第41話 消えた記録
あれから、数日が経った。
右腕に残っていた痛みも、今では強く動かさなければ気にならないくらいまで引いている。治療師からも、無理をしなければ普段の生活に戻っていいと言われた。
問題は、その「無理をしなければ」がどこまでを指すのかだった。
『迷宮に行くのは無理に入るか?』
「入るに決まってるだろ」
『俺様なら行けるぞ』
「ベルじゃなくて俺の話だからな」
背中の大盾から届く声に小さく返しながら、俺は冒険者ギルドの扉を押した。
昼前のギルドは、それなりに人が多い。依頼板の前では何人かの冒険者が紙を取り合うように眺め、受付には依頼帰りらしい一団が並んでいた。いつもと変わらない光景なのに、数日前まで地下で12人の帰り道を探していたせいか、妙に平和に見える。
俺が中へ入ると、受付の向こうにいたミナさんがすぐこちらを見た。
「ルカ」
手招きされたので近づく。
「腕は?」
「ほとんど大丈夫です」
「ほとんど、ね」
ミナさんの視線が右腕へ落ちる。
「治ったとは言ってません」
「分かってるならいいけど。痛くなったらちゃんと言うこと」
「はい」
「返事だけはいいんだから」
少し呆れた顔をされた。
灰牙狼の時から、ミナさんは俺の怪我に前よりうるさくなった気がする。今回も帰還予定を大きく過ぎたから、たぶん余計にだ。
「フィアはもう来てるよ」
「え?」
「奥」
ミナさんが受付の後ろにある扉へ視線を向ける。
「今日は依頼じゃない。調査の件で、2人に確認してほしいことがあるの」
さっきまでの砕けた声が、少しだけ仕事のものに変わった。
俺は背筋を伸ばす。
「……分かりました」
ミナさんに案内されて、普段は入らないギルドの奥へ進んだ。
通されたのは、小さな会議室だった。
長机と椅子、それから壁際に書類棚があるだけの簡素な部屋。窓は小さく、外の喧騒もほとんど聞こえない。
フィアはすでに席についていた。
「遅い」
「時間前だよ」
「私の方が早かった」
「それを遅いって言うのか?」
「今日は言う」
いつも通りの声だった。
ただ、机の上に並べられた書類へ目を移した瞬間、フィアの表情が少し引き締まる。
俺も向かいの椅子へ座った。
「ミナさん、これは?」
「順番に説明するね」
ミナさんは扉を閉めると、机の上にある2つの紙束をこちらへ向けた。
「こっちが、ルカが前に提出した報告書を元に作った保管記録。こっちは別系統で残ってた複写記録」
見た目はほとんど同じだ。
何枚かめくってみる。
灰牙狼。
迷宮内での負傷。
通常とは違う通路。
見覚えのある内容が並んでいる。
けれど、ページを追ううちに妙な違和感が出てきた。
「……ここ」
俺が指を止める。
地図外の空間について書いたはずの部分。
文章が途中から繋がっていない。
前後だけを読めば、俺が普通の通路で灰牙狼と遭遇したようにも見える。
「ない」
フィアが隣の紙束を見比べながら言った。
「うん」
ミナさんが頷く。
「最初は単純な転記ミスも考えた。でも、他にもある」
次の紙。
白い光。
俺がベルとクロを見つけた地下空間で見た、あの細い走査線。
その記述もない。
さらに。
「古代武装……」
ベルとクロについて書いた部分も、妙に薄くなっていた。
全部が消えているわけじゃない。
特殊な装備を持ち帰ったこと自体は残っている。
でも。
どこで見つけたのか。
なぜそこにあったのか。
発見時に何が起きたのか。
重要な部分だけが抜け落ちている。
『……気に入らねえな』
ベルの声が低くなる。
一般の職員がいる場所だから、声は俺にしか届かない念話だ。
クロは何も言わない。
けれど、視界の端にいる半透明の少女は、机の上の記録をじっと見ていた。
「誰かが消したんですか?」
俺が聞くと、ミナさんはすぐには頷かなかった。
「それが分からないの」
「分からない?」
「記録を変更したなら、普通は担当者か確認者の履歴が残る。少なくとも、誰がいつ触ったかまでは追えるはず」
ミナさんが一枚の紙を指で叩く。
「でも今回は、それがない」
フィアが顔を上げた。
「最初から書かれてなかったみたいに?」
「今残ってる記録だけ見ればね」
「でも、書いた」
「書きました」
俺は即答した。
あの時のことは覚えている。
地図にない穴。
ベルとクロ。
白い線。
戻ってから何度も説明した。
信じてもらえなかった部分だって多かったけれど、だからこそできるだけ細かく話したはずだ。
「私も確認してる」
ミナさんが言った。
「ルカがあの地下について説明したことは覚えてる。書類を受け取った職員も同じ。ただ、その内容が今の保管記録には残ってない」
部屋が少し静かになった。
誰かが消した。
そう言われた方が、まだ分かりやすかった。
でも今の話だと、消した人間がいない。
なのに、消えている。
「それで、もう一つ」
ミナさんが別の薄い書類を取り出した。
「ルカの測定記録」
「俺の?」
「灰牙狼を倒して戻った後のもの」
そこには、見慣れた数字が並んでいた。
レベル1。
その後。
レベル3。
あの時、何度見ても信じられなかった数字だ。
けれど今日はそこではなかった。
