第44話 食べたものに似る
暗い管理通路の奥から、硬いものを噛み砕く音が続いていた。
ガリ、ガリ、と一定ではない間隔で響くたび、さっき見た黒い個体が頭に浮かぶ。口にくわえていたのは、間違いなく測定晶の欠片だった。
「追わないんですよね?」
技師が少し不安そうに聞いてくる。
「はい。俺たちだけでは行きません」
答えると、隣にいたフィアがちらりと俺を見た。
「ちゃんと覚えてた」
「そんな驚くことか?」
「少し」
ひどい。
とはいえ、さっき止められた直後に勝手に飛び込んだら、さすがに俺でも学習能力を疑われる。
それに、今回ばかりはフィアの判断が正しい。通路の広さも分からない。黒い個体が1体だけなのかも不明。何より、ここは迷宮じゃなくギルドの地下だ。壁の向こうに職員が使う部屋や設備があるなら、下手に追い詰めた方が危ない。
「調査担当を呼んでください」
俺が言うと、職員が頷いた。
「すぐに」
1人が保管室を出ていく。
俺たちは入口から少し離れ、暗い隙間を見張った。
『随分と慎重になったじゃねえか、小僧』
ベルが念話で笑う。
「悪いかよ」
『悪かねえ。前ならとりあえず首突っ込んでたからな』
「そこまでじゃないだろ」
『そうだった』
クロが短く割り込んだ。
「クロまで?」
『そうだった』
2回言われた。
俺は反論を諦めた。
しばらくして、武装したギルド職員と調査担当が3人やってきた。事情を説明すると、まず保管室周辺を封鎖し、他の職員を近づけないようにする。
通路へ入るのは、俺とフィア、それから前後を固める調査担当の2人だけになった。
「討伐が目的ではありません」
先頭の男が念を押した。
「正体と侵入経路の確認を優先します。危険ならすぐ戻ります」
「分かりました」
「フィアさん、痕跡の確認をお願いします」
「うん」
フィアが先に隙間へ身体を入れた。
俺はベルを背負ったまま、その後ろへ続く。
通路は想像していたより広かった。人1人がようやく通れる程度ではあるけれど、少なくとも這う必要はない。
古い石壁には埃が積もり、長い間使われていないのが見て分かる。床には晶石の粉と細い擦り傷が続いていた。
「こっち」
フィアが足を止める。
「何かある?」
「黒い膜。さっきと同じ」
床と壁の境目に、薄い黒色の汚れが付着していた。
フィアは触れない。
俺も触らない。
そこはもう学んだ。
「痕跡は?」
「続いてる。ただ……」
フィアが少し眉を寄せた。
「また幅が変わってる」
俺も床を見る。
さっき見た跡より少し広い。
「大きくなってる?」
「そう見える。でも、まだ決めない」
「別の個体かもしれない?」
「うん」
その答え方が、フィアらしい。
分からないことを、分かったふりはしない。
俺はその情報だけ頭に入れた。
通路をさらに進む。
10数歩ほど先で、床に透明な欠片が落ちていた。
噛み砕かれた晶石だ。
その周囲には、さらに細かな粉が散っている。
「ここで食べたのか」
「たぶん」
フィアは壁際へ目を向ける。
「でも、その後も進んでる」
擦り傷は奥へ続いている。
やがて通路は少し広くなり、小さな管理区画へ出た。
壁際に古い棚が3つ並び、そのうち1つが倒れている。
床には割れた晶石。
ただし、全部ではない。
「……選んでる」
フィアが言った。
俺もすぐ意味が分かった。
棚には晶石が残っている。
無傷のものと、削られたものが混ざっていた。
「全部食べてるわけじゃない」
「うん」
俺が近づきすぎない距離から確認すると、削られている晶石には古いラベルが付いていた。
盾。
弓。
剣。
短剣。
文字は簡単な分類だけだった。
「戦闘記録?」
後ろの調査員が答える。
「訓練用の記録晶ですね。昔のものですが」
「何が入ってるんですか?」
「冒険者の動作記録です。盾の受け方や射撃訓練、剣術の型などを残すためのものです」
胸の奥がざわついた。
測定晶には、戦い方まで残る。
そして、この黒い個体は記録が入った晶石だけを選んでいるように見える。
『……来るぞ』
ベルの声が低くなった。
俺は反射的にベルへ手をかける。
「フィア」
「聞こえた」
俺には何も聞こえていない。
でもフィアは耳を立て、通路の奥を睨んでいた。
「右」
言われた瞬間。
黒い影が飛び出した。
「下がって!」
調査員たちを後ろへ押し、俺はベルを前へ出す。
衝撃を受けるつもりだった。
けれど、来ない。
「え?」
黒い個体は俺の正面へ飛び込まず、ベルの縁ぎりぎりを回り込んだ。
速い。
身体を低く沈め、俺の右側へ滑る。
俺は慌ててベルを回した。
その動きに合わせるように、黒い個体がさらに外へ逃げる。
『こいつ』
ベルの声が変わった。
『俺様の正面に来ねえ』
当たり前といえば当たり前だ。
大盾の真正面へ突っ込む魔物なんて少ない。
でも、こいつの避け方は妙に正確だった。
「フィア!」
俺が呼ぶより早く、弓弦が鳴った。
矢が飛ぶ。
