第39話 全員で帰る
12人目が壁の向こうへ抜けた直後、ベルを押し当てていた岩壁が大きく軋んだ。
『小僧、限界だ!』
「分かってる!」
腕も肩も、もうほとんど感覚がない。ベルが受け止めているのは壁そのものではなく、狭くなり続ける通路の一部に身体を差し込み、最後の1人が抜けるだけの幅を無理やり残しているだけだ。
その役目は、もう終わった。
「全員、下がって!」
俺が叫ぶと、護衛と救護担当がすぐに壁から離れた。俺もベルを引き抜き、その場から飛び退く。
次の瞬間、さっきまで盾があった場所へ岩が滑り込んだ。
ごう、と重い音が通路に響き、12人が抜けた穴が一気に半分ほどまで狭くなる。舞い上がった石粉が喉へ入り、思わず咳き込んだ。
「ルカ!」
向こう側からフィアの声がした。
「無事!」
咳の合間に答えながら、周囲を確認する。護衛も救護担当も立っている。少なくとも、こちら側に残った3人に新しい怪我はなさそうだった。
「12人は?」
「全員いる!」
その返事を聞いて、胸の奥に張りついていたものが少しだけ緩んだ。
12人全員を向こうへ渡せた。
でも、まだ終わりじゃない。
こっちには俺たちが残っている。
◇
「通れるか?」
護衛が狭くなった穴を覗き込む。
人1人なら、まだ通れそうだった。ただし、さっきまでと違って身体をかなり横にしなければならない。壁も動き続けていて、細かな石が絶えず床へ落ちている。
「今なら」
向こう側からフィアが答えた。
「でも、長くは無理」
「なら順番決めよう」
俺が言うと、護衛と救護担当がこちらを見る。
「救護担当から行ってください。向こうには12人いる。何かあった時、一番必要なのはそっちです」
「私?」
一瞬だけ迷ったようだったけれど、すぐに頷いた。
「分かった」
「次は護衛。俺が最後で」
「ベルがあるからか」
「はい」
護衛は俺の手元を見る。
「その盾、もうかなりきつそうだけどな」
「俺もそう思います」
『何だと! 俺様はまだまだいけるぞ!』
頭の中では元気いっぱいだ。
俺の腕はそうでもない。
それでも、最後まで崩落に備えられるのは俺とベルだけだった。
「行ってください」
救護担当の女性が穴へ入り、壁へ肩を擦りながら慎重に進む。向こう側からフィアが足場を確認し、短く指示を飛ばした。
「足元、右。そこ、少し低い」
「分かった!」
1歩ずつ身体を横へ滑らせるように進み、途中で小さな石が落ちたものの、問題なく抜けた。
「通った!」
フィアの声が返る。
残りは俺と護衛。
それから、ベルとクロ。
少し変な数え方かもしれない。
でも俺にとっては、それで合っている。
◇
「次、俺だな」
護衛が穴へ向かおうとした、その時だった。
ごり、と遠くから聞き慣れた音が響く。
《岩喰い大百足》。
俺と護衛が同時に振り返った。
「近くなってないか?」
「たぶん」
姿はまだ見えない。けれど石を削る音は、さっきよりはっきり聞こえている。
あいつ自身は予定した方向へ進んでいるはずだ。それでも《重層迷宮》そのものが動いている以上、通路の位置が変われば、大百足との距離まで地図通りとは限らない。
「急いだ方がいい」
「分かってる」
護衛が穴へ身体を入れた直後、床が大きく揺れた。護衛が壁へ手をつき、入口の上から石が落ちてくる。
「そのまま進んで!」
俺はベルを頭上へ構えた。
拳より大きな石がいくつも盾を叩き、そのたびに衝撃が腕から肩へ抜けていく。
『この程度なら問題ねえ!』
「俺には問題ある!」
『根性で持て!』
「雑すぎるだろ!」
文句を返しながらも、盾は下ろさない。護衛が抜けるまで、あと数秒。それだけ持てばいい。
「行け!」
護衛が最後の1歩を踏み込み、穴の向こうへ消えた。
「通った!」
フィアの声が返ってくる。
俺はすぐにベルを下ろした。
