第34話 倒してはいけない
《岩喰い大百足》を倒せるかもしれない。
昨日までは、その考えが頭に浮かぶだけでも少し怖かった。灰牙狼よりはるかに大きく、硬い外殻に覆われた身体は、正面から戦えば俺たちなんて簡単に押し潰せそうに見える。
それでも観察を続けたことで、勝ち筋らしきものは見え始めていた。
ベルで頭部の勢いを止める。
クロで外殻の継ぎ目を狙う。
一度で倒せなくても、同じ場所へ何度か攻撃を重ねられれば可能性はある。
そして、あいつが俺より格上なら。
倒した時、またレベルが上がるかもしれない。
考えないようにしても、その可能性は頭の隅に残っていた。
「今日は戦わないからね」
フィアが地図を畳みながら言った。
「分かってる」
「昨日も似た顔してた」
「どんな顔?」
「倒せるか考えてる顔」
図星だった。
「……そんなに分かりやすい?」
「結構」
「ちょっと嫌だな」
「私は助かる」
フィアは淡々と答えて立ち上がった。
今日の目的は、昨日見つけたもう1つの傾向を確かめることだった。
大百足が動いている間と、止まっている間。
その違いで《重層迷宮》に何が起きているのか。
それが分からないまま戦うことはできない。
◇
今回は生存者たちにも協力してもらうことになった。
といっても、大百足の近くへ連れていくわけじゃない。
救護担当と負傷者を中心に元の空間へ残り、石の軋みや壁の変化が起きたら記録してもらう。俺とフィア、護衛の3人は少し離れた場所で大百足を観察する。
同じ時間に別々の場所を見る。
それだけでも、今までより分かることは増えるはずだ。
「音が3回続いたら印をつける」
フィアが生存者の男へ確認する。
「壁が動いたら?」
「場所も」
「崩れたら?」
「近づかない。確認できる範囲だけでいい」
「了解」
俺たちが出発しようとすると、救護担当の女性がこちらを見た。
「危なくなったらすぐ戻ってきてね」
「分かってる」
「ルカ、本当にね」
「なんで俺だけ名前付きなんだろう」
「信頼の積み重ねじゃない?」
「その言い方だと逆の意味に聞こえるんだけど」
フィアが少しだけ笑った。
まあ、否定はできない。
◇
大百足を探すのは、前より簡単になっていた。
ごり、ごり、と石を削る音を追えばいい。
ただし、まっすぐ近づくわけじゃない。フィアが風と床の状態を見ながら、安全に離れられる道を残して進む。
途中で一度、乾いた黄色い石の通路へ出た。
昨日は開いていなかった場所だ。
「また変わってる」
俺が言うと、フィアが壁際へしゃがみ込んだ。
「新しい」
「分かる?」
「石粉がまだ落ちきってない」
床には細かな粉が薄く積もっていた。壁の端には削られた跡も残っている。
「大百足が通った?」
「可能性は高い」
奥から音がする。
ごり。
思っていたより近い。
俺たちは声を落とし、そのまま慎重に進んだ。
◇
大百足は、昨日より狭い通路にいた。
長い身体を曲げながら、黄色がかった壁を削っている。無数の脚が石を捉え、頭部の大きな顎がゆっくりと壁を噛み砕いていく。
正面から見れば、やっぱり化け物だった。
あれと戦う。
昨日はできるかもしれないと思った。
今も、その考え自体は変わっていない。
『昨日より近いな』
ベルが言う。
『クロ。見えるか?』
『見える』
『薄いところは?』
『同じ』
クロが短く答えた。
外殻の節。
脚の付け根。
昨日見つけた場所は今日も変わっていないらしい。
つまり、弱点らしきものは偶然じゃない。
「戦うなよ」
俺が心の中で念を押す。
『お前がな』
ベルの返事が早い。
反論できなかった。
◇
しばらく観察していると、大百足が進行方向を変えた。
右側には黒く硬そうな石。
左には亀裂の多い灰色の石。
昨日と同じように、最初に右へ顎を当てる。
削らない。
次に左へ移り、何度か表面を確かめたあと、そのまま石を噛み始めた。
「やっぱり選んでる」
