第35話 レベルはいらない
《岩喰い大百足》を倒さない。
昨日そう決めたあとも、俺の中から迷いが完全に消えたわけじゃなかった。
あいつは強い。少なくとも、今まで俺が戦ってきた普通の魔物とは比べものにならない。ベルで勢いを止め、クロで外殻の継ぎ目を狙えば、簡単ではなくても勝てる可能性はある。
そして、もし倒せたなら。
俺のレベルは、また上がるかもしれない。
「……まだ考えてる?」
地図を覗き込んでいたフィアが、顔を上げずに言った。
「何を?」
「大百足を倒すこと」
「顔見てないのに分かるの?」
「さっきから同じところ見てる」
指摘されて、俺は手元へ目を落とした。
地図の端に書かれた《岩喰い大百足》の文字。その横に、昨日確認した進行方向と、石の硬さを書き込んでいたはずなのに、いつの間にか手が止まっている。
「……ちょっとだけな」
「倒したい?」
少し迷ってから、頷いた。
「強くなりたいとは思ってる」
そこは嘘をついても仕方がない。
俺が冒険者を続けている理由の根っこには、ずっとあの約束がある。
ロゼと一緒に、強い冒険者になる。
今でもその気持ちは変わっていない。
むしろ、レベルが一度上がったからこそ前より強くなった。
俺にも進めるかもしれない。
そんな実感を初めて持てた。
「灰牙狼を倒した時、レベルが1から3になったんだ」
フィアがこちらを見る。
「それは聞いた」
「じゃあ、あいつを倒したらって考えるだろ」
「私は考えない」
「即答だな」
「私のレベルじゃないし」
「そういう意味かよ」
少しだけ笑う。
でも、それで頭の中の重さが少し抜けた。
「俺さ」
地図に目を戻した。
「強い相手を見ると、前より考えるようになったんだ。倒したらどれくらい強くなれるんだろうって」
「危ない考え方」
「分かってる」
灰牙狼の時だって、最初から勝てると思っていたわけじゃない。追い詰められて、逃げる方法もなくなって、それでも三人で帰るために戦った。
なのに、結果としてレベルが上がった。
その成功だけを覚えていたら、いつか間違える。
「だから今回は」
俺は地図の中央へ指を置いた。
「先に帰す」
「誰を?」
「全員」
フィアは一瞬だけ俺を見たあと、また地図へ目を戻した。
「なら、その話は終わり」
「軽くない?」
「決めたなら軽くていい」
そういうものなのかもしれない。
◇
俺たちは昨日までの記録を、もう一度整理した。
大百足が通った場所。
石を食べた場所。
避けた場所。
止まった時に壁が動いた場所。
そして、生存者たちが閉じ込められる前後で道が変化した場所。
紙を一枚ずつ見ていると分かりにくい。
でも、三つの仮地図を並べ、同じ位置に近い部分へ印を重ねていくと、少しずつ傾向が見えてきた。
「ここと、ここ」
俺が二つの印を指す。
「大百足が削ったあとに、人が通れる道ができてる」
「うん」
フィアが別の場所を指した。
「でもこっちは閉じた」
「こっちは?」
「元からあった道。大百足は直接通ってない」
単純に、大百足が穴を掘るから新しい道が増えるわけじゃない。
あいつが石を削ることで、《重層迷宮》そのものの重なり方まで変化している可能性がある。
「やっぱり直接出口を掘らせるって考え方じゃ駄目か」
「危ない」
「だよな」
もし大百足を出口の方向へ向かわせても、その途中で別の道が閉じるかもしれない。
最悪の場合。
開けたい場所とは別のところが崩れる。
「じゃあ、使うなら」
俺は地図を少し離して見る。
「大百足そのものじゃなくて、動いたあとにできる道を選ぶ?」
「それもある」
「他には?」
「先に逃げ道を複数確認する」
フィアが指を動かす。
「一つ開いたから全員そこへ、は駄目。途中で閉じたら終わる」
「最低二つ?」
「できれば」
現実はそんなに都合よくいかない。
それでも、考え方としては正しい。
出口一つに全部を賭けない。
大百足も一つの手段として使う。
それだけだ。
◇
「俺たち、最初とやってること変わったな」
地図を見ながら言うと、フィアが首を傾げた。
「何が?」
「最初は12人を探してた」
「うん」
「見つけたら、次は出口を探した」
