第38話 あと1人
《岩喰い大百足》の石を削る音が、少しずつ近づいてくる。
もう、あいつを探す必要はなかった。ごり、ごり、と壁の向こうから響くたび、床に細かな振動が伝わってくる。フィアは耳を澄ませながら地図と周囲を見比べ、俺は何度も目的の分岐を確認した。
やることは決まっている。
大百足が分岐へ入ったら、俺たちが狭くした側ではなく、フィアが見つけた空間へ続く方を選ばせる。うまく壁を削ってくれれば、その先には通常のルーメン迷宮へ近い場所があるはずだ。
そして道が開いたら。
十二人を、決めた順番で通す。
「来る」
フィアの声が低くなる。
護衛の男が生存者たちへ手を上げた。
「まだ動くな。合図があるまでここで待て」
誰も返事を急がなかった。
水袋を握る人。肩を支え合う人。背負われる予定の男も、壁にもたれながらこちらを見ている。
ここまで何度も道に裏切られてきた。
期待したくても、簡単には期待できないんだと思う。
俺も同じだった。
◇
最初に見えたのは、大百足の頭だった。
通路の奥から巨大な顎が現れ、その後ろに硬い外殻と何列もの脚が続く。狭い迷宮の中で見ると、何度見ても大きさの感覚がおかしくなる。
フィアが俺の袖を軽く引いた。
「右、見た」
大百足が、俺たちの塞いだ側へ頭を向ける。
石材を完全に積み上げたわけではない。無理やり押せば通れるかもしれない程度に、入口を狭くしてある。
大百足は近づき、大きな顎を石へ当てた。
一度。
もう一度。
嫌な音が響く。
「壊すか?」
護衛が小声で聞く。
「まだ」
フィアが答えた。
俺も息を止めて見ていた。
もしそのまま石材を砕き始めたら、作戦は失敗だ。
その時は離れる。
無理に止めない。
そう決めてある。
大百足の顎が、積んだ石を擦った。
けれど次の瞬間。
頭が離れた。
「……行った」
大百足は身体をゆっくり曲げ、反対側の壁へ向かう。
そっちは、フィアが確認した柔らかい石が続いている。
大きな顎が壁へ触れた。
ごり、と。
石が砕けた。
「選んだ」
「まだ静かに」
思わず声が出そうになった俺を、フィアが止める。
その通りだ。
目的の場所まで行かなければ意味がない。
◇
大百足は壁を削りながら進んでいった。
俺たちは一定の距離を空けて、その後ろを追う。
完全に一本道ではない。
途中には小さな分岐がある。
そこでも大百足が違う方向へ向かう可能性はあった。
「次、左」
フィアが囁く。
地図を見る。
左が目的の壁。
右へ行けば遠ざかる。
今度は石材を積む時間なんてない。
「右の方が硬いんだよな?」
「少し」
「なら信じるしかないか」
「うん」
大百足が分岐まで来る。
右へ頭を向けた。
壁へ顎を当てる。
削らない。
次に左へ向く。
何度か表面を確かめたあと、石を噛み砕き始めた。
俺は小さく息を吐いた。
「二回目」
「偶然じゃなさそう」
フィアの目は大百足から離れない。
そこから先は、目的の場所までほとんど曲がる必要がない。
ただし。
近づくほど、足元の振動が強くなっていった。
◇
『小僧』
ベルの声が響く。
『上だ』
俺も気づいた。
天井から砂が落ちている。
大百足が壁を削るたび、迷宮全体がわずかに震えていた。
昨日までの観察で、あいつを止めればもっと危険になる可能性が高いことは分かっている。
だから今は止めない。
好きなように進ませる。
問題は。
その結果、どれだけ迷宮が持つかだ。
「フィア」
「分かってる」
返事と同時に、フィアが来た道を見る。
「変化、早くなってる」
壁の継ぎ目がずれていた。
来た時には一本だった亀裂が、今は指一本ほど開いている。
「時間制限ありってことか」
「たぶん」
護衛が後ろを見る。
「戻って先に動かす準備をさせるか?」
「まだ道が開いてない」
俺は大百足の進行方向を見る。
