し奥まで入っているように見えました」
ミナさんが紙を取り出す。
「場所は?」
「東側分岐から2つ目の広間へ向かう通路です。古い斜め傷がある壁のすぐ横」
「他には?」
「風向きが逆でした」
ペンが止まった。
「逆?」
「いつもは入口側へ流れてます。今日は奥向きでした」
「……それだけ?」
「小型魔物の足跡が途中で消えてました」
「跳んだとか?」
「それも考えました。壁と天井も見ました。でも分かりません」
ミナさんが少し眉を寄せる。
「分からない、ね」
「はい」
それでいい。
分からないものを、分かったふりはしない。
「あと、床下から振動がありました」
「どのくらい?」
「弱いです。手を当てて、ようやく分かるくらい」
「回数は?」
「2回です」
ミナさんが全部を書き終える。
少し考えてから、顔を上げた。
「分かった。確認に回す」
「お願いします」
「ルカは?」
「今日はもう入りません」
「明日は?」
少し迷った。
いつもなら行く。
「確認が終わるまでは、3階の同じ場所には近づきません」
「……そこは『迷宮に入らない』じゃないんだ」
「1階と2階は何も変わってなかったので」
「本当に慎重なんだか頑固なんだか」
「両方かもしれません」
ミナさんが小さく笑った。
「とにかく、今日は休んで」
「はい」
地図をしまう。
これでいい。
報告した。
あとはギルドが調べる。
俺がやることはない。
そう思っていた。
◇
翌日。
俺は再び、《ルーメン迷宮》の3階に立っていた。
ギルドからは、
「現時点で危険区域指定は出ていない」
とだけ言われた。
調査はまだ始まったばかり。
昨日の場所へ直接向かうつもりはない。
3階入口の周囲だけ確認して帰る。
そのつもりだった。
欠けた柱。
ある。
古い斜め傷。
遠目にも見える。
昨日付けた床の印。
これもある。
「……ん?」
その少し先。
石床に。
細い線が走っていた。
昨日、壁にあった亀裂とは別のもの。
今度は。
床を横切るように。
新しい亀裂が伸びていた。




