第55話 読ませない
鉄扉の向こうから、何かを削る音が続いていた。
ガリ、ガリ、と一定ではない。少し止まったかと思えば、また別の場所から聞こえてくる。
まるで扉のどこが弱いのか、探しているみたいだった。
「長くは持たなそう」
フィアが鉄扉を見たまま言う。
「うん」
俺はベルを持ち直した。
隔離訓練場には、反対側にも作業用の小さな出入口がある。そちらはギルドの職員が外から封鎖しているはずだ。
今はまだ、継ぎ獣をこの中へ閉じ込められている。
問題は、扉を開けた後だった。
『今さら怖気づいたか?』
「そうじゃない」
怖くないと言えば嘘になる。
前に正面から戦って、俺たちは負けた。盾を出す角度も、剣を振る前の動きも、フィアが助けに入る瞬間さえ利用された。
でも、前と同じ戦いをするつもりはない。
「街へは出さない。それだけ忘れなきゃいい」
「うん」
フィアが短剣を抜いた。
「今日は弓じゃないんだ」
「最初はね」
「途中で変える?」
「たぶん」
「了解」
『俺様は?』
「危ないと思ったら教えて」
『それだけか!?』
「十分だろ」
『俺様の扱い、どんどん雑になってねえか!?』
『うるさい』
クロが一言で切った。
『クロ、お前最近俺様に冷たくないか!?』
「今それやる?」
少しだけ肩の力が抜けた。
その時、後ろから足音がした。
「ルカ君」
振り向く。
「セイル?」
小丸眼鏡を押し上げながら、セイルがこちらへ歩いてきた。腰には治療道具を入れた小さな鞄を下げている。
「避難は?」
「終わっています。負傷者も今のところいません」
「トワは?」
「職員の方に預けました。かなり不満そうでしたが」
「想像できる」
フィアがセイルを見る。
「ここ、危ないよ」
「知っています」
「なら何で来たの?」
セイルは鉄扉へ目を向けた。
「観察しているだけでは足りませんから。今回は僕も入ります」
俺は思わず聞き返した。
「戦えるの?」
「その反応は少し傷つきますね」
「いや、だって……」
「治癒術師だからといって、護身手段がないわけではありません」
セイルが片手を上げる。
指先の周りで空気が揺れた。小さな風だったけれど、ただ吹いているわけじゃない。細く、狙った場所へ集まっている。
「風魔法?」
「得意というほどではありませんが、多少は」
「初めて聞いた」
「聞かれませんでしたから」
「それ言われると何も言えないな」
フィアが少し笑った。
「何ができる?」
「大きな攻撃魔法は期待しないでください。踏み込みをずらす、跳躍を少し押す、落下を弱める。粉塵を払うこともできます」
「十分じゃない?」
「僕もそう思います」
意外と自信がある。
「治療は?」
「もちろんします。ただし、怪我をする前提で無茶をするのはやめてくださいね」
「まだ何もしてない」
「先に言っておきます」
「言っといた方がいい」
フィアまで頷いた。
「なんでフィアまで……」
納得はいかないけど、助かるのは間違いない。
継ぎ獣が食べた記録の中に、セイルの本格的な戦闘記録はほとんどないはずだ。俺たちよりは、読まれていない。
「セイル。こいつ、一度見た動きに慣れる」
「分かっています」
「だから同じ風の使い方を何度もしたら、たぶん読まれる」
「なら、僕も状況を見て変えます」
「それでお願いします」
フィアが鉄扉の機構へ手をかけた。
「開けるよ」
「うん」
俺はフィアの横へ立つ。
いつものように前には出ない。
「今日は本当に私が前なんだ」
「そうなるかもって言っただろ」
「覚えてたんだ」
「そりゃ覚えてるよ」
「じゃあ行くよ」
フィアがレバーを引いた。
鉄扉がゆっくり持ち上がる。
最初に見えたのは、黒い爪だった。
「来る!」
継ぎ獣が飛び出した。
俺はベルを正面へ出さない。横へずらし、フィアが前に残る。
『本当に前に出しやがった!』
「本人が行ったんだよ!」
フィアは短剣を低く構え、継ぎ獣の突進を待っていた。
継ぎ獣が一瞬だけ速度を落とす。
見慣れていない。
「今」
フィアが左へ踏んだ。
継ぎ獣も左へ動く。
読まれた。
でもフィアは短剣を振らず、右足で地面を蹴った。細かな砂が継ぎ獣の顔へ舞い上がる。
黒い頭が反射的に振られた。
「ルカ!」
「見えてる!」
俺は右から入る。
クロを振ると、継ぎ獣は身体を引いた。そこまでは知っている。
『下』
クロの声。
「うん」
途中で斬撃を止め、そのまま地面へ刃を落とす。
石片が跳ねた。
継ぎ獣がさらに横へずれる。
「セイル!」
「はい」
風が走った。
俺が思っていた方向とは違う。
継ぎ獣の横から、地面すれすれを這うように風が入り、前脚へ当たる。強く吹き飛ばすほどじゃない。
ほんの少しだけ。
踏み込みが外れた。
継ぎ獣の身体が傾く。
「効いた!」
「ずらしただけです!」
「十分!」
フィアが入る。
短剣が肩の甲殻の隙間へ浅く入った。
黒い身体が跳ねる。
「通った!」
「次は通らないと思って!」
「分かってる!」
フィアはすぐに離れた。
継ぎ獣の前脚が横薙ぎに振られる。