あと少し。
あの壁の先だ。
フィアが見つけた空間が、本当にあるなら。
大百足の顎が石へ食い込む。
ごり。
ごり。
壁の厚みが削られていく。
やがて。
音が変わった。
硬い石を噛む鈍い音ではない。
その向こうから、空洞へ抜けるような響きが返ってくる。
「空間ある」
フィアが言った。
次の一噛みで。
壁に穴が開いた。
◇
乾いた風が吹き込んできた。
小さな穴だった。
でも大百足はそのまま止まらない。
顎を広げ、穴の周囲をさらに削っていく。
人一人。
二人。
やがて、護衛が人を背負っても通れそうな幅まで広がった。
「フィア!」
「見る」
フィアは大百足が通り過ぎるのを待ち、すぐに開いた穴へ近づいた。
奥を覗く。
風を確かめる。
床の石粉を見る。
俺は口を挟まず待った。
「繋がってる」
フィアが振り返る。
「私が上から見た場所の下。こっちを進めば、通常区域に近づく」
「十二人通れる?」
「この幅なら」
やった。
そう思った。
でも喜ぶ前に、フィアが続ける。
「急いだ方がいい」
壁の奥から。
別の石が軋む音が聞こえていた。
◇
生存者たちのところへ戻る頃には、振動がもっと強くなっていた。
「道が開いた!」
俺が声をかけると、十二人の表情が一斉に変わった。
「本当に?」
「全員通れる幅はある。でも長く持つ保証はない」
護衛がすぐに動く。
「順番通りだ! 一番目、前へ!」
昨日決めた通り、自力で動ける男が最初に出る。
フィアが先導し、開いた道の向こうへ入った。
俺は少し離れて待つ。
やがて合図が返ってくる。
「大丈夫!」
フィアの声。
二人目。
三人目。
続けて送る。
最初の三人は自力で歩ける。
向こう側へ着けば、次に来る負傷者を受け取れる。
「次!」
四人目。
肩を借りれば歩ける男だ。
護衛が横につき、ゆっくり進む。
急ぎたい。
でも急がせすぎれば転ぶ。
それが一番まずい。
「足元、段差!」
フィアの声が奥から飛んでくる。
「右寄り!」
「聞こえたか?」
「ああ」
負傷した男が息を切らしながら頷く。
護衛が支え、二人で穴の向こうへ消えていった。
少しして。
「通った!」
四人目。
まだ八人。
◇
五人目には、長く歩けない男を送った。
護衛が背負う。
その間、俺が開いた道の入口に立つ。
周囲の揺れは止まっていない。
『右』
クロの声。
壁を見る。
細い亀裂が走っていた。
「これ、まずい?」
『広がってる』
俺にも分かる。
じわじわ。
確実に。
迷宮が動いている。
「ベル」
『任せろ』
まだ構えない。
崩れてからでは遅いけれど、今からベルを固定してしまえば、俺が動けなくなる。
必要になる瞬間を選ぶ。
それが今回のベルの役目だ。
「五人目、通過!」
フィアの声が返る。
「次!」
◇
六人目。
七人目。
八人目。
予定していた順番で送り続ける。
途中で軽い崩落が起きた。
天井から拳ほどの石が落ち、最後尾にいた生存者が身を縮める。
「下がって!」
俺はベルを前へ構えた。
直後。
大きな石が落ちてくる。
鈍い衝撃が盾を叩いた。
「っ!」
腕から肩まで、一気に痺れる。
『軽い軽い!』
「俺には重い!」
ベルは元気だ。
こっちは笑えない。
それでも石は止めた。
護衛と生存者たちが、その間に崩れた場所から距離を取る。
「怪我は?」
「ない!」
「なら次、動ける!」
フィアの声が通路から飛ぶ。
俺はベルを下ろし、肩を回した。
痛い。
でも動く。
まだいける。
◇
九人目が通った頃には、最初にいた空間がずいぶん広く感じた。
人数が減ったからだ。
ついさっきまで十二人が座り込んでいた場所に、今は三人しか残っていない。
救助側を含めても、人影が明らかに少ない。
「あと三人」
救護担当の女性が確認する。
一人は肩を借りれば歩ける。
一人は自力で動ける。
