第31話 帰れない
12人全員が生きていた。
昨日までなら、それだけで十分なくらい大きな答えだったと思う。壁の向こうで消えたと思われていた人たちが、怪我をしながらも全員ここにいる。声だけじゃなく、ちゃんと顔を見て確認できた。
でも今は、その安心に浸っている余裕がなかった。
俺たちがここまで通ってきた道が、消えている。
「もう一度、見に行く」
フィアが立ち上がった。
少し離れたところでは、救護担当の女性が負傷者の包帯を巻き直している。持ち込んだ水と保存食も配り終えたが、残量は決して多くない。
「俺も行く」
「うん。護衛も1人」
さっきと同じ3人で、消えた帰路を確認する。
ただ、今度の目的は確認だけじゃない。
別の帰り道を探す。
「どれくらい探す?」
「時間を決める」
フィアは少し考えてから答えた。
「長くても1時間。何も見つからなくても、その前に戻る」
「1時間で足りる?」
「足りるかどうかじゃない。戻れるうちに戻る」
言われて、口を閉じる。
たしかにそうだった。
俺たちまで別の場所へ迷い込んだら、ここに残る12人と救護担当の状況はもっと悪くなる。帰り道を探すために救助班まで消えたら、本末転倒だ。
「分かった」
フィアが少しだけ頷く。
それから生存者たちへ向き直った。
「私たちが戻るまで、ここから動かないで」
「分かってる」
最初に話した男が答えた。
「もう勝手に歩き回る気はないよ。何回痛い目を見たと思ってる」
冗談っぽい言い方だったけど、顔は笑っていなかった。
進んだはずなのに戻ってくる。
来た道がなくなる。
知らない場所へ繋がる。
それを何度も経験したからこそ、12人はここに留まっていたんだと思う。
俺たちが来たからって、その判断を軽く扱っていいわけじゃない。
◇
さっき通路が消えた場所まで戻る。
やっぱり壁だった。
何度見ても普通の石壁で、隙間も扉もない。ほんの少し前まで、俺たちはここを通ってきたはずなのに、その痕跡すらほとんど残っていなかった。
「ここで合ってる」
フィアが目印を確認する。
「俺もそう思う」
護衛も頷いた。
「間違いない。ここを通った」
3人とも同じ場所を覚えている。
それでも、道はない。
「待ってたらまた開くかな」
俺が聞く。
「可能性はある」
「どれくらい?」
「分からない」
フィアは壁の前に留まらず、すぐに左右の床や石の継ぎ目を調べ始めた。
「昨日までなら、ここで待ってたかもな」
「今日は待たない」
「12人いるから?」
「それもあるけど」
フィアは壁際に残った石粉を指先で確かめる。
「同じ壁がまた開くって決める理由がない」
その言葉で納得した。
これまで壁は何度も開いた。
だから、また開く。
ついそう考えてしまう。
でも実際には、入口の位置も、開き方も、繋がる先も毎回違った。
同じ場所で待ち続ける方が、むしろ賭けになる。
「別の風を探す」
フィアが言った。
「入口に繋がるやつ?」
「それか、別の空間に繋がるやつでもいい。今は完全な行き止まりよりまし」
基準が少し変わっている。
最初はルーメンへ直接戻れる道を探していた。
今はまず、閉じ込められていない場所を探す。
そこから出口へ繋がる可能性を増やしていく。
◇
壁沿いを右へ進んだ。
しばらくは何もない。
石。
砂。
同じような景色。
でも、フィアは数歩ごとに足を止め、壁へ耳を近づけたり、床の砂を見たり、空気の匂いを確かめたりしている。
俺も真似して壁へ耳を近づけてみた。
「何か聞こえる?」
「何も」
「俺も」
「なら一緒」
「なんか嬉しくないな」
護衛が後ろで小さく笑った。
こういう時、少しでも会話がある方が助かる。
黙ったまま歩いていると、どこまで進んでも景色が変わらないせいで、同じ場所を回っているような気がしてくる。
この迷宮では、それが本当に起きるから余計に嫌だった。
「待って」
フィアが止まった。
「何かあった?」
「風」
壁じゃない。
床の方だった。
フィアがしゃがみ込み、壁と床の境目を覗き込む。
細い亀裂が走っていた。
「ここ?」
「うん」
俺もしゃがんで、手を近づける。
ほんの少しだけ。
冷たい空気が流れている。
「ある」
「でしょ」
「この先に空間がある?」
「可能性は高い」
亀裂は、人の指が入るかどうかくらいしかない。
このままじゃ当然通れない。
「壊す?」
護衛が聞いた。
フィアはすぐに首を横へ振った。
「まだ」
「崩れるかもしれないから?」
「それもあるし、何に繋がってるか分からない」
前の俺なら、少しだけ削って覗けばいいと思っていたかもしれない。