こっち側に残ったのは、俺だけだった。
◇
「ルカ、早く!」
「今行く!」
穴へ近づく。
俺だけなら通れる。
問題はベルだった。
背中へ回そうとしても盾の幅が引っかかる。横向きにしても、今の穴では厳しい。
「ベル」
『何だ』
「ちょっと痩せられない?」
『ふざけてる場合か!』
「ですよね!」
予想通りの返事だった。
ベルそのものの形は変えられない。もちろん、置いていくつもりもない。
そんなことをするために、ここまで来たんじゃない。
「ルカ!」
フィアがまた呼ぶ。
「盾が通らない!」
一瞬だけ向こうが静かになったあと、すぐに返事が来た。
「縦!」
「やってる!」
「違う、下!」
俺は足元を見る。
壁が動いたせいで、穴の下側と床との間に少しだけ隙間ができている。
「ベルの下を先に滑らせて!」
「なるほど」
盾を立てたまま通そうとするから駄目なんだ。
下端を先に入れて、斜めにする。
以前、傷だらけの俺を捜索隊が運んだ時にも、ベルの下端を滑らせながら移動した。
「ベル、ちょっと寝て」
『言い方が気に食わん!』
「でもやるだろ?」
『当然だ!』
ベルを斜めに倒し、下端を隙間へ差し込む。
「いける?」
向こう側からフィアが覗く。
「たぶん」
「たぶん禁止」
「じゃあ、いける」
「根拠ない」
「今作ってる!」
ベルを押す。
俺が握っている間は本来の重さよりずっと軽く感じるとはいえ、この姿勢では扱いにくい。石の縁へ何度も引っかかりながら、少しずつ盾を穴の向こうへ滑らせていく。
「見えた!」
フィアの手がベルの縁へ伸びる。
「触るな!」
「分かってる!」
普通の人には持ち上げられない。
フィアもそれを知っているから、引っ張ろうとはせず、進む向きだけを指示する。
「もう少し左!」
「こっち?」
「反対!」
「早く言って!」
「言った!」
こんな状況なのに、少しだけいつもの調子に戻った。
そのおかげで、張りつめていた怖さが少し薄れた気がした。
◇
ベルの半分以上が穴を通ったところで、岩壁がまた動いた。
「ルカ!」
穴がさらに狭くなり、ベルの縁が石へ挟まった。
「っ!」
押す。
動かない。
『小僧、力入れろ!』
「入れてる!」
後ろから、また石を削る音が響いた。
今度はかなり近い。
振り返ると、まだ大百足の姿は見えないものの、曲がり角の向こうから石粉が流れてきている。
時間はない。
ベルは挟まったまま。このまま無理に引けば穴がさらに崩れるかもしれないし、押しても動かない。
なら、角度を変える。
俺は一度ベルを少しだけ戻した。
「何してるの!?」
フィアの声が飛ぶ。
「引っかかってる!」
「戻したら閉じる!」
「分かってる!」
盾をさらに寝かせ、下端を床へ擦らせながら向きを変える。
『右だ、小僧!』
「右?」
『そっちの石が浅い!』
ベルの声に従って右へ寄せる。
クロも続いた。
『そこ。隙間』
見ると、石の継ぎ目にわずかな隙間がある。
そこへ盾の縁を合わせた。
「いけ!」
全身で押し込む。
ベルが一気に前へ滑った。
「来た!」
向こう側で大きな音がする。
盾が完全に抜けた。
「ベル!」
『先に行ってるぞ、小僧!』
「自分で行ったみたいに言うな!」
俺も続いて穴へ身体を入れた。
◇
肩、胸、腰の順に岩の隙間へ押し込んでいく。
服が石へ擦れ、背後から伝わる振動のたびに、穴の上部が少しずつ下がってくる。
「ルカ、手!」
フィアが腕を伸ばす。
俺も手を出した。
指が触れた、その瞬間だった。
背後で大きな音が響いた。
振り返る余裕はない。
でも何かが崩れたことだけは分かった。
「来て!」
フィアが俺の腕を掴む。
俺も足で地面を蹴った。
身体が前へ抜け、そのまま床へ転がる。
「うわっ!」
「ルカ!」
「大丈夫!」
