第45話 光る尻尾
地下区画の調査は、一度止まることになった。
黒い個体が逃げ込んだ亀裂の先は、古い管理通路と繋がっている可能性があるらしい。ただ、どこまで続いているのか分からないうえに、壁の向こうには使われていない設備区画も残っているという。
さすがに、そのまま追いかけていい場所ではなかった。
追加の調査員を集め、古い図面も確認する。
それまでは待機。
「待機って、一番苦手なんだよな」
ギルドを出ながら呟くと、フィアが隣で首を傾げた。
「そう?」
「何もできないから」
「何もしないのも仕事でしょ」
「それは分かってる」
「じゃあ待つ」
「簡単に言うなあ」
フィアは気にした様子もなく歩いていく。
俺もその横に並んだ。
昼を少し過ぎた街は、人通りが多かった。ギルドの前を離れて市場へ近づくにつれ、焼いた肉や香辛料、それから焼きたてのパンの匂いが混ざってくる。
腹が鳴った。
フィアがこっちを見る。
「お腹空いた?」
「……聞こえた?」
「普通に」
『俺様にも聞こえたぞ!』
「ベルは黙ってろ」
「今のベル?」
「うん」
「なんて?」
「余計なこと」
「いつも通りだね」
否定できない。
『聞こえてるぞ小娘ぁ!』
もちろんフィアには聞こえていない。
俺だけが少しうるさい。
市場の入口で、俺たちは適当に昼飯を買うことにした。
串焼き。
丸いパン。
干した果物。
フィアは肉より果物を多めに選んでいた。
「それで足りる?」
「足りる」
「絶対あとで腹減るだろ」
「ルカが食べすぎ」
「今日はまだ何も食べてないんだって」
銅貨を払おうとした、その時だった。
「こらっ!」
少し離れた店から、大きな声が飛んだ。
振り返る。
果物を積んだ屋台の店主が、店先から飛び出してくる。
「またお前か!」
何かが足元を走った。
「え?」
灰色の影。
小さい。
俺たちの間を抜け、そのまま向かいの路地へ飛び込んでいく。
口には何かくわえていた。
たぶん、パンだ。
「泥棒?」
「人じゃない」
フィアの耳が動く。
「小さい魔獣」
店主が路地の入口まで来たところで立ち止まった。
「最近ずっとだよ。パンだの干し肉だの、ちょっと目を離すと持っていきやがる」
「危ないやつですか?」
俺が聞く。
「知らん。今のところ噛まれた客はいないが……捕まえようとすると逃げるんだ」
フィアが路地を覗く。
「追うの?」
「いや」
「珍しい」
「なんでだよ」
「さっき地下で追わなかったから」
「俺だって毎回なんでも追うわけじゃないぞ」
「そういうことにしておく」
信用が薄い。
俺たちは昼飯を受け取り、市場の端にある石段へ移動した。
食べ始めてしばらくすると、フィアが俺の肩越しへ視線を向けた。
「いる」
「何が?」
「あれ」
振り返る。
路地の奥。
木箱の陰から、何かがこっちを見ていた。
さっきの小型魔獣だ。
猫より少し細長い身体。
淡い灰白色の毛。
耳の先と4本の足だけが黒い。
丸い琥珀色の目が、じっとこちらを見ている。
そして一番目立つのは、身体と同じくらい大きな尻尾だった。
その先が、淡く青白く光っている。
「……光ってるな」
「うん」
魔獣は木箱の陰から顔だけ出し、俺たちの手元を見ていた。
正確には。
俺のパンを見ている。
「これが欲しいのか?」
「たぶん」
「やる?」
「近づかない方がいい」
フィアはそう言った。
「警戒してる」
「じゃあ置くか」
パンを少しちぎる。
路地の入口から数歩入ったところに置いて、すぐに下がった。
魔獣は動かない。
「遠い?」
「ルカが見てるからじゃない?」
「じゃあ見ない」
俺は横を向いた。
「それも怪しい」
「どうしろっていうんだ」
フィアが小さく笑う。
しばらく待つ。
カサッ。
音がした。
横目で見ると、灰白色の魔獣が少しだけ前へ出ている。
また止まる。
匂いを嗅ぐ。
さらに1歩。
逃げられる距離を残しながら、少しずつパンへ近づいていく。
「慎重だな」
「普通」
「俺より?」
「たぶん」
「そこまで?」
やがて魔獣はパンの前まで来た。
