第43話 食べられた晶石
透明な欠片は、白い布の上に置かれていた。
昨日、大型測定晶の台座から落ちたものだ。測定室からは持ち出さず、その場で技師と職員が調べることになった。
俺とフィアは、少し離れた机からその様子を見ている。
「やっぱり、割れた跡じゃないんですか?」
「少なくとも、普通に欠けた形ではありません」
技師は細い器具で欠片を固定し、端の部分へ小さな拡大鏡を当てた。
「自然な亀裂なら、断面はもっと直線的になります。台座へぶつけた痕跡もない。工具で削ったなら、刃の方向が残るはずです」
「熱は?」
フィアが聞く。
「熱による変色もありません」
技師は一度手を止め、拡大鏡から顔を離した。
「問題は、この窪みですね」
欠片の縁には、小さな凹みがいくつも並んでいた。
昨日はただ削れているようにしか見えなかったけれど、近くで見ると1つ1つの形が妙に揃っている。
「歯形みたいなやつ?」
「断定はできません。ただ、何かが繰り返し圧力をかけたようには見えます」
「晶石を噛んだってことですか?」
「そこまでは、まだ」
技師は慎重だった。
でも、他に何と呼べばいいのか分からない。
何かが測定晶へ何度も力をかけ、少しずつ削った。その結果がこれなら、フィアが昨日言った「食べたみたい」という言葉が一番近かった。
『石を食うやつなんざ聞いたことねえぞ』
ベルが念話で言う。
「俺もないよ」
『俺様に聞くな』
「そっちから言ったんだろ」
小声で返す。
技師たちは欠片に集中していて気づいていない。
クロは何も言わなかった。
半透明の姿で机のそばに立ち、欠片をじっと見ている。
「クロ?」
『嫌』
「何が?」
『分からない』
それだけだった。
クロの「分からない」は、本当に何も分からない時と、記憶の奥で何かが引っかかっている時がある。
今回は、たぶん後者だ。
ただ、無理に聞いても思い出せないものは思い出せない。俺はそれ以上聞かなかった。
「他も確認します」
技師が立ち上がった。
「他?」
「保管されている晶石です。これが偶然ではないなら、同じ損傷があるかもしれません」
俺とフィアも一緒に保管庫へ向かった。
測定室の奥にある小さな扉を抜けると、通路の先に鍵の掛かった保管室がある。中には木箱や石製の棚が並び、それぞれに小さな晶石が収められていた。
「全部、測定用ですか?」
「用途は少しずつ違います。個人記録の一時保存、予備の測定晶、交換部品。それから古い記録媒体もあります」
「ずいぶんあるね」
フィアが棚を見回す。
「長く使ってますから」
職員が鍵を開け、棚から箱を1つ下ろした。
中には指先ほどの透明な晶石が並んでいる。
「これは未使用品です」
技師が1つ取り出した。
傷はない。
他の晶石も確認する。
どれも綺麗だった。
「次はこちらです」
別の箱。
今度は使用済みの晶石だった。
最初の1つは無事。
2つ目も問題なし。
3つ目。
技師の手が止まった。
「……ありますね」
晶石の角が欠けている。
昨日の欠片と似ていた。
割れたというより、一部分だけ細かく削られている。
「こっちも」
フィアが別の晶石を指した。
そこにも小さな窪み。
さらに、その隣。
また同じ跡。
確認する数が増えるほど、偶然とは思えなくなっていった。
「新品にはない」
フィアが言う。
「そう見えます」
「使ったやつだけ?」
「今のところは」
技師は記録板へ何かを書き込む。
俺は箱の中を見ながら聞いた。
「使った晶石と使ってない晶石って、何が違うんですか?」
「保存されている情報です」
「それ以外は?」
「材質も大きさも、基本的には同じです」
俺とフィアは顔を見合わせた。
材質は同じ。
置いてある場所も同じ。
なのに、片方だけが削られている。
「じゃあ」
俺は言いながら、自分でも変な話だと思った。
「晶石そのものが目当てじゃない?」
技師の手が止まった。
「中に入ってる記録の方を選んでる、とか」
すぐに否定されると思った。
でも、誰も否定しなかった。
「まだ分かりません」
技師はそう前置きした。
「ただ、調べる価値はあります」
「記録が多い晶石ほど削られてるか確認すればいい?」
フィアが聞く。
「そうですね」
そこからは、箱ごとに晶石を確認していった。
俺には違いがよく分からないものも多い。
フィアはもっと別のところを見ていた。
「これ」
突然しゃがみ込む。
「どうした?」
「床」
指さした先を見る。
何もない。
少なくとも俺にはそう見えた。
「何がある?」
「粉」
「粉?」
フィアが指を床すれすれまで近づける。
触れはしない。
「晶石の粉。たぶん」
目を凝らすと、確かに淡い光を反射する粒が落ちていた。
ほんの少し。
知らなければ埃だと思って見逃すくらいだ。
「こっちにもある」
フィアは棚の下へ視線を移した。
粉が点々と続いている。