身体を起こして振り返ると、さっきまで通っていた穴はほとんど閉じていた。
あと少し遅かったら。
そこから先は考えないことにした。
「……危なかった」
「遅い」
フィアが言う。
「仕方ないだろ。ベルが大きいんだから」
『俺様のせいにすんな!』
「半分くらいベルのせいだろ」
『守ってやった俺様に何たる言い草だ!』
「分かった分かった。ありがとう」
『最初からそう言え!』
ベルはいつも通りだった。
それを聞いて、ようやく少し安心した。
◇
「全員いる?」
立ち上がりながら周囲を見る。
フィア。
護衛。
救護担当。
そして12人の生存者。
救護担当へ視線を向けると、すぐに答えが返ってきた。
「12人、全員います。今のところ新しい怪我もありません。ただ、早く休ませたいです」
「ここは安全?」
フィアが周囲を確認する。
「さっきよりは。でも、まだ通常区域じゃない」
つまり地上へ帰れたわけじゃない。
大きな山を1つ越えただけだ。
「進もう」
俺が言うと、護衛が眉をひそめた。
「少し休まなくていいのか?」
「俺は大丈夫です」
「腕震えてるぞ」
自分の右腕を見る。
本当に震えていた。
「……少しだけ休みましょう」
「そうしろ」
素直に壁際へ座った。
ここまで来て強がって倒れたら、それこそ意味がない。
◇
短い休憩のあと、16人全員で再び歩き始めた。
先頭はフィア。その後ろに自力で歩ける人たちを置き、補助が必要な人を真ん中へ集める。護衛と救護担当がそこを支え、俺は最後尾でベルを構えながら進んだ。
もう大百足の音は聞こえない。
遠ざかったのか、別の壁の向こうへ進んだのかは分からない。
でも、追う理由はなかった。
「フィア、こっちで合ってる?」
「合ってる」
「迷いないな」
「一回来たから」
フィアが確認してきた方向を頼りに、大百足が開けた下側の広い通路を進む。
しばらくすると、前から空気が流れてきた。
「風」
誰かが言った。
俺にも分かる。
閉じた地下の淀んだ匂いとは違う。乾いた空気が、確かにこちらへ流れている。
「近い?」
「うん」
フィアの返事が聞こえた。
全員の足取りが少しだけ速くなる。
「急がないで!」
救護担当がすぐに声を上げた。
「ここまで来て転んだら意味ないから!」
それを聞いて、みんなの速度が戻る。
俺も少し笑った。
本当にその通りだ。
帰るまでは、まだ終わっていない。
◇
さらに進むと、壁の色が少しずつ変わり始めた。
黒い石と黄色い石が入り混じった不自然な構造が減り、代わりに見慣れた灰色の石が増えていく。
「これ」
俺は壁へ触れた。
「ルーメン迷宮?」
「かなり近い」
フィアが答える。
角を1つ曲がった先の壁に、人工的に埋め込まれた照明石が見えた。
見慣れた形。
見慣れた間隔。
「……通常区域だ」
護衛が長く息を吐く。
後ろから、誰かの小さな泣き声が聞こえた。
俺もすぐには言葉が出なかった。
普段なら何の感動もない、ただの迷宮の通路だ。
でも今は、それが信じられないくらい安心できる景色に見えた。
「まだ地上じゃない」
フィアが言う。
「分かってる」
俺は笑った。
「でも、帰れる」
今度は、そう言っていいと思った。
◇
通常区域へ入ったあとも、隊列は崩さなかった。
フィアが先頭に立ち、護衛と救護担当が負傷者を支える。俺は変わらず最後尾だ。
さっきまでの《重層迷宮》とは違って、地図が使える。道が勝手に消えないし、曲がった先に何があるのかも分かる。
それだけで、こんなに歩きやすいのかと思った。
「あとどれくらい?」
生存者の1人が聞く。
「地上まで?」
「うん」
護衛が地図を見る。
「まだ歩く。でも、もう迷わない」
その言葉に、何人かが長く息を吐いた。
迷わない。
それだけで十分だった。
◇
途中で2度、休憩を入れた。