でも今は、壁を壊すこと自体が危ない。
別の構造と繋がるかもしれないし、道がまた変わるかもしれない。
「別の入口を探す?」
「この亀裂を追う」
フィアは立ち上がった。
亀裂は、壁沿いに細く伸びている。
◇
亀裂を追って数十歩進むと、途中から床が少し高くなった。
石が浮き上がったようになっていて、その隙間から今度ははっきり風が出ている。
「ここ、強い」
フィアが言った。
「開いてる?」
「どこかで」
その先へ回り込む。
通路の端。
壁と壁の間に、ほんの少しだけ隙間があった。
「これ?」
真正面から見ると、ほとんど普通の壁にしか見えない。
でも横から覗くと、奥へ続いている。
「人、通れる?」
護衛が身体を寄せて見る。
「俺は無理だな」
肩幅を考えるまでもない。
俺も無理だ。
ベルを背負ったままなら、なおさら入らない。
「フィアなら?」
言ってから、彼女を見る。
小柄で、装備も軽い。
弓と矢筒を外せば、通れる可能性はある。
「……通れるかも」
フィアはすぐには入らなかった。
小石を1つ落とし、音を聞く。
少し遅れて、奥から石が転がる音が返ってきた。
「少し下がってる?」
「たぶん」
「危ない?」
「分からない」
それでも、無理に進まない。
フィアは細い棒を隙間へ入れて、足場の位置を確認してから弓を外した。
「行くの?」
「入口だけ見る」
「1人で?」
「この幅じゃ1人しか無理」
その言葉に、胸が少し引っかかった。
「どこまで?」
「身体全部は入れない」
フィアは上半身だけ隙間へ差し込んだ。
俺と護衛は、後ろから彼女の足元を見ている。
「どう?」
返事がない。
「フィア?」
「待って」
少しして、身体を戻した。
「道はある」
「どこへ?」
「分からない。でも奥へ続いてる」
「広くなる?」
「少し先で」
俺はもう一度、隙間を見る。
「俺たちも通れる?」
「無理」
「12人は?」
「もっと無理」
そこで空気が変わった。
道は見つかった。
でも、救助に使える道じゃない。
◇
「ただ」
フィアが隙間を見る。
「私なら行ける」
分かっていた。
それでも、本人から聞くと重かった。
「出口まで繋がってる?」
「分からない」
「途中で戻れなくなる可能性は?」
「ある」
「じゃあ、行かない方がいい」
俺はすぐ言った。
フィアがこっちを見る。
「まだ行くって言ってない」
「あ」
「ルカの方が焦ってる」
「……悪い」
でも、嫌だった。
今までとは違う。
これは、はっきりとした道だ。
しかも。
フィア1人なら通れる。
「調べる価値はある」
フィアが言った。
「それは分かるけど」
「でも、今は行かない」
「なんで?」
「決めた時間があるから」
最初に決めた1時間。
もうかなり使っている。
「それと、この道が外へ繋がってたとしても」
フィアは隙間から目を離した。
「私1人しか通れないなら、今のままじゃ救助には使えない」
その言葉に、少しだけ安心した。
「戻る?」
「うん。報告する」
護衛も頷いた。
「それがいい。少なくとも手がかりは増えた」
出口じゃない。
まだ。
でも、手がかりではある。
◇
生存者たちのところへ戻ると、救護担当の女性がすぐに立ち上がった。
「どうだった?」
「元の道は閉じたまま」
フィアが答える。
「別の細い通路を見つけた。でも、私くらいしか通れない」
「外に繋がってる?」
「未確認」
「じゃあ、まだ使えないね」
「うん」
生存者たちにも同じように説明した。
思ったより大きな落胆はなかった。
「道があるだけ、ましか」
男が言った。
「俺らが探した時なんて、壁しかなかったからな」
別の女性が少し考えてから言う。
「でも、フィアさんが1人で出られるなら、ギルドに助けを呼べるかもしれないでしょ?」
その瞬間、フィアの表情が少し変わった。
「まだ帰れるとは決まってない」
「でも、もし帰れたら?」
女性は悪気なく続ける。
「外に出て、もっと人を呼んでくればいいんじゃない?」
理屈としては正しい。
フィアだけが通れる。
その先が外へ繋がっている。
なら、1人で抜けて助けを呼ぶ。
一番自然な考え方だ。
「入口が消えたら」
俺が言った。
「え?」
「フィアが向こうへ行ったあと、この隙間が消えたら戻ってこれない」
女性が黙る。
「それに、外へ出られるとも限らない」
フィアが続けた。
「別の迷宮へ出るかもしれない」
そうだ。
俺たちは何度もそれを見てきた。
道がある。
だから出口。
そんな簡単じゃない。
「今は1人で行かない」
フィアがはっきり言った。
