第26話 知らない石壁
翌朝。
ギルドへ着くと、ミナさんはもう俺たちの分の書類を揃えていた。
「今日は昨日確認した地点の再調査。目的は、壁の向こうに何があるのかを確認することです」
仕事の声でそう説明してから、俺とフィア、それから今日同行する護衛2人へ順番に視線を向ける。
「ただし、壁を壊すことは許可されていません。構造を変えるような行動も禁止。異常を確認した場合は、その場で撤退してください」
「了解」
フィアが短く答える。
俺も頷いた。
「ルカ」
「なに?」
ミナさんの声が、いつものものに戻る。
「今日は昨日より奥まで行くんだから、本当に気をつけてよ」
「分かってる」
「昨日も聞いた」
「じゃあ大丈夫」
「その自信が怖いの」
横でフィアが俺を見る。
「信用ないね」
「フィアまで言う?」
「あると思ってた?」
「少しくらい」
ミナさんが小さく笑った。
「帰ってきたら考える」
「じゃあ帰るしかないな」
「最初からそのつもりで行って」
そう言って、少しだけ表情を柔らかくする。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
◇
昨日見つけた壁までの道は、もう覚えていた。
それでも先頭を歩くのはフィアだ。
昨日と同じように、床、壁、空気。そのどれかに少しでも違いがあれば足を止める。
「昨日と同じ?」
「今のところ」
「風は?」
「ある」
「強さは?」
「少し弱い」
その言葉に引っかかる。
「弱くなった?」
「うん」
「時間で変わるのかな」
「分からない。でも昨日と同じものだと思わない方がいい」
「壁が変わる?」
「壁じゃないかもしれない」
何度聞いても変な話だった。
目の前に確かに壁がある。
でも、誰かが通った時には壁ではなかったかもしれない。
昨日まではただの仮説だった。
今日は、それを確かめに来た。
◇
目的の場所へ着く。
昨日と同じ石壁。
壁と床の隙間には、短い植物の根がまだ残っている。
フィアがしゃがみ込んだ。
「乾いてない」
「生きてる?」
「たぶん」
次に壁へ耳を近づける。
「水」
「今日も?」
「うん」
俺も耳を澄ませる。
やっぱり分からない。
『ある』
クロの声。
「クロも分かる?」
『昨日より遠い』
「遠い?」
『たぶん』
フィアがこっちを見る。
「また独り言?」
「……まあ」
もう諦められつつある気がする。
護衛の1人が壁へ近づいた。
「それで、どうする?」
フィアはすぐには答えなかった。
壁、床、天井。
何度か順番に見てから、壁の前へ座る。
「待つ」
「待つ?」
「変わるなら」
俺は少し考えてから理解した。
「壁が変わる瞬間を待つ?」
「うん」
「そんなの分かる?」
「分からない」
「じゃあ」
「だから見る」
そう言って、本当に待ち始めた。
◇
最初の10分。
何もない。
さらに20分。
やっぱり何もない。
石壁はどこから見ても普通で、昨日の話を知らなければ、俺だってここで人の痕跡が消えたなんて信じないと思う。
「……本当に変わるのかな」
「静かに」
「はい」
フィアは耳を立てたまま目を閉じている。
俺も壁を見つめる。
『退屈だな』
ベル。
「言うな」
『俺様、こういうの苦手だぞ』
『ベル、うるさい』
『喋ってねえよ!』
『頭の中でもうるさい』
『理不尽だろ!』
少し笑いそうになった、その時だった。
「止まった」
フィアが目を開く。
「何が?」
「水」
全員の視線が壁へ向く。
「音が消えた」
「完全に?」
「うん」
フィアが立ち上がり、壁へ近づく。
「風もない」
「さっきまであった?」
「あった」
見た目は何も変わっていない。
それなのに、フィアの耳が小さく動いた。
「……来る」
「何が?」
次の瞬間。
壁の奥から、低い音がした。
ご、と。
重い石同士が擦れるような音。
俺たちは一斉に立ち上がる。
「動いた?」
護衛が剣へ手を掛ける。
でも抜かない。
壁の表面に細い線が走った。
亀裂に見えた。
でも違う。
石そのものが、ほんの少し横へずれている。
「昨日の……」
俺が落ちた時とは違う。
でも、どこか似ている。
壁が壊れるんじゃない。
最初からそこに隙間があったみたいに、石が静かに横へ動いていく。
「下がって」
フィアがすぐに言う。
全員が1歩下がる。
やがて隙間は、人1人が通れるくらいの幅になった。
その奥から、冷たい空気が流れてくる。
湿っている。
それに。
土の匂い。
今度は俺にも分かった。
「……本当に開いた」
護衛が小さく呟く。
誰も返事をしなかった。
◇
フィアが隙間の前へしゃがみ込む。
「足跡」
「ある?」
「ある」
俺も横から覗く。
向こう側の床は石だった。
でも色が違う。
ルーメンの灰色とは違って、少し黒い。
「同じ人?」
「たぶん」