「うん」
「今は魔物をどう動かすか考えてる」
「普通じゃない?」
「普通かなあ」
「迷宮では予定通りにならない方が普通」
「それは嫌な普通だな」
フィアは小さく肩をすくめた。
でも、その通りだった。
冒険者になったばかりの頃は、強くなれば選べることが増えると思っていた。
強い魔物を倒せる。
深い階層へ行ける。
危険な依頼も受けられる。
それは間違っていない。
でも今必要なのは、大百足を倒せる強さじゃない。
倒さずに帰るための方法だった。
『随分と面倒なことを考えるようになったな、小僧』
ベルの声が頭の中へ響いた。
「悪かったな」
『褒めてんだ』
「絶対嘘だろ」
『俺様が嘘などつくか!』
『つく』
クロが即座に割って入る。
『クロ!』
思わず笑いそうになって、咳払いで誤魔化した。
フィアが怪しそうな顔をする。
「何?」
「何でもない」
「また?」
「今回は本当に何でもない」
たぶん、もう半分くらい疑われている気がする。
◇
昼を過ぎる頃、生存者たちの状態をもう一度確認した。
12人のうち、自力で問題なく歩けるのは半分ほど。疲労や軽い怪我がある人を含めれば歩ける人数自体はもっと多いけれど、長い距離を同じ速度で進むのは難しい。
特に4人は、移動に補助が必要だった。
「この人は肩を貸せば歩ける」
救護担当の女性が、足を痛めている男を示す。
「こっちの二人も同じ。ただし長距離は休憩が必要」
「最後の1人は?」
「できれば背負った方がいい」
かなり消耗していた男だ。
意識ははっきりしているけれど、立たせると長くは保たない。
「俺が背負える」
「ベルは?」
フィアが聞く。
「あ」
忘れてた。
ベルを背負ったまま人まで背負えるかと言われると、かなり厳しい。
『俺様を忘れるとはいい度胸だな』
「忘れてない。ちょっと計算から外してただけ」
『それを忘れたと言う!』
「なら、ベルは別の人に」
言いかけて止まる。
普通の人には持ち上げられない。
「……無理だな」
「何が?」
「いや。俺は別の役にした方がいいかも」
フィアは不思議そうにしたものの、それ以上は聞かなかった。
救護担当が続ける。
「背負うなら護衛のどちらかが現実的。ただ、その間は戦力が一人減る」
「大百足に会ったら?」
「逃げるのが最優先」
フィアが答えた。
「それでも接触したら、ルカと私で時間を作る」
「倒さないまま?」
生存者の1人が聞く。
「そうする」
俺が答えた。
「追い払うか、進む方向を変えさせる。それで駄目なら傷つけてもいい。でも、止めない」
「止めない?」
「殺さないってこと」
男はしばらく黙った。
「倒せるのに?」
その聞き方に、少しだけ胸がざわつく。
答える前に。
一度考えた。
「倒せるかどうかは、まだ分からない」
俺は正直に答えた。
「でも勝てる可能性はあると思う」
「なら倒した方が安全じゃないのか?」
「普通ならな」
俺も同じことを考えた。
「でもあいつは普通じゃない。数十秒止まっただけで、離れた場所の壁が動いた。倒してずっと止まったら、ここ全体がどうなるか分からない」
男は壁を見る。
「じゃあ、生かしたまま利用する?」
「利用できれば」
「怖い作戦だな」
「俺もそう思う」
そこは否定できなかった。
◇
その後、俺とフィアはもう一度だけ近くの通路を確認した。
目的は大百足じゃない。
今ある道の幅と、負傷者を通せるかどうか。
フィアが先に通り、俺があとを追う。
途中には、身体を横にすれば通れる程度の狭い場所があった。
「ここ、背負ったまま無理じゃない?」
「うん」
フィアが実際に壁との間隔を見る。
「肩を貸すのも難しい」
「じゃあ、この道は使えない」
「今のままなら」
「大百足で広げる?」
「それを試す価値はある」
昨日までなら、大百足が近づくこと自体を避けたかった。
今は、あいつが必要になるかもしれない。
変な話だ。
「俺たち、大百足を守ることになるかもな」
「場合によっては」
「倒したいって思ってたのに」
「昨日の話」
「昨日なんだよなあ」
ものすごく昔のことみたいに感じる。
この迷宮に入ってから、考えることが変わりすぎている。
