第37話 フィアの道
フィアの足が、壁の上に開いた細い隙間へ消えていった。
昨日決めた通り、ここから先はフィア一人で確認する。あの隙間は俺では肩が通らず、護衛の男ならなおさら無理だ。まして、負傷者を連れて使える道ではない。
だから俺たちは、追わない。
決めていた時間まで、ここで待つ。
「こういうの、落ち着かないな」
隣に立つ護衛が、隙間を見上げたまま言った。
「俺もです」
「お前でもそうなのか」
「むしろ俺だからじゃないですかね」
自分で見られない場所で何かが進んでいると、どうしても気になる。今どこを歩いているのか、危険はないのか、本当に戻れる道を残しているのか。考え始めればいくらでも出てくる。
それでも、今回は任せると決めた。
迷宮の痕跡を読むことも、狭い道を進むことも、引き返す時を判断することも、俺よりフィアの方がずっと上手い。
『珍しく大人しく待ってんじゃねえか』
ベルの声が頭に響く。
『今までなら、無理やりでも追いかける方法を探してた』
「そこまで無茶じゃないだろ」
『そうか?』
『怪しい』
クロまで同意する。
「二人とも俺を何だと思ってるんだよ」
思わず小声が漏れた。
「何か言ったか?」
護衛がこっちを見る。
「いや、独り言です」
「お前、結構多いよな」
「最近よく言われます」
これについては、そろそろ本気で気をつけた方がいいかもしれない。
◇
待っている間、俺は昨日作った移動順の紙を確認していた。
十二人を一度に動かすのではなく、自力で動ける人を先に通して向こう側の安全を確保する。その後、補助が必要な人を送り、最後までこちら側にも動ける人員を残す。
順番そのものは決めた。
問題は、それを実行できる道がまだないことだ。
フィアが今調べている隙間は、その答えにはならない。仮に外まで続いていたとしても、通れるのはフィアくらいだ。
それでも確認する価値はある。
高い位置を通っているあの道からなら、これまで見えなかった場所を確認できるかもしれない。《岩喰い大百足》が向かっている方向と、昨日見つけた広い削り跡。その位置関係が分かれば、全員が通れる道を作る手がかりになる。
「時間、どれくらいだ?」
護衛に聞かれて、俺は簡単な時間計を確認した。
「まだ大丈夫です」
「なら待つか」
「はい」
言葉にすると簡単だった。
待つ。
ただそれだけなのに、自分で動くより難しい。
俺は隙間から目を離し、壁際へ座った。
『信用してんのか』
ベルが聞く。
「してるよ」
『心配はしてる』
「それとこれとは別だろ」
フィアなら大丈夫だから何も考えない、じゃない。
心配でも任せる。
それが今の俺にできることだった。
◇
決めていた時間より少し早く、上から小さな石が落ちてきた。
俺と護衛が同時に顔を上げる。
まず尻尾が見え、そのあとに足が現れた。フィアは後ろ向きのまま身体を滑らせ、最後のところだけ壁を蹴って床へ降りる。
「おかえり」
考える前に言っていた。
フィアは着地した姿勢のまま一度こっちを見て、それから軽く息を整えた。
「ただいま」
「怪我は?」
「ない」
「道は?」
フィアはすぐには答えず、腰につけた地図を取り出した。
「かなり先まで行けた」
床へ地図を広げ、これまで空白だった部分へ新しい線を足していく。最初の細い通路を抜けた先で二つに分かれ、片方は下へ、もう片方は上へ続いていたらしい。
「上を選んだ。風があったから」
「外へ抜ける風?」
「たぶん。奥へ行くほど強くなった」
フィアの指が、地図のさらに外側へ伸びる。
「石も途中から変わった。最後に見えた場所は、ルーメン迷宮の普通の通路にかなり近い」
俺は思わず地図から顔を上げた。
「見えたの?」
「照明石だけ。でも色と間隔は同じだった」
それなら、かなり外に近い。
もしかすると。
「そのまま進めば、帰れた?」
フィアは少しだけ考えてから頷いた。
「たぶん」
護衛が息を吐いた。
前から、フィアだけなら出られる可能性はあった。でもそれはあくまで予想だった。
