第32話 壁が動いた
石を削る音は、夜になっても止まなかった。
ごり、と低い音が響き、少し間を置いてまた同じ音が続く。生存者たちが集まっている空間まで、かすかな振動が床を伝ってきていた。
最初に聞いた時は、もっと遠かった。
でも今は、昨日より明らかに近い。
「寝られそう?」
救護担当の女性が、壁際で横になっている男へ聞く。
「寝ろって言われれば寝るけど」
男は苦笑した。
「これ聞きながらは、ちょっとな」
「分かる」
俺も同じだった。
12人全員が生きている。
それを確認できたのは大きい。
でも、帰り道はない。
それどころか、この音が近づくたびに迷宮の道まで変わっている可能性がある。
俺は壁にもたれず、少し離れた場所に座っていた。ベルは背中から下ろして手の届くところに置き、クロもすぐ抜ける位置に置いてある。
『来るなら来やがれ』
ベルが言う。
「来てほしくないよ」
『なんだと?』
「今は戦いに来てるんじゃない」
『分かっとるわ!』
『分かってない顔』
クロが静かに言う。
『どんな顔だそれは!』
少しだけ笑いそうになった。
でも。
ごり。
また音がする。
今度はさっきより近い。
フィアがすぐに顔を上げた。
「動いてる」
「こっちに?」
「分からない。でも近づいてる」
その言葉で、全員の空気が変わった。
◇
「全員をすぐ動かすのは危険」
フィアが周囲を確認しながら言った。
「まず音の方向だけ見る」
「俺も行く」
「うん。護衛1人」
昨日から何度も組んでいる3人。
救護担当ともう1人の護衛は、生存者たちのところに残る。
「近づきすぎないで」
救護担当の女性が言う。
「分かってる」
「本当に?」
「なんでみんな俺にだけ確認するんだ」
「今までの積み重ね」
フィアが即答した。
「否定できないのがつらい」
少しだけ空気が緩む。
でも、今度の目的ははっきりしている。
音の正体を見る。
戦わない。
追わない。
見つけたら戻る。
◇
音の方向へ進む。
フィアが前。
俺がその後ろ。
護衛が最後。
通路は昨日調べたものより少し広く、壁の色は黒と灰色が混じっていた。床には細かな石粉が落ちていて、奥へ進むほどその量が増えていく。
「これ、昨日の削れた壁の近くにあったのと同じ?」
俺がしゃがみ込む。
フィアが少し取って、指で擦った。
「近い」
「じゃあ」
「まだ」
「分かってる」
もう、そこは言われる前に止める。
フィアが少しだけこっちを見る。
「成長した」
「今のは結構褒めてる?」
「少し」
「やっぱり少しか」
話しながらも、目は前へ向けたままだった。
ごり。
今度は、かなり近い。
壁の向こうというより、前方から聞こえている。
何かがいる。
その確信だけが、少しずつ強くなっていった。
◇
角を曲がる手前で、フィアが手を上げた。
全員止まる。
音が聞こえる。
ごり、ごり。
一定じゃない。
何かが石へ身体を擦っているような。
硬いものを、何度も噛んでいるような音。
「見える?」
俺が小声で聞く。
「まだ」
フィアは腰を低くして、少しだけ角の先を覗いた。
すぐに戻る。
その表情が変わっていた。
「いる」
「何が?」
「大きい」
それだけだった。
でも、フィアにしては十分だった。
「魔物?」
「たぶん」
「何体?」
「1体」
護衛が武器へ手をかける。
俺もクロの柄を握った。
でも、抜かない。
「見るだけ」
フィアが確認する。
「分かってる」
◇
少しずつ角の先を見る。
最初は、何があるのか分からなかった。
壁が動いている。
そう見えた。
黒っぽい石壁の表面に、長い何かが張りつくように這っている。
目が慣れてくる。
細長い身体。
節ごとに並ぶ脚。
何本あるのか、すぐには数えられない。
身体の前方には、大きく硬そうな顎。
その顎が壁へ食い込み、石を削っていた。
ごり。
石が欠ける。
でも、床へ落ちる量は少ない。
よく見ると。
削れた石の一部が、そのまま口の中へ取り込まれている。
「……食ってる?」
護衛が小さく言った。
俺も同じように見えた。
巨大な多脚生物は壁へ身体を沿わせながら、少しずつ前へ進んでいる。
長い胴体。
何列も並ぶ脚。
頭部の顎。
そして、その顎で石壁を削り取る。
「岩、食ってる」
俺が小さく言う。
フィアが頷いた。
「そう見える」
そこだけは断定しない。
でも。
ほぼ間違いないように思えた。
