第2話 初心者迷宮
《ルーメン迷宮》の入口は、リベルから歩いて30分ほどの場所にある。
岩山の麓に開いた大きな洞窟で、初心者向けの迷宮として知られている。F級冒険者も多く、入口付近にはギルドの職員が常駐していた。
「冒険者証を」
言われる前に証を差し出す。
「F級、ルカ。今日は?」
「3階までです。3時間以内には戻ります」
「了解。無理すんなよ」
「はい」
それだけのやり取りを済ませ、俺は迷宮へ入った。
◇
1階は明るい。
入口から差し込む陽の光に加えて、壁に埋め込まれた発光石が通路を照らしている。灯りを使わなくても歩ける場所が多く、人の姿もそれなりにあった。
採取依頼らしい大きな袋を背負った男。初めて迷宮へ来たのか、何度も地図を確認している若い冒険者。奥から戻ってくる3人組。
俺の横を、4人組の冒険者が追い抜いていった。
「今日は5階まで行こうぜ!」
「昨日4階だったじゃん」
「余裕だっただろ?」
楽しそうな声が遠ざかっていく。
俺は急がない。
足元を見る。壁を見る。曲がり角へ入る前に、その先から音がしないか確認する。
何度も歩いている場所でも、それは変わらない。昨日まで何もなかった場所に魔物がいることはあるし、誰かが残した荷物や壊れた装備が転がっていることもある。
何もない。
それを確かめてから進む。
俺には、そのくらいでちょうどいい。
◇
2階へ降りると、人の数が少し減った。
通路も狭くなり、石壁へ反響する靴音が妙に大きく聞こえる。
曲がり角の手前で止まり、耳を澄ます。
物音はない。
床を見る。
影もない。
それから、ようやく顔を出した。
「よし」
誰もいない。
短剣へ伸ばしていた手を離し、そのまま進む。
地味だとは思う。
強い冒険者なら、こんなに確認しないのかもしれない。魔物が出てきても、そのまま倒せるからだ。
俺には無理だ。
レベル1。F級。
油断しても何とかなる身体じゃない。
だったら、油断しなければいい。
◇
3階へ降りたところで、俺は足を止めた。
まず左を見る。
通路の先にある、上部の欠けた石柱。
ある。
次に右の壁。
斜めに走った古い傷。
これもある。
最後に、頬へ触れる空気を確かめる。
弱い風が、入口側へ向かって流れていた。
「いつも通り」
小さく呟き、歩き出す。
この3つに特別な意味があるわけじゃない。何度もここへ来ているうちに、自然と覚えただけだ。
欠けた柱の先に分岐がある。
古い傷の少し先には、やや広い場所。
帰り道では、入口側へ弱く風が流れている。
地図を見るまでもない。
だからといって、地図を持っていないわけでもないけど。
腰の袋を軽く叩く。
ちゃんと入っている。
しばらく進んだところで、音がした。
ガリ。
石を擦るような音。
足を止める。
もう1度。
ガリ。
近い。
曲がり角の向こうだ。
俺は短剣へ手をかけた。
まだ抜かない。
音を聞く。
ガリ。
少し間を空けて。
また。
一定の間隔じゃない。重いものを引きずっている感じとも違う。
「……岩甲虫か」
たぶん。
俺はしゃがみ、床を見る。
細かな石片がいくつか転がっている。右側は少し傾いていて、その先に浅い窪みがあった。左側は平ら。
通路の幅は、2人が並べるくらい。
曲がり角の向こうは見えない。
ここで待つのは良くない。
相手の姿を確認せずに近づくのは、もっと良くない。
俺は5歩ほど後ろへ下がった。
左に壁。
右に浅い窪み。
足元は平ら。
ここなら動ける。
短剣を抜き、近くに落ちていた小石を拾う。
曲がり角へ投げた。
カン。
乾いた音が響く。
少しして。
ガリ。
さっきより速い。
ガリ、ガリ。
「来るな」
構える。
次の瞬間、曲がり角から黒っぽい塊が飛び出してきた。
《岩甲虫》。
膝ほどの高さがある、大型の甲虫型魔物。背中を覆う殻は岩みたいに硬く、正面から短剣を刺したところで簡単には通らない。