通路の奥で、遠くから石を削る音が聞こえた。
ごり、と重い音が一度だけ響く。
俺は反射的にクロの柄へ手を伸ばしかけた。
でも途中で止める。
「行かないの?」
フィアが聞く。
「今は行く理由ないだろ」
「うん」
それだけ言って歩き出す。
少しだけ嬉しかった。
戦える。
だから戦う。
その考えから、ほんの少し離れられた気がした。
◇
戻る途中で、フィアが古い削り跡の前にしゃがみ込んだ。
「ここ、使えるかも」
「何が?」
「幅」
壁には大百足が通った大きな跡が残っている。
今は途中で別の石壁に塞がれているけれど、空間そのものは広い。少なくとも、背負った人間を通す余裕はある。
「この先が開けば?」
「負傷者も通せる」
「出口に繋がる?」
「それはまだ分からない」
当然の答えだった。
でも、一つ条件が見つかった。
12人を帰すなら。
ただ出口を探すだけじゃなく、全員が通れる幅が必要になる。
「狭い道を見つけても意味ないのか」
「フィアだけなら通れる道はあるけどな」
「救助には使えない」
フィア自身が前に言った言葉だった。
「じゃあ、次は広い道を優先?」
「それだけじゃない」
「まだある?」
「歩く速さ」
フィアが答えた。
「道が短い時間しか開かないなら、全員一緒だと遅すぎる」
言われて、立ち止まる。
12人。
それに救助側。
怪我の程度も違う。
移動速度も違う。
全員で固まって進めば安全だと思っていた。
でも。
この迷宮では、その考えが逆に危険になる可能性がある。
「分ける?」
「まだ決めない」
フィアが俺を見る。
「でも考えないといけない」
次に必要なものが見えた。
道。
だけじゃない。
帰る順番だ。
◇
生存者たちのところへ戻ると、俺は地図の横へ座った。
大百足を倒さない。
その判断はもう変わらない。
でも、そう決めたから終わりじゃなかった。
むしろそこから、考えることが一気に増えた。
どこへ誘導するか。
どの道を使うか。
どれくらいの幅が必要か。
道が閉じるまでに、何人を通せるか。
負傷者を誰が支えるか。
もし途中で大百足が進路を変えたら、誰が止めるのか。
「強くなるって、もっと分かりやすいと思ってた」
自分でも気づかないうちに声に出ていた。
フィアが隣で地図を書きながら聞く。
「例えば?」
「強い魔物を倒すとか。レベルが上がるとか」
「それも強い」
「うん」
否定するつもりはない。
ロゼが強いことだって、その力で何人も助けられることだって知っている。
俺だって、もっと強くなりたい。
これから先も、それは変わらないと思う。
でも今。
必要なのは数字じゃない。
12人がここから出られる道だ。
「今回だけは」
俺は地図へ視線を落とした。
「レベルはいらないな」
フィアの手が一瞬だけ止まる。
「今回だけ?」
「強くなりたくないとは言ってないから」
「欲張り」
「冒険者だし」
「関係ないと思う」
少し笑った。
それでいい。
《岩喰い大百足》を倒してレベルが上がる可能性を捨てる。
それで何も数字が増えなくても。
12人が帰れるなら。
今は、その方がいい。
◇
俺は地図の端に、12本の小さな線を引いた。
「何それ?」
フィアが聞く。
「12人」
「雑」
「分かればいいだろ」
「地図に書かないで」
「別の紙にするよ」
怒られたので、横にあった紙へ書き直した。
一人目。
二人目。
三人目。
12人分。
その横に、歩けるか。
補助が必要か。
背負う必要があるか。
救護担当から聞いた状態を順番に書き込んでいく。
出口を見つけてから考えるつもりだった。
でも、それじゃ遅い。
短い時間しか道が開かないなら、開いた瞬間に動けるよう準備しておく必要がある。
「フィア」
「なに?」
「次、これ決めよう」
紙を見せる。
「誰から帰すか」
フィアはしばらく一覧を見た。
それから、小さく頷いた。
「うん」
遠くで《岩喰い大百足》が石を削る音がした。
俺はもう、その音を倒すべき敵の音として聞いていなかった。
あいつを倒して得られるかもしれないレベルより。
今は、12人を一人ずつ地上へ近づける方が大事だ。