匂いを嗅いで。
ぱくっ。
「食った」
「静かに」
俺は声を落とした。
魔獣はパンをくわえると、すぐには逃げなかった。
その場で食べ始める。
小さく前足で押さえながら、夢中で噛んでいる。
『なんだあれ』
ベルが念話で言った。
「知らない」
『俺様には分かるぞ』
「本当か?」
『俺様に恐れをなして近づけないんだ』
「パン食ってるだけだろ」
その時。
魔獣が顔を上げた。
俺ではない。
少し上。
俺の横。
何もない空間を見ている。
「……ん?」
そこにはベルの人型がいた。
腕を組み、妙に偉そうに立っている半透明の大男。
もちろん、フィアにも周囲の人にも見えていない。
魔獣はベルを見ていた。
はっきりと。
『……おい』
ベルも気づいた。
魔獣の顔が、ゆっくり動く。
今度は反対側。
黒髪の少女。
クロの人型。
クロも、じっと魔獣を見返している。
『見えてる』
「……だよな」
思わず声が出た。
フィアがこっちを見る。
「何が?」
「いや」
俺は魔獣へ目を戻す。
試しに1歩横へ動く。
魔獣の目は俺を追わなかった。
ベルを見ている。
さらにベルが俺の反対側へ移る。
魔獣の視線も動いた。
『おお!』
「騒ぐな」
『こいつ、俺様が見えてるぞ!』
『私も』
クロが言う。
『見てる』
確かに。
魔獣はベルを見たあと、クロへ視線を移している。
俺以外の人間には見えないはずの2人を。
「ルカ?」
フィアの声が少し低くなった。
「何かある?」
誤魔化しても仕方がない。
フィアはベルとクロに意思があることまでは知っている。
「こいつ」
小声で言う。
「ベルとクロを見てるかもしれない」
「……見えるの?」
「たぶん」
フィアの表情が変わった。
驚いてはいる。
でも、すぐ魔獣へ近づこうとはしなかった。
「試す?」
「どうやって?」
「ベルに動いてもらう」
『任せろ!』
ベルの人型が大きく横へ歩く。
魔獣の顔も、そのままベルを追った。
「……見えてるな」
「みたいだね」
ベルが胸を張る。
『どうだ! やはり俺様の偉大さは種族を越えて』
魔獣は途中でベルから目を逸らし、またパンを食べ始めた。
『おい』
俺は笑いそうになった。
「興味なくされたな」
『違う! 腹が減っているだけだ!』
『うるさい』
クロが短く言う。
魔獣が今度はクロを見る。
ベルの時より、少し長い。
クロも黙って見つめ返していた。
『……変なの』
「どっちが?」
『あれ』
「クロに言われてるぞ」
魔獣は意味が分からないはずなのに、耳だけぴくりと動かした。
食べ終わる。
それでも逃げない。
「もう1個やる?」
「少しだけ」
フィアが干し肉を小さくちぎった。
俺ではなく、今度はフィアが地面へ置く。
魔獣はしばらく警戒したあと、そちらにも近づいた。
ぱくり。
「食いしん坊だな」
今度は否定する者はいなかった。
干し肉を食べ終えた魔獣は、少しだけ俺たちとの距離を縮めた。
それでも手を伸ばせば逃げるくらいの距離は残している。
「名前あるのかな」
俺が言う。
「野生なら、ないんじゃない?」
「ずっと『こいつ』もなあ」
「もう名前つけるの?」
「呼びにくいだろ」
「連れていくつもり?」
「いや、そういう意味じゃないけど」
魔獣の尻尾が揺れる。
先端の青白い光が、昼間でも薄く見えた。
ゆっくり。
途切れそうで、消えない。
「トワ」
「え?」
「なんとなく」
自分でも、なぜその音が出たのか分からない。
「トワ」
もう1度呼んでみる。
魔獣が顔を上げた。
「反応した」
フィアが言う。
「本当に?」
「たまたまかも」
「じゃあ、もう1回」
「トワ」
今度はフィアが呼んだ。
魔獣の耳が動く。
「……気に入った?」
「キュイ」
初めて声を聞いた。
小さく、高い鳴き声。
「返事した」
「たぶん」
「じゃあ決まりでいいか」
「本人が嫌なら逃げるでしょ」
「それもそうか」
俺はもう1度呼んだ。
「トワ」
「キュイ」
なんとなく。
本当に、なんとなくだった。
でも、その名前は不思議なくらい口に馴染んだ。