今回は違う。
本人が実際にそこまで行って、通常区域らしきものを見てきた。
「それで戻ったのか」
護衛が聞く。
「うん」
「迷わなかった?」
フィアは地図を見たまま、ほんの少しだけ間を置いた。
「少しは」
その答えが、妙にフィアらしかった。
「外まで行けば、救援を呼べたかもしれない。でも一度抜けたあと、この道が残る保証がない。戻れなかったら、ここにいる人たちの道を読む人が一人減る」
それだけ言って、フィアは新しく書いた線の先へ小さな印をつけた。
前ならどうしたとか、一人の方が楽だとか、そういう話はしなかった。
もう必要ないんだと思う。
第31話で、フィア自身が決めていた。
あれは自分の出口であって、救助の道じゃない。
今回は、その言葉通りに行動して帰ってきた。それだけで十分だった。
「じゃあ、この道は使わない?」
俺が聞く。
「十二人を通す道としては使えない」
「でも調べた意味はあった?」
「ある」
フィアの指が、今度は自分が通った細い線の下へ移った。
「帰りに気づいた。ここ、下に空間がある」
◇
フィアが見つけたのは、細い道そのものではなかった。
その下だ。
帰る途中、壁の隙間から風が抜けている場所があったらしい。フィアが位置を確認すると、ちょうど俺たちが昨日まで調べていた広い削り跡の近くに重なる。
「空間の大きさは?」
「見えない。でも風の抜け方からすると、細い隙間だけじゃないと思う」
「壁の石は?」
「脆い」
その言葉で、俺も気づいた。
「大百足が選ぶ石に近い?」
「うん」
地図を三枚並べる。
フィアが通った高い道。
十二人がいる現在地から続く広い通路。
そして、《岩喰い大百足》が最近移動している範囲。
それぞれ別々に見れば、繋がっているようには思えない。
でも重ねると、かなり近い。
「ここを削らせたら」
俺は大百足の進路から、フィアが見つけた空間まで指を滑らせた。
「広い方と繋がる可能性がある」
「あると思う」
「穴の幅も、大百足が通れるなら十分」
フィアの細い道は、一人しか通れない。
けれどその道を調べたことで、全員が通れるかもしれない別の場所が見つかった。
俺は地図を見ながら、少しだけ笑った。
「結果的に、戻ってきたから見つかったんだな」
「帰り道で気づいたから」
「じゃあ戻って正解だった」
「まだ繋がってない」
「相変わらず厳しいな」
「繋がったら言って」
でもフィアの声は、少しだけ柔らかかった。
◇
俺たちは生存者たちが待つ場所へ戻り、すぐに情報を共有した。
「出口が見つかったのか?」
誰かが聞く。
「まだです」
フィアが先に答えた。
こういうところは絶対に曖昧にしない。
「私だけなら通常区域まで出られる可能性が高い道は見つけた。でも狭すぎて、救助には使えない」
期待しかけた顔が少し曇る。
そこで俺が地図を広げた。
「ただ、その途中で別の空間が見つかった」
フィアの道の下。
広い削り跡。
大百足の移動範囲。
三つの位置を順番に示す。
「この壁を《岩喰い大百足》に削らせられれば、十二人が通れる幅の道ができるかもしれない」
「出口に繋がる?」
救護担当の女性が聞く。
「可能性は高くなった。でもまだ確認はできてない」
「大百足をそこへ向かわせられるの?」
「そこが次の問題です」
俺たちはこれまで、大百足が比較的脆い石を選んで削ることを確認している。完全に操れるわけじゃないけれど、進みやすい方向を作れば選択を偏らせられる可能性はある。
ただし、失敗すれば別の壁を削る。
その結果、今ある道まで動くかもしれない。
やり直しが何度もできる作戦ではない。
「一度で成功させたいな」
護衛が腕を組む。
「俺もそう思います」
「その割には難しそうだぞ」
「それも同じ意見です」
困ったことに、反論するところがない。
◇
大百足の進路をもう一度確認するため、俺とフィアは地図の上で過去の削り跡を追った。
「こっちへ来るなら、この分岐を通る」