俺が小声で言う。
「うん」
フィアも地図へ印をつける。
「脆い方?」
「たぶん。少なくとも、食べにくい場所を避けてる」
ここまでは昨日と同じだった。
問題は、その次だ。
「止まるまで待つ?」
「自然に止まるなら」
「止めるのは?」
「しない」
即答だった。
「だよな」
俺も同意する。
わざと刺激して止める必要はない。
今調べたいのは、普段の行動だ。
俺たちが何かしたせいで迷宮が変わったら、原因が分からなくなる。
◇
待っている間、大百足はかなりの距離を削り進んだ。
不思議なのは、その速度だった。
走っているわけじゃない。
むしろ動きはゆっくりしている。
それなのに、石壁そのものを削りながら進むせいで、結果として通路がどんどん延びていく。
「こいつが何日も動いてたら」
俺は後ろに残った穴を見る。
「迷宮、相当変わるよな」
「うん」
「12人が別々の場所から合流できたのも、やっぱりこいつの道か」
「可能性は高いと思う」
助けたわけじゃない。
ただ通っただけ。
でも、その結果として道が生まれた。
生存者たちはその道を使って合流した。
一方で、大百足の移動に合わせて別の道が閉じたせいで、外へ戻れなくなった可能性もある。
救って。
閉じ込めた。
あいつにそのつもりはないのに、結果だけ見れば両方やっている。
「迷惑なのか助かってるのか分からないな」
「どっちも」
フィアが言った。
「だから面倒」
「なるほど」
すごくフィアらしい答えだった。
◇
それから少しして、大百足が止まった。
何の前触れもなかった。
顎を壁へ当てたまま、長い身体が動かなくなる。
「止まった」
「時間見る」
フィアが言った。
俺たちはそのまま待った。
最初の数秒は何も起きない。
それから、足元へ小さな振動が来た。
ぎ。
遠くで石が軋む。
続けて、反対側からも音がした。
「始まった」
俺が呟く。
昨日と同じだ。
ただ、今日はそれを確かめるために来ている。
大百足は動かない。
十数秒。
さらに待つ。
軋む音が増えた。
右。
奥。
今度は天井。
位置が1か所じゃない。
「多い」
フィアも周囲を見回している。
「昨日より長く止まってる」
その直後、天井から細かな砂が落ちた。
俺たちはすぐに壁から距離を取る。
大百足はまだ動かない。
そして、止まっている時間が長くなるほど、周囲の振動も強くなっていった。
◇
「戻る準備」
フィアが言った。
「まだ見る?」
「逃げ道確認しながら」
「分かった」
俺は後ろを見る。
来た道は残っている。
少なくとも今は。
もう一度前へ視線を戻した瞬間、大きな音が響いた。
どん、と。
今までの軋みとは違う。
何かが崩れた音だった。
「どこ?」
「向こう」
護衛が来た方向を見る。
生存者たちがいる場所とは少しずれている。
それでも近い。
「戻る?」
「まだ大百足見る」
フィアは即座にそう判断した。
理由は俺にも分かる。
今戻れば、生存者たちの場所で何が起きたかは確認できる。
でも、大百足が止まっている瞬間を誰も見ていなくなる。
ここでしか取れない情報がある。
「もう少しだけ」
俺たちは待った。
大百足は動かない。
その間にも、迷宮のどこかで石が擦れ続けている。
ぎ。
ご、と低い音が続く。
そして。
目の前でも変化が起きた。
大百足の少し後ろ。
さっきまで開いていた通路の端が、ゆっくり狭くなっていく。
「閉じてる」
俺が言う。
「見えてる」
壁そのものが動いている。
大百足が削った穴とは別の場所。
昨日と同じ現象だった。
ただし今回は。
大百足が止まっている間に起きている。
しかも、1か所じゃない。
◇
それからさらに数秒。
大百足が再び動き始めた。
何本もの脚が一斉に動き、顎が石へ食い込む。
ごり。
石を削る音が戻る。
すると。
周囲の軋みが弱くなった。
すぐに完全に止まったわけじゃない。