昼飯を食べ終え、俺たちは市場を離れることにした。
「じゃあな、トワ」
手を振る。
トワは座ったままこちらを見ていた。
ついてくる様子はない。
そりゃそうだ。
パンをやっただけの相手についてくるほど、警戒心がないわけでもないらしい。
「行こう」
「うん」
ギルドへ戻る。
数歩進んだところで。
カサッ。
後ろから音がした。
振り返る。
トワがいる。
「……来てる」
「来てるね」
俺たちが歩く。
トワも歩く。
止まる。
トワも止まる。
「ついてくるな」
「言って分かる?」
「トワ、戻れ」
「キュイ」
「分かってないな」
「むしろ返事だけしてる」
結局、トワは一定の距離を保ったままギルドの近くまでついてきた。
入口が見えてきたところで、突然その動きが止まる。
「どうした?」
トワはギルドを見ていなかった。
その下。
地面を見ている。
青白く光る尻尾の先が、さっきまでより少し強く明滅した。
「トワ?」
「クルル……」
さっきまでとは違う声だった。
低い。
警戒している。
フィアも気づく。
「何かいる?」
耳を澄ませる。
「私は聞こえない」
トワが地面の匂いを嗅ぐ。
右へ数歩。
止まる。
また進む。
向かう先は、ギルドの建物の横だった。
「そっちは……」
俺も歩く。
建物の裏手。
普段ほとんど人が通らない場所へ回り込む。
トワは壁沿いに進み、ある場所で足を止めた。
石壁。
何もない。
でも。
「ここ、地下の保管室の近くじゃない?」
フィアが言った。
俺も位置を考える。
「たぶん」
トワが前足で地面を掻く。
カリ。
カリ。
鼻を近づける。
「クルル……」
尻尾の光が揺れている。
『嫌がってるな』
ベルが言う。
「何を?」
『知らん』
クロがトワではなく、壁の奥を見た。
『……同じ』
「何が?」
『嫌な感じ』
その言葉で、胸の奥が少し冷える。
「フィア」
「うん。呼んだ方がいい」
勝手に掘らない。
勝手に入らない。
そこはもう、迷うところじゃなかった。
俺たちはギルドへ戻り、調査担当を呼んだ。
古い図面を持ってきた職員が、トワの止まった場所と建物の配置を見比べる。
「ここ……」
指が止まる。
「何かありますか?」
「現行の図面にはありません。でも、古いものだと」
別の紙を重ねる。
ギルドの地下。
今使われている保管室より、さらに奥。
そこに小さな区画が描かれている。
「古い設備区画?」
「おそらく。かなり前に閉鎖された場所です」
「管理通路と繋がってる?」
「可能性はあります」
職員が顔を上げる。
「ただ、入口は塞がれているはずです」
俺たちはもう1度、建物の裏へ回った。
調査担当が石壁と地面を確認する。
しばらくして。
「ここだ」
地面近くに積もっていた土を払う。
古い石板の継ぎ目が現れた。
完全に壁の一部だと思っていた。
さらに端を調べる。
黒いものが付いている。
「……これ」
フィアがしゃがむ。
触れずに見る。
「同じだね」
薄い黒色の膜。
地下で見つけたものとよく似ていた。
トワが1歩下がる。
「クルル……」
尻尾の光が、また強く揺れた。
俺はトワを見る。
さっきまでパンを盗んでいた小さな魔獣。
ベルとクロを見ることができる。
そして今。
誰も気づかなかった地下の区画の上で、何かを嫌がっている。
「お前……何なんだ?」
聞いてみる。
トワは当然、答えない。
「キュイ」
鳴いただけだった。
そのまま俺の足元まで来る。
そして。
ベルの陰へ身体を隠した。
『おお!』
ベルが嬉しそうな声を出す。
『見ろ小僧! やはり俺様が一番頼りになると』
トワはベルの裏側から顔だけ出し、壁を警戒している。
「盾の裏が安全そうだっただけじゃないか?」
『違う!』
『たぶんそれ』
クロが言う。
『クロォ!』
少しだけ笑った。
けれど、壁へ目を戻すと、その気分はすぐ消えた。
封じられた古い設備区画。
黒い膜。
その下へ向かって、低く唸るトワ。
地下で逃げた黒い個体が、どこへ向かったのか。
ようやく、その先が見えてきた気がした。