『でけえな』
ベルが低い声を出す。
『硬そう』
クロも短く言う。
「戦うなよ」
『誰に言ってんだ!』
「ベル」
『お前もだろ』
「俺は分かってる」
『怪しい』
クロまで言う。
ひどい。
◇
多脚生物は、俺たちに気づいていないようだった。
ゆっくり壁沿いに進みながら、顎で石を削っていく。
ごり。
また石が消える。
その後ろに残った壁を見る。
最初は、ただ削れただけだと思った。
でも。
違う。
奥に空間が出ている。
黒い穴。
いや。
人が通れるくらいの通路。
「道……?」
護衛が小声で言った。
「作ってる?」
俺も思わず口にする。
「分からない」
フィアはそう答えた。
でも目は離さない。
多脚生物が壁を削りながら前へ進む。
その後ろに、確かに人が通れそうな空間が残っている。
ごり。
ごり。
また石が削られる。
でも、床にはほとんど残らない。
「昨日の壁」
俺が言った。
「これだ」
フィアはすぐには否定しなかった。
「可能性は高い」
昨日見たもの。
何本も並ぶ傷。
削れた壁。
少ない瓦礫。
その全部が、目の前の生物で繋がった。
◇
その時。
多脚生物が止まった。
長い身体が動かなくなる。
何本もの脚も止まる。
ごり、という音も消えた。
静かになった。
「止まった」
俺が小さく言う。
「うん」
次の瞬間。
別の音がした。
ぎ、と。
石が軋む音。
壁だけじゃない。
天井か。
床か。
空間全体が、ほんの少し震える。
護衛が顔を上げた。
「何だ?」
「分からない」
フィアの顔も少し硬くなっている。
また、ぎ、と鳴る。
今度はもっと近い。
壁の一部に、細い亀裂が走った。
「戻る?」
俺が聞く。
「まだ」
フィアは生物を見る。
多脚生物が少し動いた。
頭を壁へ向ける。
顎がまた石へ食い込む。
ごり。
音が戻る。
その直後。
さっきまで軋んでいた壁の音が、少し弱くなった。
「……今」
俺がフィアを見る。
フィアもこっちを見る。
同じことに気づいたらしい。
「偶然かもしれない」
フィアが先に言った。
「でも」
「うん」
生物が止まる。
空間が軋む。
生物が動く。
軋みが少し弱くなる。
関係がある。
そう思いたくなる。
でも、まだ1回しか見ていない。
◇
「ここまで」
フィアが言った。
「戻る」
「もう少し見ない?」
言ってから。
しまった、と思う。
フィアがこっちを見る。
「見る必要ある?」
少し考える。
「……今はない」
「うん」
「戻ろう」
素直に言う。
護衛が小さく笑った。
「本当に学んだな」
「最近そればっか言われる」
でも。
今はそれでいい。
戦わない。
近づかない。
情報を持ち帰る。
それが一番大事だ。
◇
戻る途中。
また音が変わった。
ごり、という音が少しずつ遠くなる。
多脚生物が俺たちとは別の方向へ移動しているらしい。
でも。
そのあと。
別の場所から、ぎ、と石が軋む音がする。
最初は気づかなかった。
でも今は。
ごり。
石を削る音。
少し遅れて。
ぎ。
違う場所が軋む。
完全に同時ではない。
でも。
何か関係がありそうに感じる。
「フィア」
「うん」
「さっきのやつが壁食うたび、道変わってる?」
「まだそこまでは言えない」
「でも?」
「記録する」
それでいい。
今は断定しない。
◇
生存者たちのところへ戻ると、何人かがすぐこっちを見る。
「何だった?」
最初の男が聞く。
フィアが答える。
「大きい多脚の魔物」
「見たのか?」
「うん」
「やっぱり……」
男が息を吐く。
「何?」
「いや。姿は見たことなかったけど、音からそういうもんかと思ってた」
俺は少し離れた場所に座った。
「壁、食ってた」
「食ってた?」
「そう見えた」
フィアが補足する。
「石を削って、そのまま口の中へ入れてた」
周囲が少しざわつく。
「じゃあ、あの穴も?」
「可能性は高い」
俺が言う。
「昨日見つけた削れ跡と、かなり似てた」
救護担当の女性が聞いた。
「危険度は?」
「分からない」
フィアがすぐ答える。
「こっちには気づいてなかった。戦闘もしてない」
「それでいい」
女性は頷いた。
「怪我人を連れてるんだから」
その通りだった。
◇
「それと、変なことがあった」
俺が続ける。
全員がこっちを見る。
「そいつが止まった時、壁とか天井が軋んだ」
「迷宮が?」
「たぶん」
フィアが補足する。