一番消耗している男は護衛に背負われ、別の2人も肩を借りながら進んでいる。
それでも誰も立ち止まろうとはしなかった。
「ルカ」
フィアが少し速度を落として、最後尾まで下がってくる。
「何?」
「盾、大丈夫?」
「ベル?」
「ルカ」
「あ、俺か」
「そっち」
「たぶん大丈夫」
「たぶん禁止」
「それ前にも言ったな」
「覚えてた?」
「一応」
右腕を軽く振る。
痛みはある。
でも動く。
「地上まで持つよ」
「ならいい」
フィアがまた前へ戻ろうとする。
「フィア」
「なに?」
「ありがとな」
足が止まった。
「何が?」
「道」
フィアが見つけなかったら、俺たちは今も《重層迷宮》の中で出口を探していたかもしれない。
「仕事しただけ」
「それでも」
フィアは少し考えてから、俺を見る。
「じゃあ、ルカも」
「俺?」
「壁」
ベルで支えたことだと思う。
「仕事しただけ」
同じ言葉を返す。
フィアが一瞬だけ黙った。
「……それ、ちょっと腹立つ」
「自分で言っただろ」
小さく笑って、フィアは先頭へ戻っていった。
◇
やがて、前方から人の声が聞こえた。
最初は聞き間違いかと思ったけれど、フィアがすぐに手を上げ、全員を止める。
「誰かいるか!」
今度は、はっきり聞こえた。
「救助隊?」
護衛が声を張る。
「こっちだ!」
少し間があって、複数の足音が近づいてきた。
角を曲がり、ギルドの装備を身につけた冒険者たちが現れる。
「いた!」
「生存者確認!」
「人数は!?」
護衛が即座に答えた。
「行方不明者12人、全員生存!」
一瞬、向こうの救助隊が止まった。
「12人?」
「全員だ!」
そこから急に周囲が騒がしくなった。
負傷者へ人が集まり、水が渡され、担架の準備が始まる。生存者たちの表情から、今まで張りつめていたものが少しずつ抜けていくのが分かった。
俺はその光景を、少し離れたところから見ていた。
「ルカ」
フィアが隣に来る。
「ん?」
「終わった?」
俺は首を横に振った。
「まだ」
「地上?」
「うん」
救助隊と合流したからって、ここで終わりにする気にはなれなかった。
12人。
俺たち。
ベル。
クロ。
ちゃんと地上まで帰る。
「全員で帰ろう」
フィアは俺を見る。
それから小さく頷いた。
「うん」
◇
追加の救助隊が負傷者を引き継いだことで、進む速度は少し上がった。
それでも俺たちは12人と離れなかった。
担架が前へ進み、その後ろを歩ける人たちが続く。フィア、護衛、救護担当、そして俺も、その列の中を歩いている。
最後尾から見ると、ずいぶん長い列だった。
最初に迷宮へ入った時、こんな人数で帰ることになるなんて考えてもいなかった。
敵は倒していない。
《岩喰い大百足》は、たぶん今もどこかで石を食べ続けている。
俺のレベルだって、何も変わっていないはずだ。
それでも、目の前には12人いる。
全員、生きている。
それなら今回は、それでいい。
◇
長い通路の先に、地上へ続く階段が見えた。
前の方から誰かが泣く声が聞こえ、別の場所では笑っている人もいる。
俺はベルを握り直した。
『ようやくだな』
「うん」
『今回は派手な勝利じゃなかったな、小僧』
「そうだな」
『つまらんか?』
少し考えた。
灰牙狼を倒した時、俺は初めて、自分でも強い相手に勝てるんだと思った。
数字も上がった。
嬉しかった。
今回は、倒した魔物はいない。
たぶん何も増えない。
でも、前を歩く12人を見る。
「いや」
俺は答えた。
「悪くない」
クロの声が静かに続く。
『帰れる』
「ああ」
階段の向こうから、迷宮の中とは違う空気が流れ込んでくる。
俺はその風を感じながら歩き続けた。
救助した12人だけじゃない。
俺たちも。
ベルも。
クロも。
誰も置いていかない。
ここへ入った全員で、地上へ帰る。