最後の一人も歩けるけれど、疲労がかなり強い。
「順番、このままでいい?」
俺が聞く。
救護担当が残った三人を見る。
「大丈夫。予定通り」
十人目を動かす。
護衛が肩を貸し、入口まで連れていく。
その時。
床が大きく揺れた。
「止まって!」
フィアの声が鋭くなる。
全員が動きを止めた。
奥から。
ごご、と今までより低い音が響く。
「何?」
「向こうの壁が動いた」
「道は?」
「まだある。でも少し狭くなった」
嫌な言葉だ。
十人目を戻すか。
それとも通すか。
「幅は?」
「まだ二人通れる」
「閉じる速さは?」
少し間があった。
「遅い。でも動いてる」
俺は護衛を見る。
護衛も俺を見る。
「行ける」
肩を借りている男が先に言った。
「俺なら歩ける。行かせてくれ」
救護担当が状態を確認する。
「無理はしないで。痛みが強くなったらすぐ言って」
「ああ」
「行こう」
護衛が男を支えたまま、穴へ入っていく。
しばらくして。
「十人目!」
フィアの声が返ってきた。
あと二人。
◇
十一人目は、自力で歩ける男だった。
「俺は最後でもいいぞ」
そう言ったけれど、俺は首を横に振った。
「決めた順番で行ってください」
「でも」
「最後に人を支えられる人数はこっちに足りてます」
俺。
救護担当。
護衛は戻ってくる。
フィアも向こうとこちらを行き来できる。
今ここで順番を崩す理由はない。
「分かった」
男は一度だけ残った仲間を見る。
「先、行ってる」
「おう」
短いやり取りをして。
十一人目が走り出した。
開いた穴へ入る。
姿が消える。
そして。
「十一!」
フィアの声が返った。
俺は息を吐く。
残る生存者は。
あと一人。
◇
最後の一人は、壁際に座っていた。
最初に見つけた時から、かなり消耗していた男だ。自力で立つことはできるけれど、長く歩くのは難しい。
「立てそう?」
救護担当がしゃがんで聞く。
「ああ」
男はそう答えたものの、壁へ手をつかなければ立ち上がれなかった。
「肩貸す」
俺が近づこうとすると、救護担当に止められる。
「ルカはベルを持ってて」
「でも」
「崩れた時に必要でしょ」
その通りだった。
護衛が戻ってくるまで待つ。
それが一番安全だ。
分かっている。
でも。
壁の音がさっきより大きい。
「フィア!」
「もう少し!」
向こうから返事が来る。
十一人目を安全な場所まで送っているんだろう。
急かしたくない。
でも迷宮は待ってくれない。
天井から、また砂が落ちた。
◇
『来るぞ』
ベルの声。
「どこ?」
『上じゃねえ。横だ!』
次の瞬間。
右側の壁が大きく軋んだ。
俺は反射的にベルを構える。
壁そのものが崩れたわけじゃない。
でも継ぎ目がずれ、通路がゆっくりと狭くなっていく。
「入口は?」
救護担当が叫ぶ。
「まだある!」
俺は開いた道を見る。
こっちも変わっている。
さっきまで十分にあった幅が、明らかに狭くなっていた。
人一人なら通れる。
でも。
誰かを背負ったままでは。
「まずい」
俺は最後の男を見る。
自力で長く歩けない。
護衛が背負う予定だった。
その護衛はまだ向こう側。
「ルカ!」
ようやくフィアが戻ってきた。
「十一人目、着いた!」
「道が狭くなってる!」
フィアが入口を見る。
表情が変わった。
「背負って通るのは?」
「無理だと思う」
救護担当が答える。
「肩を貸せば?」
「途中までは。でもこの人の体力が」
男が壁から手を離そうとする。
足が震える。
すぐに救護担当が身体を支えた。
「無理しないで」
「俺だけなら」
「駄目」
フィアが即座に言った。
「置いていかない」
男は何も言えなくなる。
俺も入口を見る。
あと一人。
十一人は向こうへ行った。
ここまで来た。
なのに最後の一人だけ、条件が変わった。
◇
「大百足は?」