「進んだ?」
「うん」
フィアが奥を指す。
足跡は、その暗がりの中へ続いている。
「戻った跡は?」
「ない」
12人。
そのうち少なくとも誰かが、ここを通った可能性が高い。
「行く?」
俺が聞く。
フィアはすぐには答えず、まず後ろを見る。
来た道。
開いた壁。
その位置。
「戻れる?」
「今は」
「またそれか」
「大事」
「分かってる」
フィアは壁の手前に小石を3つ並べた。
三角形。
「印?」
「うん」
さらに壁の横へ短剣で浅い傷をつける。
「表面だけ」
護衛が確認して頷く。
最後にロープを取り出し、こちら側の出っ張りへ結んだ。
「向こうへ持っていく?」
「うん」
「もし壁が閉じたら?」
「切れる」
「それじゃ意味なくない?」
「切れたら、戻れないって分かる」
怖い確認方法だ。
でも。
ないよりはいい。
「怖くない?」
思わず聞いた。
フィアが俺を見る。
「怖いよ」
「そう見えない」
「怖くないふりする意味ないから」
少し間を置く。
「怖いなら、怖いまま入る」
その言葉が妙に残った。
「それ、いいな」
「何が?」
「いや。なんとなく」
フィアはそれ以上聞かなかった。
◇
入る順番はフィア、俺、護衛2人。
ギルド職員は壁のこちら側に残った。
もし戻れなかった場合、何が起きたかをギルドへ伝える人間が必要だからだ。
フィアが最初に隙間を抜ける。
続いて俺。
壁は思っていたより厚かった。
1歩。
2歩。
3歩。
向こう側へ抜けた瞬間、空気が変わった。
「……違う」
思わず声が出る。
冷たい。
湿気が強い。
それに土の匂いがはっきりする。
天井もルーメンより高い。
壁は黒っぽい石でできていて、所々に緑色の苔が生えている。
「石の種類も違う」
フィアが壁を見ながら言う。
護衛の1人が後ろを振り返る。
「入口は?」
まだ開いている。
細い隙間の向こうに、ルーメン側の灰色の通路が見えた。
「今はある」
フィアはロープを確認してから、前へ向き直る。
「少しだけ進む」
「地図は?」
「意味ない」
「そっか」
ここは載っていない。
フィアが床を見る。
「足跡、続いてる」
黒い石の上。
黄土色の砂。
昨日まで紙の上でしか見なかった痕跡が、今は目の前に続いている。
◇
20歩ほど進んだところで、空気はさらに湿ってきた。
壁の石も、ルーメンとは明らかに違う。
自然に割れた岩というより、切り出して積んだように角が揃っている。
「人工物?」
「分からない」
フィアの返事は短い。
でも、さっきより警戒しているのは分かった。
「足音」
「前?」
「違う」
全員止まる。
耳を澄ませる。
「水」
フィアが言う。
今度は俺にも聞こえた。
ぽた。
ぽた。
どこか近くで、水滴が落ちる音。
「人は?」
「分からない」
フィアが床を指す。
「こっち」
足跡。
1人分じゃない。
重なっている。
「何人?」
「少なくとも3人」
「12人の?」
「それは分からない」
でも、人がここを通った。
それだけはかなり確かに見えた。
「同じ方向?」
「うん」
足跡は前へ続き、暗い曲がり角の向こうへ消えている。
「追う?」
俺が聞く。
フィアは一度後ろを確認した。
入口はまだ見えている。
「もう少しだけ」
◇
曲がり角を抜けた瞬間。
俺は足を止めた。
「……なにこれ」
壁は同じ黒い石。
でも床が違う。
石の隙間から、細い根がいくつも伸びている。
奥へ行くほど緑が増えていた。
空気もさらに湿っている。
「本当に迷宮なのかな」
「分からない」
フィアがしゃがみ込む。
「でも、人の跡はある」
土の薄く積もった場所に、足跡が残っている。
こっちの方が見やすい。
「何人?」
「4……」
フィアが少し止まる。
「5」
「増えた?」
「途中で合流してる」
「別の場所から?」
「たぶん」
俺は周囲を見る。
通路は1本しかない。
「どこから合流したんだ?」
「分からない」
フィアが立ち上がる。
そのまま壁を見た。
「でも、ここ変」
「今さら?」
「そうじゃない」
少し先を指す。
「この道、さっきより広い」
「気のせいじゃ?」
「違う」
俺も振り返る。
そこで初めて気づいた。
来た時より、壁と壁の間が少し広い。
ほんの少し。
でも。
確かに違う気がする。
「……動いてる?」
「分からない」
フィアの声が硬くなる。
それだけで十分だった。
「戻る」
「まだ足跡は」
「戻る」
今度は俺も逆らわなかった。
「分かった」
◇
帰り道。
来た道を、そのまま戻る。
はずだった。
「止まって」
フィアが足を止める。
「なに?」
「違う」
「何が?」
「壁」
俺には同じにしか見えない。
「どこが?」
「傷」
「傷?」
「さっき、ここに長い傷があった」
フィアが指す。
黒い石壁。
でも何もない。
「なくなった?」
「うん」