「動き出したら音が弱くなった。でも、まだ1回しか見てない」
「関係あると思う?」
生存者の男が聞く。
俺は少し考える。
「分からない。でも、壁を削ってるやつと道の変化が完全に無関係だとは思いにくい」
フィアも否定しない。
「観察する価値はある」
それで十分だった。
◇
その後、壁際に地図を広げた。
俺とフィア。
護衛。
それから生存者たち。
今まで石を削る音を聞いた場所を、思い出せる範囲で確認していく。
「昨日はここ」
男が指す。
「その前は?」
「もっと奥だったと思う」
別の女性が別の場所を指した。
「たしか、この辺り」
フィアが地図を見比べる。
「全部、道が変わった場所に近い」
「本当に?」
「完全には合わない。でも近い」
じゃあ。
やっぱり。
言いかけて止める。
まだ結論は早い。
「もう少し記録しよう」
フィアが言った。
「音が聞こえた時間と場所。それから、その前後で道が変わったか」
「それ全部覚えてるかな」
男が苦笑する。
「できる範囲でいい」
生存者たちも協力してくれる。
今まで怖いだけだった音が。
少しずつ。
手がかりに変わっていく。
◇
しばらくして。
また、ごり、と音がした。
今度は反対方向。
少し遠い。
「移動した?」
俺が聞く。
「たぶん」
フィアが地図を見る。
「さっきの場所から離れてる」
その少し後。
石壁の奥から、ぎ、と音がした。
全員黙る。
壁を見る。
最初は何も変わっていないように見えた。
でも。
石と石の境目が。
少しずつずれる。
「……動いてる」
護衛が小声で言った。
今まで。
入口が開く瞬間は何度か見てきた。
でも。
これは違う。
目の前の壁そのものが。
ゆっくり横へずれている。
1枚の石だけじゃない。
壁全体が、ほんの少しずつ動いていく。
「下がって」
フィアがすぐに言う。
全員が距離を取る。
壁がずれる。
その後ろから、細い隙間が現れる。
最初は人の腕が入るくらい。
それが。
少しずつ広がる。
最後には。
人1人なら通れそうな空間になった。
「こんな近くで……」
生存者の女性が言う。
「今まで無かった」
俺も同じ場所を見ていた。
新しい道。
なのか。
元からどこかにあった道が重なったのか。
それは分からない。
でも。
1つだけ。
確かだった。
今。
目の前で。
壁が動いた。
◇
誰もすぐには近づかなかった。
フィアが最初に空気を確認する。
匂い。
風。
床。
順番に見る。
「乾いてる」
「乾いた方?」
「近い」
「出口?」
「分からない」
そこは変わらない。
道が出た。
だから出口。
とは限らない。
「入る?」
護衛が聞く。
フィアは少し考えた。
「今日は入らない」
「なんで?」
俺が聞く。
「さっきの魔物が動いた直後に開いた」
言われて。
その通りだと思う。
「また閉じるかもしれない?」
「ある」
「それに、今の変化は速すぎる」
昨日まで。
道の変化は少しずつだった。
今日は。
目の前で壁が動いた。
迷宮そのものが。
前より大きく変わっている。
◇
俺は新しく開いた通路を見る。
乾いた空気。
細い砂。
黄色がかった石。
この先がどこへ続いているのかは分からない。
そして。
さっき壁を削っていた巨大な多脚生物。
あれが何なのかも分からない。
ただ石を食う魔物なのか。
それとも。
《重層迷宮》の変化と、何か関係しているのか。
でも。
今日。
初めて見た。
壁を削る生き物。
その生き物が動く。
そして。
別の場所で壁が動く。
まだ偶然かもしれない。
でも。
次に同じことが起きたら。
もっとはっきりする。
「フィア」
「なに?」
「次にあいつを見る時」
「うん」
「どこが動くかも見る」
フィアは少し考えた。
「それなら意味ある」
「倒さない?」
「今はね」
その答えを聞いた時。
クロの声が頭の中に響く。
『倒せるかもしれない』
「……」
『でも、今はやらない』
「うん」
ベルは珍しく何も言わない。
俺は少し笑った。
『何だ』
「いや」
『気味悪いぞ』
「ベルが静かだから」
『喧嘩売ってんのか!?』
少しだけ空気が戻る。
でも、新しく開いた道はまだそこにある。
そして。
遠くから。
また、ごり、と。
石を削る音が響いた。
俺はその音と。
目の前で動いた壁を。
交互に見た。
この迷宮がどうやって変わっているのか。
その答えに。
少しだけ近づいた気がした。