でも、大百足が停止していた時ほど激しくない。
「……やっぱり違う」
俺が言う。
フィアも頷いた。
「記録できた」
「戻ろう」
「うん」
今度は迷わなかった。
大百足が動いているうちに、生存者たちのところへ戻る。
◇
帰る途中で、最初の異変が見つかった。
「待って」
フィアが止まった。
昨日まで通れていた道の一部が、半分ほど塞がっている。
完全な壁じゃない。
でも、さっき通った時より明らかに狭い。
「これ、来る時はもっと広かったよな?」
「うん」
護衛も顔をしかめる。
「俺が普通に通れた。今は横向かないと無理だ」
大百足が止まっていた時間。
その間に変わった。
そう考えるのが自然だった。
俺たちは身体を横にして通り抜けた。
さらに進むと、もう1か所。
今度は逆だった。
来た時には無かった細い隙間が、新しく開いている。
「増えてる」
「動いてる」
フィアが周囲を確認する。
「止まってた間に、少なくとも2か所」
俺は地図へ印をつけた。
大百足が止まる。
その間に、離れた場所の壁が動く。
道が閉じる。
別の場所が開く。
そして大百足が動き始めると、変化が弱くなる。
「偶然って言うには多いよな」
「うん」
フィアも今回は否定しなかった。
◇
生存者たちのいる空間へ戻ると、向こうもすぐに報告してきた。
「さっきすごかったぞ」
最初の男が地図を指す。
「3か所で音がした。こっちの壁は少しずれたし、奥は一部崩れた」
「怪我人は?」
「いない」
救護担当の女性が答える。
「崩れたのは離れた場所。念のため全員、壁から少し離してある」
「よかった」
フィアが向こうの記録を受け取る。
俺たちのものと並べる。
時間。
ほぼ同じ。
大百足が止まった直後。
複数の場所で軋み。
その後、壁の変化。
「一致してる」
俺が言った。
「かなり」
フィアも地図を見る。
これだけ揃えば。
もう無関係とは言えない。
「大百足が止まると、迷宮が不安定になる?」
護衛が聞く。
「そう見える」
俺は答えた。
「理由は分からないけど」
大百足が動く。
石を削る。
道が作られる。
その間にも迷宮は変化している。
でも。
止まると、変化が大きくなる。
もしそれが本当なら。
次に考えることは1つしかない。
◇
「じゃあ、倒したら?」
誰かが言った。
生存者の1人だった。
部屋が静かになる。
「ずっと止まることになるよな」
その言葉に、誰もすぐ答えられなかった。
俺も。
昨日までは考えていた。
倒せるかもしれない。
倒せば、この危険な魔物はいなくなる。
レベルだって上がるかもしれない。
でも。
今日見たものを重ねる。
数十秒止まっただけで。
複数の壁が動いた。
通路が狭くなった。
別の場所では崩落まで起きた。
もし。
完全に止めたら。
「……まずい」
自分の声が少し低くなった。
「何が?」
「今の変化が、止まってる時間に比例して大きくなるなら」
地図を見る。
12人がいる場所。
帰り道。
まだ確認できていない出口。
全部。
この不安定な構造の中にある。
「倒した瞬間に終わるとは限らない。でも、ずっと動かなくなったら何が起きるか分からない」
「崩れる?」
「可能性はある」
フィアが答えた。
「少なくとも、今の状態で試せることじゃない」
救護担当が生存者たちを見る。
歩行補助が必要な人が4人。
そのうち1人は、まだ背負わなければ長い距離を移動できない。
もし通路が一気に変わったら。
逃げ切れない。
◇
「でもさ」
男の1人が口を開いた。
「倒さないなら、あいつがこっちに来た時どうする?」
当然の疑問だった。
「逃げる?」
「それだけじゃ無理」
フィアが答える。
「あの大きさなら、狭い道で正面から来られたら追い抜けない」
「じゃあ戦うしかないだろ」
「戦うことと、倒すことは別」
フィアの言葉に、俺は顔を上げた。
「追い返す?」
「それもある。でも昨日見た」
「石を選ぶやつ」