「帰る方法は探す。でも、全員を置いて試すには情報が足りない」
全員を置いて。
その言い方だけが、妙に耳に残った。
◇
その後は、全員で状況を整理した。
残っている水。
食料。
負傷者。
自力で歩ける人。
補助が必要な人。
それから、ここで休める場所があとどれくらい持つか。
俺たちが来たことで物資は少し増えた。
でも、長く持つほどじゃない。
「どれくらいなら大丈夫?」
俺が救護担当へ聞く。
「水が確保できれば少しは伸ばせる。でも、食料は厳しい」
「明日くらいなら?」
「それくらいなら問題ない。でも何日も、は考えない方がいい」
時間はある。
でも無限じゃない。
それに、《重層迷宮》がいつまでこの形を保つのかも分からない。
そこへ、遠くから低い音が響いた。
ごり。
石を削るような音。
生存者たちがすぐに反応する。
「今日、近くない?」
俺が聞いた。
男が少し考える。
「昨日よりは近い気がする」
「道が変わる前、音が増えるって言ってたよな」
「ああ」
フィアが立ち上がった。
「入口周辺、確認する」
「俺も行く」
「全員は動かない」
「分かってる」
今度は言われる前に準備する。
◇
音のする方向へは行かなかった。
逆だ。
さっき見つけた細い隙間とも違う方向を調べる。
もっと広い。
12人でも通れる。
そんな道を探す。
でも、簡単には見つからなかった。
行き止まり。
壁。
また壁。
戻る。
少しずつ。
焦りが増える。
「焦らない」
今度は俺から言った。
フィアがこっちを見る。
「自分に?」
「半分」
「もう半分は?」
「フィア」
「私、焦ってない」
「そう?」
「少しだけ」
「じゃあ必要じゃん」
ほんの少しだけ笑う。
でも、すぐに前を見る。
「ルカ」
「なに?」
フィアは少し言葉を止めた。
「もし、さっきの道が本当に外へ繋がってたら」
胸が重くなる。
「うん」
「1人で出た方がいい状況もある」
分かる。
助けを呼ぶため。
情報を持ち帰るため。
そうした方がいい状況はある。
「でも今は?」
「今は行かない」
「分かった」
それ以上は聞かなかった。
この話は、まだ終わっていない。
◇
戻る途中、フィアが壁の前で急に止まった。
「ここ」
「何?」
「さっきまで無かった」
壁を見る。
細い縦の亀裂。
そこから、ほんの少し空気が流れている。
「新しい道?」
「分からない」
触らない。
壊さない。
ただ観察する。
その時だった。
ごり。
遠くじゃない。
壁の向こうから響いた。
全員が止まる。
もう一度。
ごり。
石の中を、重たい何かが擦っているような音。
そして。
目の前の亀裂が、ほんの少しだけ広がった。
「……今の」
俺が亀裂を見る。
「音と一緒に?」
フィアも同じ場所を見ている。
「たぶん」
道が変わる。
石を削る何かがいる。
今まで別々に見えていた2つの現象が、少しずつ近づいている。
「戻る」
フィアの判断は早かった。
「今の場所、記録して」
「分かった」
俺たちは位置だけを残して、生存者たちのところへ戻った。
◇
12人は、全員まだそこにいた。
それを見るだけで少し安心する。
でも、状況は何も解決していない。
入口はない。
帰り道もない。
フィアだけなら通れるかもしれない細い道が1本ある。
そして、石を削る音と通路の変化が関係している可能性が出てきた。
情報は増えた。
でも、出口は増えていない。
「どうだった?」
男が聞く。
俺は一度フィアを見る。
フィアが小さく頷いた。
「まだ帰れない」
俺が答える。
誰も騒がなかった。
たぶん。
みんなもう分かっている。
簡単には出られない。
だからこそ、俺は続けた。
「でも、道がどう変わってるのかは少しずつ分かってきてる」
男が苦笑する。
「それ、希望ってことでいいのか?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
「フィアにそう教わった」
フィアが横で言う。
「分からないことは、分からないって言う」
「だってさ」
「いい斥候だな」
「うん」
それは本当にそう思う。
俺は周囲を見る。
12人。
救護担当。
護衛。
フィア。
そして俺。
ベルとクロもいる。
全員、まだここにいる。
帰れない。
でも。
誰か1人だけを置いて帰る方法を探しているわけじゃない。
「帰ろう」
俺は言った。
みんながこっちを見る。
「今すぐじゃなくていい。すぐに見つからなくてもいい」
少しだけ息を吸う。
「全員で帰れる道を探そう」
フィアは何も言わなかった。
ただ。
ほんの少しだけ頷いた。




