第3話 約束の古木
《ルーメン迷宮》から戻ったあと、俺はまっすぐ家には帰らなかった。
ギルドで魔石を換金し、帰還報告を済ませる。そのまま向かったのは、リベルの西側。外壁ぎりぎりにある、小高い丘だった。
坂を登るにつれて、街の音が少しずつ遠くなる。
丘の上には、1本の大きな木が立っていた。
太い幹。大きく広がった枝。何人かで囲んでも手が届かないくらいの古木。
街の人間は、これを《約束の古木》と呼んでいる。
いつからそう呼ばれているのかは知らない。少なくとも、俺が物心ついた頃にはもうそうだった。
「……今日も変わらないな」
幹へ手を当てる。
当然、返事はない。
俺は根元へ腰を下ろした。
ここからは街がよく見える。赤い屋根。煙突から伸びる煙。外壁の向こうを進む荷車。
さらに遠くには、《ルーメン迷宮》のある岩山も見えた。
水筒を開け、少しだけ水を飲む。
今日倒したのは岩甲虫1体。
怪我なし。
予定通り帰還。
悪くない。
悪くないんだけど。
「レベルは1」
誰もいないので、口に出してみる。
言ったところで、何か変わるわけじゃない。
俺は幹へ背中を預けた。
枝の隙間から、夕焼けが見える。
昔も。
ここから同じ空を見ていた。
◇
「ルカ!」
名前を呼ばれて振り向いた瞬間、何かが顔の横を飛んでいった。
「うわっ!」
後ろで枝が揺れ、小さな木の実が地面へ落ちる。
「避けた!」
笑い声がした。
丘の上。古木の根元に、少女が立っている。
金色に近い髪。今より少し短い。服も膝も泥だらけだった。
ロゼだ。
「なんで投げるんだよ!」
「避けられるかなって」
「危ないだろ!」
「避けたじゃん」
「そういう問題じゃない!」
怒っている俺を見て、ロゼは楽しそうに笑っていた。
昔からこういうやつだった。
考えるより先に動く。
俺が止める。
だいたい、いつもそんな感じだった。
「もう1回!」
「やるな!」
「じゃあ次は走る!」
「何でそうなるんだよ!」
ロゼはそのまま丘を駆け下りていった。
「先に街まで着いた方が勝ち!」
「待てって!」
結局。
俺も走った。
◇
勝ったのはロゼだった。
当然だ。
昔から、こいつは速かった。
俺は少し遅れて丘へ戻り、そのまま草の上へ倒れ込んだ。
「……速すぎ」
「ルカが遅いんだよ」
「お前がおかしいんだ」
「じゃあ、もっと速くなればいいじゃん」
「簡単に言うなよ」
「簡単だよ」
ロゼはそう言って、俺の隣へ座った。
「練習すればいい」
「それで速くなるなら苦労しない」
「なるよ」
「何で分かるんだ」
「だって」
そこで言葉を切り、ロゼは夕焼けの向こうを見た。
その頃の俺たちは、まだ冒険者じゃなかった。
迷宮へ入る資格もない。
魔物だって、街の外から遠くに見たことがあるくらいだった。
それでも、冒険者の話は好きだった。
酒場の前を通る時。
ギルドの掲示板を見る時。
旅帰りの冒険者が傷だらけで笑っている時。
いつも足を止めた。
「私、冒険者になる」
ロゼが言った。
「知ってる」
「強い冒険者」
「それも何回も聞いた」
「すごく強いやつ」
「それも」
「S級」
「それは初めて聞いた」
「じゃあ今決めた」
無茶だと思った。
S級なんて、街に1人いるかどうか。国中で名前を知られるような冒険者だ。
「無理だろ」
「何で?」
「何でって……S級だぞ?」
「だから?」
「だから……」
言葉に詰まる。
ロゼは不思議そうな顔をしていた。
本当に。
できないなんて、少しも思っていなかった。
そして急に、俺を指さした。
「ルカもなる」
「は?」
「冒険者」
「それはなるけど」
「強い冒険者」
「まあ……なれたら」
「違う」
ロゼが眉を寄せる。
「なれたらじゃない」
「じゃあ何だよ」
少しだけ考えて。
ロゼは笑った。
「一緒に強い冒険者になろう」
今でも、その言葉だけははっきり覚えている。
夕焼け。
風。
古木の葉が揺れる音。
泥だらけのロゼ。
そして。
何の根拠もないのに、本気でできると信じていた顔。
「……分かった」
俺は答えた。
「一緒に」
ロゼが手を出す。
俺も手を重ねた。
子供みたいな約束。
いや。
実際、子供だった。
レベルの差も。
才能の差も。
冒険者が死ぬ仕事だということも。
何も知らなかった。
ただ。
2人なら行けると思っていた。
◇
「……S級、か」
目を開ける。
夕焼けが少し沈んでいた。
ロゼは本当になった。
S級冒険者に。
昔、何の根拠もなく口にした場所へ。
先に。
ずっと先に。
俺はまだF級。
レベル1。
笑ってしまうくらい差がある。
「置いていかれたな」
口にすると、少しだけ胸が痛んだ。
でも、ロゼを恨んだことはない。
強くなったことも。
先へ行ったことも。
俺より才能があったことも。
全部、ロゼが頑張った結果だ。
だったら。
追いかければいい。
今の俺にできるのは、それだけだ。
たとえ数字が動かなくても。
今日と昨日で何も変わらなくても。
明日も迷宮へ行く。
明後日も。
その次も。
「約束したしな」
立ち上がり、服についた草を払う。
古木へ軽く手を触れた。
「また来る」
返事はない。
いつものことだ。
◇
次の日。
俺はまた《ルーメン迷宮》の3階に立っていた。
欠けた柱。
ある。
昨日と同じ。
右の壁。
古い斜め傷。
これもある。
そして。
「……ん?」
足が止まった。
古い傷のすぐ横。
細い線が走っている。
髪の毛より少し太いくらい。
近づく。
指で触れる。
傷じゃない。
石の表面だけでもない。
亀裂だ。
俺はしばらく、その線を見ていた。
昨日。
この場所は見た。
間違いなく確認した。
その時。
こんなものはなかった。
「……昨日まで、なかったよな」
誰に聞くでもなく呟く。
返事はない。
ただ、石壁の中へ向かって。
細い亀裂だけが、静かに伸びていた。