「うん」
フィアが地図の一部を指す。
「こっちに来てほしくないなら、こっちを選びにくくする。逆に進んでほしい方向に、食べやすい石がある場所を使う」
昨日。
俺も同じ可能性を考えた。
大百足を完全に操ることはできない。
でも。
進みやすい方向を選ばせることなら。
「誘導する」
俺が言う。
「できるかもしれない」
フィアは慎重に答えた。
まだ決定じゃない。
でも。
戦うか逃げるか。
それ以外の選択肢が見え始めている。
◇
俺はクロの柄へ手を置いた。
『惜しいか?』
クロが聞く。
「何が?」
『倒せる』
短い言葉だった。
でも意味は分かった。
クロにも。
たぶんベルにも。
俺が何を考えていたか伝わっている。
「ちょっとは」
正直に答えた。
『小僧』
ベルの声が響く。
『強いやつだぞ』
「分かってる」
『倒せば強くなれるかもしれん』
「それも分かってる」
灰牙狼を倒した時。
《1》だった数字が《3》になった。
あれから。
数字は動いていない。
目の前には。
明らかに俺より強い魔物がいる。
そして今は、勝ち筋まで見えている。
少し前の俺なら。
行ったかもしれない。
ここで倒せば。
もっと強くなれる。
ロゼに少し近づける。
そう思って。
でも。
今は。
周りを見る。
壁際に座っている12人。
包帯。
水袋。
疲れた顔。
それでも、ここまで生き延びた人たち。
俺が数字を上げるために大百足を倒して。
そのせいで、この人たちが帰れなくなったら。
何のための強さだ。
「倒さない」
口に出した。
近くにいたフィアがこちらを見る。
「決めた?」
「うん」
「まだ倒せないって決まったわけじゃないよ」
「違う」
俺は首を振る。
「倒せないんじゃなくて、倒しちゃ駄目なんだと思う」
自分で言って。
ようやく整理できた。
勝てないから戦わないんじゃない。
勝てるかもしれない。
それでも。
勝った結果が一番悪くなるなら。
その勝ちは選べない。
◇
フィアはしばらく俺を見ていた。
それから、地図へ視線を戻した。
「じゃあ次は」
「倒さずに使う方法を探す」
「うん」
「大百足が選ぶ石と、道が開く方向をもっと調べる」
「それと、12人を動かす順番」
フィアが負傷者たちを見る。
そこで初めて。
俺も気づいた。
出口を見つけるだけじゃ駄目だ。
12人全員が同じ速さで動けるわけじゃない。
自力で歩ける人。
補助が必要な人。
背負わないと長距離を移動できない人。
道が一時的にしか開かないなら。
全員を一度に動かすことも難しい。
「やること増えたな」
「最初から多い」
「そうだけどさ」
フィアがほんの少し笑った。
「でも、1個減った」
「何が?」
「倒すかどうか」
「ああ」
それは。
もう迷わない。
◇
遠くから、ごり、と音がした。
《岩喰い大百足》がまた壁を削り始めたらしい。
昨日までは。
あの音を聞くたびに、危険な魔物が近づいていると思った。
今は少し違う。
危険なのは変わらない。
正面から来れば、戦わなきゃいけないかもしれない。
ベルで止める必要も。
クロで傷つける必要も。
あるかもしれない。
でも。
殺さない。
あいつが石を食べて。
進んで。
道を作る。
その性質を使って。
12人が帰れる道を作る。
できるかどうかは分からない。
まだ仮説ばかりだ。
それでも。
初めて。
戦わずに勝つ方法を考えている。
「ルカ」
フィアが呼ぶ。
「次の音、さっきより右」
「分かる?」
「うん」
地図を見る。
右側。
そこには乾いた石の通路がある。
さらに先には。
昨日確認した、比較的脆い石の区画。
「行き先、読めるかもしれない」
俺が言った。
「少しだけね」
フィアが地図へ新しい線を引く。
大百足が次にどこへ向かうのか。
もしそれを先に読めるなら。
俺たちは。
ただ道が開くのを待つ必要はない。
自分たちで選べるかもしれない。
全員が帰れる道を。