「測定した時、変な光が出たの覚えてる?」
「白い線ですよね」
「そう」
胸の奥が少しざわつく。
あれはベルとクロを見つけた場所で見たものと、よく似ていた。
「測定担当も異常反応として記録したはずなの。でも」
ミナさんが紙をこちらへ滑らせる。
「その部分だけ残ってない」
「……また?」
「また」
フィアが紙へ顔を寄せた。
「他は?」
「レベル上昇の記録はある。測定日時もある。担当者の名前もある。異常が起きた時間帯まで残ってる」
「なのに、白い光だけない」
「そういうこと」
変だった。
紙を消しただけなら、まだ人間の仕業だと思える。
でも測定記録まで同じように欠けている。
しかも、消えているのは全部。
あの地下。
ベルとクロ。
白い線。
繋がっていそうなものばかりだった。
「ミナさん」
「うん?」
「測定晶って、レベル以外にも何か残ってるんですか?」
質問すると、ミナさんは少し考えてから答えた。
「かなり残るみたい」
「かなり?」
「ここからは専門の人に聞いた話だけどね」
ミナさんは、自分の知識みたいに話さない。その辺りはいつもきっちりしている。
「技能の傾向とか、魔力の反応とか、過去の測定結果。それと、怪我や戦闘に関する記録も一部保存されてるって」
「戦闘?」
「詳しいところは担当の技師から聞いた方がいい。私も全部説明できるほど詳しくないから」
フィアが腕を組む。
「そんなに入ってるの?」
「私も今回初めて細かく聞いた」
レベルを測るための晶石。
俺はずっと、ほとんどそれだけだと思っていた。
数字を出す。
技能を見る。
せいぜいその程度。
でも実際には、もっと多くのものを覚えているらしい。
『記録……』
クロが小さく呟いた。
「クロ?」
思わず声に出しかけて、俺は途中で口を閉じた。
フィアだけならベルとクロに意思があることを知っている。
でもここにはミナさんがいる。
危ない。
「どうしたの?」
「いや。なんでもないです」
ミナさんは少し怪しそうな顔をしたけれど、それ以上は追及しなかった。
「それでね。大型の測定晶は、いったん交換することになった」
「交換?」
「うん。今使ってるものを外して、別の晶石へ切り替える。古い方は停止させて詳しく調べるって」
「そこまで?」
フィアが聞く。
ミナさんは頷いた。
「報告書だけなら書類管理の問題で済んだ。でも測定記録にも同じような欠損が出てる。さすがに無視できないって判断」
当然だと思う。
測定晶は、冒険者なら何度も使う。
もしそこに残った記録まで勝手に消えるなら、俺だけの問題じゃない。
「だから2人にも協力してほしい」
「何をすれば?」
「現場を知ってる人間として、調査班の確認に答えてほしいの。調査そのものは専門の人がやる。ルカたちだけで原因を探しに行ったりはしないこと」
最後の部分だけ、妙に強かった。
「俺、そんなことします?」
ミナさんとフィアが同時に俺を見る。
「……なんで2人とも黙るんですか」
「自覚ないんだ」
「ないんだね」
「フィアまで」
少しだけ空気が緩んだ。
でも、それも長くは続かなかった。
フィアがもう一度、机の上の記録へ視線を落とす。
「これ、いつから?」
「分からない」
ミナさんの声も仕事のものへ戻る。
「最後に正常だった時期を調べてる。でも、全部の記録を毎日見比べてるわけじゃないから」
「他の人の記録は?」
「それも確認中。今のところ、同じ欠損があると断定できるものは見つかってない」
つまり。
俺の周りだけ。
そう考えた瞬間、背中のベルが少し重くなった気がした。
もちろん、本当に重さが変わったわけじゃない。
でも、嫌な感じがする。
「分かった」
フィアが言った。
「協力する」
ミナさんが俺を見る。
「ルカは?」
「俺もやります」
「無理しない範囲でね」
「はい」
「あと、勝手に地下へ行かない」
「はい」
「怪しいもの見つけても触らない」
「……はい」
「今ちょっと間があったよね?」
「気のせいです」
フィアが小さく息を吐いた。
笑ったのか呆れたのかは分からない。
話が終わり、ミナさんが書類をまとめ始める。
その手元を見ながら、俺はもう一度だけ欠けた記録へ目を落とした。
地図にない穴。
白い線。
ベルとクロ。
そして、俺の測定記録。
別々だったはずのものが、少しずつ同じ場所へ集まってきている。
誰かが消したのなら、理由がある。
誰も消していないのなら。
それは、それで余計に気味が悪い。
会議室を出る前、フィアが俺の横で小さく言った。
「また増えたね」
「何が?」
「分からないこと」
「……増えたな」
「今度は勝手に行かないで」
「行かないよ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんじゃ駄目」
即座に返された。
俺は苦笑して、扉へ手をかける。
その頃。
俺たちの誰も見ていないギルド地下の測定室で、大型測定晶の奥に小さな影が揺れた。
黒い染みのようなものが、透明な晶石の内側をほんの少しだけ這う。
次の瞬間には消えていた。
まるで最初から、そこには何もなかったみたいに。