それでも、習性は分かりやすい。
近くで動くものを見つけると、真っ直ぐ突っ込んでくる。
岩甲虫が俺を捉えた。
脚が石床を掻く。
身体が低く沈む。
「来い」
走り出した。
速い。
見慣れているのに、正面から見るとやっぱり怖い。
俺は動かない。
まだ。
距離が縮まる。
8歩。
6歩。
4歩。
ここ。
右足を引き、身体半分だけ横へずらす。
岩甲虫が俺の横を抜けた。
そのまま壁へぶつかる。
ゴッ。
鈍い音が響いた。
倒れない。
予想通りだ。
殻は硬いし、壁にぶつかった程度で止まる相手じゃない。
岩甲虫が身体を震わせ、向きを変え始める。
俺は追わずに3歩下がった。
まだ攻撃しない。
岩甲虫が再び俺を見る。
「もう1回」
今度は立つ位置を少し変えた。
右。
床の窪みに近い側。
岩甲虫が突っ込んでくる。
同じ動き。
真っ直ぐ。
俺は待つ。
直前で左へ。
岩甲虫の右前脚が窪みに入った。
身体が大きく傾く。
そのまま壁へぶつかり、今度は横倒しになった。
「今」
走る。
柔らかい腹が見えている。
短剣を逆手に持ち、脚の付け根へ刃を差し込んだ。
グギッ。
岩甲虫が暴れる。
「っ!」
すぐに短剣を抜き、離れる。
倒れている相手へ覆いかぶさらない。
脚が空を掻き、石を引っかく音が響いた。
待つ。
まだ動く。
少しして。
弱くなった。
さらに待つ。
動かない。
俺は近くの小石を拾って投げた。
当たる。
反応なし。
そこで、ようやく近づいた。
「……よし」
息を吐く。
派手な戦いじゃない。
殻を正面から斬ったわけでもないし、速さで翻弄したわけでもない。魔法なんて使えない。
やったことは単純だ。
相手の動きを知っていた。
戦いやすい場所を選んだ。
突進させた。
足場を使って転ばせた。
柔らかいところを刺した。
それだけ。
でも、それでいい。
勝つために、相手より強い必要はない。
相手が何をするか分かっているなら。
自分が何をすれば死なないか考えられるなら。
少なくとも。
戦うことはできる。
俺は岩甲虫から小さな魔石を取り出し、袋へ入れた。それから短剣の刃を布で拭う。
刃こぼれはない。
手も震えていない。
呼吸は少し速い。
怪我はない。
「続けられるな」
確認して、立ち上がった。
◇
それからしばらく3階を歩いた。
無理に魔物は探さない。
今日の目的は討伐数を増やすことじゃない。迷宮に慣れること。戦い方を確かめること。そして、決めた時間までに帰ること。
分岐を曲がる。
欠けた柱。
ある。
壁の古い斜め傷。
同じ。
頬を撫でる弱い風。
入口方向。
いつも通りだ。
俺はそれ以上奥へ行かなかった。
行けそうだから行く。
それを始めると、どこまでが「行ける」のか分からなくなる。
今日の予定は3階まで。
なら、そこで終わりだ。
帰り道で、朝に俺を追い抜いていった4人組とすれ違った。
「あれ? もう帰るの?」
1人が声をかけてくる。
「ああ」
「まだ昼前だぞ」
「予定分は終わったから」
「もったいなくない?」
「何が?」
「せっかく入ったのに」
少し考える。
「生きて帰れば、また明日来られる」
「……真面目だな」
「よく言われる」
俺は笑った。
◇
迷宮を出ると、外の光が少し眩しかった。
入口の職員へ冒険者証を見せる。
「ルカ、帰還」
「早かったな」
「予定通りです」
「怪我は?」
「なし」
「討伐は?」
「岩甲虫1体」
職員が記録へ書き込む。
「相変わらず堅いな」
「死にたくないので」
「それが一番だ」
冒険者証を返される。
受け取った。
レベルは1。
今日も変わっていない。
岩甲虫を1体倒した程度で何かが変わるとも思っていない。
それでも、戦えた。
怪我もない。
予定通り帰ってきた。
今日はそれでいい。
俺は《ルーメン迷宮》を振り返る。
欠けた柱。
古い傷。
入口へ流れる風。
中は、いつも通りだった。
少なくとも。
この日は。