俺も追ってみる。
途中で、床板に細い擦り傷があった。
「引きずった跡?」
「違う」
フィアはすぐ答えた。
「何かが通った」
「歩いたってこと?」
「たぶん」
フィアの目つきが変わっている。
迷宮で痕跡を追う時と同じだ。
俺は下手に先へ行かず、少し後ろからついていく。
粉。
小さな擦り傷。
棚の角に付いた黒い汚れ。
フィアは1つずつ拾っていく。
「これも」
黒い汚れを覗き込む。
「泥?」
「違うと思う」
「じゃあ何?」
「分からない」
黒い薄膜みたいなものだった。
油にも見えるし、乾いた皮にも見える。
触らずに技師を呼ぶ。
器具ですくうと、薄い膜は簡単に崩れた。
「生物由来……かもしれません」
「魔物?」
「それも断定できません」
断定できないことばかりだ。
でも、少なくとも誰かが工具を持ち込んで晶石を削った、という話からは遠ざかっている。
フィアはさらに奥へ進んだ。
そこで、また床を見る。
「変」
「何が?」
「跡の幅」
さっきまで並んでいた擦り傷は、俺の手のひらより狭い間隔だった。
でも少し先では広がっている。
「別のやつじゃない?」
「それなら、途中で足跡が増えるはず」
「1匹?」
「分からない。でも」
フィアはその先へ視線を向けた。
「同じ方向に続いてる」
細い擦り傷が、棚と壁の間へ伸びている。
その途中。
また幅が変わっていた。
狭くなったり、広くなったりしている。
「歩き方が変わってる?」
「それか、大きさ」
「途中で?」
「だから変」
フィアの声が小さくなる。
俺も黙った。
同じものが通ったとするなら、身体の大きさか足の位置が途中で変化している。
そんな魔物、聞いたことがない。
『嫌な感じだな』
ベルもさっきまでより声を落としていた。
クロは何も言わない。
保管室の一番奥まで来ると、粉の跡は壁際で途切れた。
「終わり?」
「違う」
フィアが壁の下を見る。
石壁と床の間に、わずかな隙間がある。
普通なら気にしない程度の継ぎ目。
でも、そこに黒い薄膜が挟まっていた。
「ここを通った?」
「この隙間じゃ無理だろ」
「今の大きさならね」
「今の?」
フィアが返事をする前に。
カリッ。
小さな音がした。
全員が止まる。
保管室のどこか。
もう一度。
カリ、カリ。
「何の音?」
職員が声を潜める。
俺はベルへ手を伸ばしかけた。
でも、まだ抜かない。
フィアが片手を上げる。
静かに。
そういう合図だった。
音は棚の向こうから聞こえる。
ゆっくり回り込む。
そこで。
黒いものが動いた。
「いた」
フィアの声と同時だった。
棚の下から、小さな影が飛び出す。
最初に思ったのは、魔物にしては小さい、だった。
猫くらい。
いや、それより少し大きいかもしれない。
全身が黒い。
毛なのか、皮なのかも一瞬では分からない。背中が不自然に盛り上がり、前脚と後ろ脚の長さも揃っていない。
そいつの口には、透明な晶石の欠片がくわえられていた。
「あれ……」
考えるより先に身体が動く。
俺は1歩踏み出した。
「待って」
フィアの声で止まった。
本当に。
それだけで止まった。
「追わないの?」
「狭い」
フィアは黒い個体から目を離さない。
「どこに逃げるか見る」
俺はベルから手を離した。
「分かった」
黒い個体は俺たちを見た。
目らしいものがある。
でも、形がよく分からない。
黒い身体の中で、そこだけがわずかに光を反射していた。
数秒。
動かない。
そして、首を傾けた。
『なんだ、こいつ』
ベルの声。
クロが小さく呟いた。
『知らない』
黒い個体が動く。
晶石をくわえたまま、壁際へ走った。
速い。
でも出口には向かわない。
「そっち?」
俺が声を上げる。
個体は石壁の端にある古い棚へ飛び乗り、その裏へ身体を滑り込ませた。
職員が驚く。
「そこは壁です!」
フィアがすぐ棚の横へ回り込む。
俺も続く。
裏側には、人が入れるほどではない細い隙間があった。
ただ。
奥に暗い穴が見える。
「通路?」
「管理用かも」
技師が青ざめた顔で言う。
「今は使っていないはずですが……」
フィアが床を見る。
黒い個体の擦り跡。
さっきの晶石の粉。
両方が暗い隙間の奥へ続いている。
「追う?」
俺は聞いた。
今度は勝手に動かない。
フィアは少し考えた。
「今日は追わない」
「分かった」
「早いね」
「さっき止められたからな」
「学んだ」
「俺だって学ぶよ」
『俺様の小僧が成長してやがる……!』
「そこで感動するな」
思わず返した瞬間。
暗い通路の奥から音がした。
バキッ。
硬いものが割れる。
続いて。
ガリ。
ガリ、ガリ。
さっきより大きい。
何かを噛み砕いている音。
誰も笑わなかった。
俺は暗闇の奥を見る。
姿はもう見えない。
でも。
何をしているのかだけは、嫌でも想像できた。
晶石を。
あいつは今も、食べている。