護衛の1人が周囲を確認する。
「道を間違えたんじゃないか?」
「曲がってない」
フィアは即答した。
背中に冷たいものが走る。
迷ったんじゃない。
道が違う。
『左』
クロ。
「え?」
『左』
俺は左を見る。
ただの石壁。
『前じゃない』
「クロ?」
フィアがこっちを見る。
「また?」
「……ちょっと待って」
クロは何かを感じている。
「何がある?」
『分からない』
「でも左?」
『うん』
俺はフィアを見る。
「左だと思う」
「なんで?」
「……勘」
「急に?」
「うん」
かなり苦しい。
フィアは疑うような顔をした。
でも、壁へ近づいて耳を寄せる。
少しして。
「……風」
「ある?」
「少し」
俺は息を吐いた。
「じゃあ」
「まだ分からない」
フィアは壁際へしゃがむ。
「でも調べる価値はある」
◇
数分かけて壁際を調べる。
俺にはほとんど違いが分からない。
でもフィアは、1つの石の前で止まった。
「ここだけ少し色が違う」
「動かせる?」
「触らない」
「じゃあどうする?」
「待つ」
また待つ。
今度は長くなかった。
低い音。
ご、と。
さっきと同じ。
石が横へずれる。
「開いた」
その先に見えたのは灰色の石壁だった。
ルーメン。
見慣れた通路。
「戻れた……」
護衛が息を吐く。
俺も力が抜けそうになる。
でもフィアはまだ安心していなかった。
「全員、先に」
「フィアは?」
「最後」
「なんで?」
「閉じた時に誰か残ったら困る」
「俺が最後でも」
「駄目」
「なんで」
「足、怪我明け」
「そこ?」
「そこ」
強い。
仕方なく俺が先に抜ける。
護衛2人が続く。
最後にフィアが隙間を抜けた。
直後。
背後で石が擦れる。
振り返る。
開いていた道が少しずつ閉じていく。
やがて。
何もなくなった。
ただの石壁。
さっきまで確かに道があった場所。
俺たちはそこを通った。
なのに、今はもうない。
「……消えた」
自分の声が思ったより小さかった。
護衛の顔も青い。
「未帰還者も、これで……?」
フィアが壁を見る。
「たぶん」
「同じ?」
「可能性は高い」
俺も壁を見る。
12人が消えたんじゃない。
道が閉じた。
もしそうなら。
まだ向こうにいる。
そう考えた瞬間。
少しだけ。
希望が生まれた。
◇
ギルドへ戻ると、ミナさんは俺たちの顔を見るなり受付から立ち上がった。
「遅い」
「ごめん」
「何があったの?」
「道が閉じた」
その一言で、ミナさんの顔が変わった。
「詳しく」
会議室へ移動して、順番に報告する。
壁が動いたこと。
隙間が開いたこと。
その向こうに黒い石の通路があったこと。
湿気。
土。
植物。
水。
複数人分の足跡。
そして帰り道が変わったこと。
別の場所に出口が開き、そこからルーメンへ戻ったこと。
ミナさんは一度も手を止めなかった。
「向こうの構造は?」
「分からない」
フィアが答える。
「ルーメンとは違う。でも、別の迷宮だと断定できるほど見てない」
「人の痕跡は?」
「少なくとも5人分」
「生存確認は?」
「してない」
「声は?」
「聞こえなかった」
ミナさんが一度だけ筆を止める。
「じゃあ、まだ12人全員の所在は不明」
「うん」
俺は頷く。
「でも」
言葉を続ける。
「12人が消えたんじゃないと思う」
ミナさんがこっちを見る。
「少なくとも、壁の向こうへ行った人がいる」
フィアも頷いた。
「その可能性は高い」
ミナさんはしばらく何も言わなかった。
やがて報告書を閉じる。
その時には、もう仕事の顔じゃなかった。
「ルカ」
「なに?」
「無事でよかった」
「うん」
「本当に」
その声で。
少しだけ肩の力が抜ける。
「……ただいま」
俺が先に言う。
ミナさんが一瞬だけ驚いて。
それから笑った。
「おかえり」
◇
帰る前。
フィアはもう一度地図を広げていた。
俺も隣から見る。
今日通った道。
でも。
どこにも書けない。
「どこに描けばいい?」
「描けない」
「なんで?」
「ルーメンの地図にない」
「地図外ってこと?」
「それだけじゃない」
フィアが失踪地点の印を指す。
1つ。
2つ。
3つ。
4つ。
「今日の場所と他の壁。位置が合わない」
「どういうこと?」
「普通の通路として考えたら、途中で別の階層とぶつかる」
俺も地図を見る。
高さ。
距離。
階層。
考えてみる。
確かに変だった。
「じゃあ、あの道はどこにあるんだ?」
「分からない」
フィアはしばらく地図を見ていた。
やがて指先で、今日入った場所を軽く叩く。
「でも少なくとも」
顔を上げる。
「知らない石壁の向こうに、知らない道がある」
今は。
それだけ。
でも。
昨日よりは進んだ。
人が消えたんじゃない。
道が閉じた可能性がある。
なら。
探せる。
まだ。
追える。