フィアが指したのは、目的の壁から少し離れた場所だった。
「問題はその先か」
「うん。二方向とも石が柔らかい」
片方は目的の壁へ向かう。
もう片方は、生存者たちがいる場所から離れていく。
大百足がどちらを選ぶかは分からない。
「柔らかい方を選ぶなら、差を作ればいいんだよな」
「どうやって?」
「食べてほしくない方を、食べにくくする」
フィアが俺を見る。
「石を硬くするの?」
「それは無理」
「じゃあ?」
俺は周囲を見回した。
この辺りには、以前の崩落で落ちた大きな石材がいくつも残っている。全部を動かすことはできないが、動ける人を集めれば、小さな分岐を狭くするくらいならできるかもしれない。
「壁そのものを変えなくても、入口を塞ぐことはできる」
俺が言うと、フィアも石材を見る。
「完全に塞がなくていい?」
「むしろ完全に塞ぐのは怖い。大百足が無理やり壊したら何が動くか分からない」
「少し狭くして、もう片方を選びやすくする」
「そう」
大百足を押すわけじゃない。
挑発して追わせるわけでもない。
あいつ自身が選ぶ条件を使う。
フィアは少し考えたあと、地図の分岐に新しい印をつけた。
「試せる」
「よし」
ようやく、救助作戦の形が見えてきた。
◇
そこから先は、全員で準備した。
動ける生存者には運べる大きさの石を集めてもらい、護衛が置く位置を調整する。崩れた時に逃げられるよう、通路を完全には塞がない。
救護担当は、昨日決めた順番に合わせて負傷者の状態を確認していく。
「肩を借りれば歩ける人は、今のうちに少し水を飲んで」
「背負う人は?」
「護衛にお願いする。ただし、道が開くまでは体力を残して」
それぞれが自分の役割を動かし始める。
俺はベルを構えられる位置と退路を確認した。
『今回は壁になるのか?』
ベルが聞く。
「できればならない」
『なんだと!』
「崩れた時だけ頼む」
『最初からそう言え! 俺様に任せろ!』
勢いだけなら迷宮ごと支えそうな声だ。
もちろん実際には無理だ。
ベルが守れるのは、俺たちの周囲に限られる。大きな崩落が起きれば、受け止める場所と時間を選ばなければならない。
「クロは、大百足がこっちへ来た時だけ」
『分かった』
「倒さないからな」
『分かってる』
短い返事だった。
昨日までなら、効率だけ見れば倒す方が簡単だったかもしれない。
でも今は、その選択肢はもうない。
◇
準備が終わった頃、遠くから石を削る音が聞こえた。
ごり、ごり、と重い音が、ゆっくり近づいてくる。
全員の話し声が自然と止まった。
フィアが壁へ近づき、耳を澄ませる。
「来てる」
「予定の方向?」
「今のところは」
俺は地図と通路を見比べる。
大百足がこのまま進めば、最初の分岐へ出る。
そこからが本番だ。
「移動できる人は準備だけしておいてください。まだ動かないで」
生存者たちが頷く。
昨日決めた順番がある。
一人目。
二人目。
そのあとに、向こう側で受け取れる人数を増やしてから負傷者。
道が開いた瞬間から、迷っている暇はない。
「ルカ」
フィアが呼ぶ。
「ん?」
「さっき見つけた道、本当に外へ繋がってたと思う」
急に言われて、少し驚いた。
フィアは大百足の音がする方を見たまま続ける。
「あと少し進めば、たぶん帰れた」
「そっか」
「うん」
それだけだった。
俺も、どうして戻ったのかは聞かなかった。
聞く必要がない。
フィアは自分で帰れる道を見つけて、それでもここへ戻ってきた。
俺は戻ってくると信じて待った。
それでいい。
「じゃあ今度は」
俺は目的の壁を見る。
「十二人が通れる方を開こう」
フィアが頷く。
「うん」
石を削る音が一段と近くなる。
あの細い道は、フィア一人を帰すことしかできなかった。
でも、そこを調べたからこそ見つかった場所がある。
全員で帰れるかもしれない道がある。
俺たちは武器を握って、大百足が来る方向を見た。
倒すためじゃない。
道を開かせるために。