黒い個体は、放たれた後に避けたわけじゃなかった。
フィアが狙いを定めた瞬間には、もう横へ動いていた。
「外した?」
「違う」
フィアの目が細くなる。
「撃つ前に動いた」
2本目。
今度はフィアが少し狙いをずらす。
黒い個体はまた動く。
でも、今度は一瞬遅れた。
矢が黒い背中のすぐ横を抜ける。
「今の」
「うん」
フィアはもう次の矢を構えない。
「最初と違う射線にしたら、遅れた」
黒い個体が床を蹴った。
今度は俺へ来る。
クロを抜く。
黒剣を横から振る。
個体は刃の届く直前で身体を沈め、俺の懐へ入ろうとした。
「近い!」
ベルを押し込む。
個体はそれも受けず、床を蹴って後ろへ飛んだ。
『妙だな』
ベルが言う。
「何が?」
『俺様を初めて見る動きじゃねえ』
意味を考える暇はなかった。
黒い個体が、今度はフィアへ向きを変える。
フィアは弓を捨てない。
ただし矢を撃たず、1歩横へずれた。
個体もそれに合わせる。
また1歩。
また合わせる。
「読んでる?」
俺が言う。
「分からない」
フィアは短く答える。
次の瞬間、弓を左手へ寄せ、右手で腰の短剣を抜いた。
動きが変わった。
黒い個体が止まる。
ほんの一瞬。
フィアが踏み込んだ。
短剣が黒い身体を浅く掠める。
「入った!」
でも、喜んでいる暇はなかった。
個体が反転する。
低い姿勢。
前脚を短く引き、身体ごと前へ出る。
その踏み込み方を見て、フィアの表情が変わった。
「え」
個体の前脚が振られる。
フィアは後ろへ跳んで避けた。
攻撃自体は当たらない。
でも、今の動きには見覚えがあった。
「フィア」
「……うん」
フィアが自分の短剣を見る。
「今の、私の踏み込みに似てた」
『違う』
クロの声がした。
「何が?」
『似てるんじゃない』
黒い個体を見る。
クロの半透明の姿が、いつもより真剣な顔をしていた。
『継いでる』
「継いでる?」
『動き』
それ以上は出てこない。
クロ自身も、うまく言葉にできないらしい。
黒い個体がまた動いた。
今度は俺へ。
正面には来ない。
ベルの端へ。
クロを振れば、届く前に下がる。
フィアが弓へ戻せば、射線を作るより先に横へ出る。
そして短剣へ持ち替えると、さっきより反応が早くなった。
「もう遅れない」
フィアが呟く。
「1回見たから?」
「分からない。でも、さっきとは違う」
俺は個体を追いながら、周囲を見る。
狭い。
棚。
古い支柱。
後ろには調査員が2人。
ここで無理に追い込めば、逃げ場を失った個体がどこへ飛び込むか分からない。倒せるかどうかも、まだ分からない。
「下がります」
俺が言った。
調査員が驚く。
「まだ戦えますが」
「ここじゃない方がいいです」
ベルを構えたまま、ゆっくり後退する。
「こいつを追い詰めたら、そっちに行くかもしれない。俺たちだけならまだしも、巻き込む方が危ない」
フィアもすぐに下がった。
「私も賛成」
『逃がすのか?』
ベルが聞く。
「今はな」
『倒せる時に倒した方が早いぞ』
「倒せるって分かってから言ってくれ」
『ぐぬ』
黒い個体は追ってこなかった。
俺たちが道を空けると、むしろその隙間を待っていたみたいに壁際へ走る。
フィアが矢を構える。
「撃つ?」
一瞬だけ迷う。
でも。
「いや」
俺は首を振った。
「行かせよう」
フィアは矢を下ろした。
黒い個体は古い棚の横を抜け、その奥にある細い亀裂へ身体を滑り込ませる。
見た目よりずっと細い隙間だった。
あの身体で通れるとは思わなかった。
「……また大きさが変わった?」
「分からない」
フィアが亀裂の前まで行く。
「でも、さっきより細く見えた」
俺も近づく。
追わない。
そこは変えない。
亀裂の奥から、石を擦るような音が遠ざかっていった。
調査員が倒れた棚の晶石を確認する。
「これは……」
声に振り返る。
さっき黒い個体がいた場所。
そこに残っていた晶石の多くは、端を削られていた。
ラベルを読み上げる。
「盾術訓練記録。弓術射線記録。短剣近接訓練。剣術基礎……」
俺は黒い個体が消えた亀裂を見る。
盾の正面を避けた。
矢を撃つ前に射線から外れた。
短剣の踏み込みに似た動きを返した。
偶然。
そう言ってしまえば、それまでだ。
でも、偶然にしては重なりすぎている。
「ルカ」
フィアが呼ぶ。
「うん」
「あれ、食べたものと同じ動きしてない?」
俺はすぐには答えられなかった。
足元には、削られた晶石。
その中には、戦い方の記録。
そして、それを食べていた黒い個体。
『継いでる』
もう一度、クロが言った。
『動きを』
背中が少し冷えた。
強い魔物なら、まだ分かる。
速い。
硬い。
力がある。
そういう相手なら、見て考えればいい。
でも。
もし、あいつが。
食べたものから戦い方まで持っていっているのだとしたら。
「……厄介だな」
俺が呟く。
フィアが小さく頷いた。
亀裂の奥では、もう音はしなかった。