俺が聞く。
フィアが耳を澄ませる。
遠くから石を削る音は続いている。
「動いてる。でも離れてる」
「もう一回こっちを削らせるのは?」
「時間かかる」
「この壁は?」
「先に閉じるかも」
使えない。
なら今ある幅で通す方法を考えるしかない。
「護衛は戻れる?」
「本人だけなら」
フィアが答える。
「呼ぶ?」
「呼んで」
フィアが穴の向こうへ声を飛ばす。
返事が来た。
でも。
また床が揺れた。
入口の端から石粉が落ちる。
時間がない。
「ベル」
『おう』
俺は壁を見る。
「この壁、止められる?」
『全部は無理だ』
「どれくらい?」
『やってみねえと分からん』
いつものベルなら、大丈夫だと言い切りそうなところだった。
それを言わない。
つまり。
本当に余裕がない。
「少しだけでいい」
『小僧』
「最後の一人が通るまで」
ベルは一瞬だけ黙った。
『なら、場所を選べ』
俺は入口を見る。
全体を支えるんじゃない。
人が通る幅だけ。
そこだけを残す。
「フィア」
「なに?」
「一人通れる幅、どこまで必要?」
フィアはすぐに入口へ近づき、壁の動きを見る。
「ここから、ここ」
指で示す。
「肩を貸して通すなら、もう少し」
「分かった」
俺はベルを構える位置を変えた。
壁そのものを止めるんじゃない。
最後の一人が抜けるための隙間だけを守る。
それなら。
ベルでも持たせられるかもしれない。
◇
護衛の男が穴の向こうから戻ってきた。
「何が起きた?」
「道が閉じ始めてる」
「最後は?」
「まだここ」
男を見る。
護衛は状況を一度確認すると、すぐにしゃがんだ。
「背負うぞ」
「無理」
フィアが止める。
「今の幅じゃ途中で詰まる」
「じゃあどうする?」
俺は入口を見る。
男。
護衛。
フィア。
救護担当。
それぞれの位置を考える。
「歩いてもらう」
救護担当が最後の男を見る。
「短い距離なら?」
「……いける」
「本当に?」
「いける」
声は弱い。
でも目ははっきりしていた。
「最初は護衛が支える。狭いところに入ったら一人で進んでもらう。向こう側でフィアが引っ張る」
「俺は?」
護衛が聞く。
「そのあと自分で通って」
「お前たちは?」
そこで。
誰もすぐに答えなかった。
生存者を十二人通す。
まずはそれだ。
救助側のことは。
そのあと。
「先にこの人を」
俺が言う。
護衛は少しだけ俺を見た。
それから頷いた。
「分かった」
◇
最後の男が立ち上がる。
護衛が肩を支える。
フィアは先に狭い通路へ入り、向こう側へ回る。
救護担当は男の呼吸と足の状態を見ながら、歩幅を指示する。
俺はベルを構えた。
「行きます」
男が一歩進む。
壁が軋む。
もう一歩。
入口へ近づく。
天井から砂が落ちる。
『来るぞ!』
ベルの声と同時に。
壁が動いた。
「ベル!」
『俺様を誰だと思ってやがる!』
俺は大盾を壁際へ押し込んだ。
衝撃が腕を突き抜ける。
止まった。
完全じゃない。
石はまだ軋んでいる。
でも、人が通るための幅は残った。
「今!」
護衛が男を前へ出す。
「行け!」
男が狭い隙間へ入っていく。
一歩。
また一歩。
途中で身体が傾いた。
「前!」
向こうからフィアの手が伸びる。
「こっち!」
男がその手を掴んだ。
俺はベルを押さえたまま見る。
あと少し。
肩が抜ける。
腰。
足。
そして。
男の姿が、壁の向こうへ消えた。
「通った!」
フィアの声が響く。
十二人目。
生存者は。
全員、向こう側へ渡った。
その瞬間だった。
ベルを押していた壁が。
さらに強く動いた。
『小僧! もう持たねえぞ!』
俺は周囲を見る。
こっち側に残っているのは。
俺。
護衛。
救護担当。
そしてベルとクロ。
十二人は通した。
でも。
まだ終わっていない。
帰るのは。
俺たちもだ。