「ベル!」
『任せろ!』
俺はフィアの前へ割り込まず、横からベルを押し出した。
受け止めるんじゃない。
軌道をずらす。
爪が少し上へ逸れ、その下をフィアが抜けた。
「今のいい!」
『だろう!』
「もう1回はやらない!」
『早い!』
継ぎ獣の視線が俺からフィアへ移り、最後にセイルで止まる。
「僕ですか」
「セイル、下がって!」
「いえ」
セイルはその場を動かなかった。
継ぎ獣が走る。
前脚が振り下ろされる直前、風が起きた。
ただし敵へじゃない。
セイル自身の身体が横へ滑る。
「え?」
爪が空を切った。
数歩先へ着地したセイルが眼鏡を直す。
「自分に使えるの?」
「できます」
「先に言ってよ!」
「聞かれませんでした」
「またそれ!?」
継ぎ獣が止まる。
セイルを見ている。
もう学び始めている。
「同じ避け方はダメ!」
「承知しています」
再び継ぎ獣が低く構えた。
今度もセイルへ向かう。
フィアが動きかける。
俺も足が出そうになる。
でも、止めた。
助けに入る。
そこまで含めて読まれる。
フィアも同じことを考えたらしく、動かない。
「セイル!」
「見えています!」
継ぎ獣が跳んだ。
今度、セイルは風を使わなかった。
ただしゃがむ。
「え」
爪が頭上を通り抜ける。
そのまま横へ転がり、距離を取った。
「普通に避けた!?」
「魔法を使うとは言っていません!」
継ぎ獣が一瞬止まる。
『今』
クロ。
「うん!」
俺は走る。
正面ではなく、継ぎ獣の後ろへ回った。
クロを振る。
継ぎ獣が振り返り、避ける。
「フィア!」
「言わなくていい!」
フィアはもう動いていた。
短剣を逆手に持ち、前脚の後ろへ潜り込む。
さっき斬った場所じゃない。
関節の裏を浅く斬り、そのまま離れた。
「同じ武器でも場所を変える」
「そういうこと!」
俺も追わない。
継ぎ獣が俺たちを見る。
ほんの少しだけ迷っている。
「効いてる」
「まだです」
セイルの声は落ち着いていた。
継ぎ獣の肩。
脚。
視線。
全部を見ている。
「何を見てる?」
「こちらを見ている相手を、です」
その言葉の直後。
継ぎ獣が動いた。
フィアへ。
さっきより速い。
「来た!」
フィアが左へ。
継ぎ獣も左。
「っ」
すぐ右へ切り返す。
それにも追いつく。
「もう覚えてる!」
フィアが飛び退いた。
爪が服を掠める。
「フィア!」
「平気!」
俺が入ろうとした。
「来ないで!」
足を止める。
継ぎ獣の目が俺へ向いていた。
やっぱり。
俺が助けに入るところまで見ている。
フィアは1人で逃げる。
その途中で短剣を投げた。
継ぎ獣が避ける。
その隙にフィアは逆方向へ走った。
「武器捨てた!」
「後で拾う!」
それでいい。
フィアが距離を取ると、継ぎ獣は追わずに俺へ向き直った。
「次、俺?」
『来るぞ』
「うん」
ベルを構える。
いつもの盾。
そう見せる。
継ぎ獣が右へ回り込む。
俺の癖を知っている。
なら。
「ベル」
『なんだ』
「ちょっとここ」
『は?』
俺はベルを床へ立て、そのまま手を離した。
『おい!?』
継ぎ獣が止まる。
ほんの一瞬。
「行く!」
ベルを置いたまま、クロだけを持って左へ走る。
『俺様を置いてくなぁぁぁ!』
「すぐ戻る!」
継ぎ獣の視線がベルと俺の間を揺れた。
迷った。
それで十分。
『右』
クロが言う。
「分かった」
右へ切る。
継ぎ獣も反応する。
でも俺は振らない。
そのまま横を抜けた。
攻撃が来ると思ったのか、継ぎ獣は身を引いている。
俺はベルへ戻った。
『何だったんだ今の!?』
「何もしない」
『作戦ですらねえ!』
「でも引っかかっただろ」
『……まあな!』
継ぎ獣が低く唸った。
初めて聞く声だった。
怒っているのか。
苦しいのか。
分からない。
胸の奥の白い線が、さっきより強く光る。
「ルカ」
フィアの声。
「うん」
「速くなってる」
継ぎ獣の後脚。
筋肉の盛り上がり方が変わっている。
俺たちが戦い方を変えるたび。
向こうも変わっている。
「学習が追いつき始めています」
セイルが言った。
「最初より反応が早い」
「じゃあ、ここからだな」
俺はベルを持ち直す。
最初の1回は通る。
でも、それを続ければ読まれる。
ただ違うことをするだけじゃ足りない。
相手が何を覚えたのか。
そこからまた変える必要がある。
「フィア」
「うん」
「同じのはなし」
「分かってる」
「セイル」
「僕もですね」
「もう完全に戦ってるでしょ」
セイルが少しだけ笑った。
「そうですね」
「ベル」
『今度は置くなよ!』
「それはその時」
『置く気あるだろ!』
「クロ」
『うん』
「次、任せる」
クロが黙る。
継ぎ獣を見る。
『……考える』
「それでいい」
継ぎ獣が身を沈めた。
誰を狙う。
俺か。
フィアか。
セイルか。
分からない。
でも。
向こうだって、同じはずだ。
「来る!」
フィアが叫ぶ。
継ぎ獣が踏み込んだ。
その瞬間。
俺たちはもう、誰もいつもの場所にはいなかった。




