第25話 一人なら帰れる
「……よし」
治療院の診察室で、俺は右腕をゆっくり上げた。
肩に違和感は残っている。でも、前みたいに途中で止めたくなるような痛みはない。左足も軽く踏み込む程度なら問題なかった。
治療師が俺の肩と足首を順番に確認してから、小さく頷く。
「軽い探索なら許可します」
「本当ですか?」
「ただし、戦闘は避けること。右肩へ強い衝撃を受けない。左足も無理に踏み込まない」
「はい」
「痛みが出たら帰る」
「はい」
「本当に帰る」
「……はい」
「今、間がありましたね」
「気のせいです」
治療師がため息をつく。
「ギルドにも同じ内容を伝えておきます」
『小僧、完全に監視対象だな』
「誰のせいだと思ってるんだよ」
『俺様じゃねえ!』
『半分はベル』
『クロ!?』
診察室の外から人の足音が聞こえて、俺は慌てて口を閉じた。
やっと戻れる。
迷宮へ。
◇
「駄目」
ギルドへ着いて、治療院から探索許可が出たことを伝えた。
その結果がこれだった。
「なんで?」
「軽い探索って言われたんでしょ?」
「うん」
「戦闘禁止」
「うん」
「じゃあ1人では駄目」
「え」
ミナさんは俺のギルドタグと治療院から届いた紙を交互に見る。
「フィアさんと一緒なら許可」
「フィアと?」
「今ちょうど、残りの調査地点へ行く予定だから」
受付の横を見る。
いた。
フィアは壁に寄りかかりながら、こっちを見ている。
「治った?」
「一応」
「一応じゃ困る」
「ミナさんにも同じこと言われた」
「正しい」
フィアが近づいてきて、俺の右肩を見る。
「動かして」
「え?」
「肩」
ゆっくり上げる。下ろす。
次に、フィアの視線が左足へ落ちた。
「歩いて」
「ここで?」
「うん」
数歩歩いて戻る。
フィアは少し考えてから言った。
「前よりまし」
「合格?」
「まだ」
「まだ?」
「走ったら?」
「走らない」
「戦ったら?」
「戦わない」
「痛くなったら?」
「戻る」
少しの沈黙。
「ならいい」
「面接?」
「確認」
ミナさんが横で笑っている。
「じゃあ決まりね」
次の瞬間、表情と声が少し変わった。
「今回の目的は未帰還者12名の追跡調査。戦闘ではありません。危険を確認した場合は、即時撤退してください」
そこまで言ってから、俺を見る。
「ルカ」
「なに?」
「無茶しない」
「分かってる」
「本当に?」
「本当に」
「なら、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
◇
迷宮へ入る。
今日の調査班は、俺、フィア、ギルド職員、護衛の4人。
ベルとクロも一緒だけど、もちろん他の人には見えないし、数にも入っていない。
先頭を歩いていたフィアが、突然足を止めた。
「ここから、全員私が踏んだところだけ踏んで」
護衛が眉を寄せる。
「何かあるのか?」
「痕跡」
フィアが床を指す。
俺も見る。
でも、ほとんど何も分からない。
「誰の?」
「未帰還者の可能性が高い」
「どうして?」
「靴底」
フィアがしゃがみ込む。
「右足の外側が少し削れてる」
昨日見た記録を思い出す。
「第1地点の人?」
「別」
「分かるの?」
「歩幅が違う」
それだけ言うと、また歩き出す。
俺たちはフィアが踏んだ場所を選んで、その後ろを進む。
「結構残ってるんだな」
「残ってる」
「でも、俺にはほとんど見えない」
「足跡しか見てないから」
「見てるよ」
「砂。石粉。靴の削れ。歩幅。壁に当たった跡」
言われて、改めて周囲を見る。
床だけじゃない。
壁の裾。
落ちている砂。
擦れた跡。
今までただの通路だった場所が、少し違って見えた。
◇
しばらく進んだところで、フィアがまた止まった。
耳が少し動く。
「空気」
「また?」
「違う」
「何が?」
「前より湿ってる」
俺も息を吸う。
よく分からない。
でも言われてみれば、少し冷たい気もする。
「前も壁の向こうから風って言ってたよな」
「うん」
「同じ?」
「近い。でも違う」
「難しいな」
「匂いが違う」
「俺には分からない」
「普通」
『狐鼻便利だな』
ベルの声。
「羨ましいよな」
フィアの耳がぴくりと動く。
「また誰かと話してる?」
「独り言」
「多すぎる」
「最近よく言われる」
◇
角を曲がったところで、フィアが右手を上げた。
全員が止まる。
「前に2匹」
護衛が剣へ手を伸ばす。
「何だ?」
「洞牙鼠」
低級魔物だ。
俺も何度か見たことがある。
「倒す?」
「避ける」
フィアは即答した。
「向こうは?」
「まだ気づいてない」
「回り道になるぞ」
「なる」
「なら」
「戦う意味がない」
昨日も聞いた言葉。
フィアが左の細い通路を指す。
「こっち」
誰も反対しなかった。
少し遠回りになる。
でも戦闘はない。俺の肩と左足にとっても、その方がいい。
それでも、一瞬だけ考えた。
目の前の魔物を倒せる。
魔石が手に入る。
経験が入るかもしれない。
前なら、そこまで考えていた。
今も、完全に消えたわけじゃない。
でも今日の目的は違う。
12人を探す。
それだけだ。
◇
「止まって」
フィアが床を見たまま言った。
今度は長い。
数歩分の足跡を行ったり来たりしながら確認している。
「ここ、歩き方が変わってる」
「どこが?」
「歩幅」
フィアが2つの足跡を示す。
「ここまでは一定。ここから少し広がってる」
「走った?」
「違う」
「じゃあ?」
「急いだ」
「同じじゃない?」
「走るほどじゃない」
細かすぎる。
でもフィアは真剣だった。
「何か見つけた?」
「たぶん」
「何?」
「空気」
「空気?」
「ここから湿気が強くなってる」
壁へ近づく。
鼻が少し動く。
「土」
「土?」
「うん」
ルーメン迷宮は、ほとんど石と岩ばかりだ。
土の匂いなんて、ほとんどしない。
「人の足跡は?」
「続いてる」
「壁まで?」
「まだ」
さらに進む。
床に黄土色の砂が薄く混じっていた。
フィアがしゃがむ。
「同じ」
「前の場所にあった砂?」
「近い」
その少し先の壁には、湿った染みが残っている。
「水?」
「たぶん」
さらに進むと、俺にも足跡が分かるようになってきた。
「これ?」
「うん。同じ人」
「どうして?」
「右足が外へ逃げる」
「歩き方で追えるんだ」
「今のところ」
「今のところ?」
「痕跡が変わったら分からない」
「ちゃんと言うんだな」
「何を?」
「分からない時は、分からないって」
「普通」
「そうでもないと思う」
フィアが少しだけ俺を見る。
でも、何も言わなかった。
◇
通路が狭くなったところで、フィアが急に向きを変えた。
「戻る」
護衛が聞く。
「何かいる?」
「いる」
「何が?」
「分からない」
「数は?」
「分からない」
「なら確認を」
「しない」
フィアの声が少し強くなる。
「音が多い」
狐耳がわずかに伏せられる。
「前。右。後ろ」
「囲まれてる?」
「まだ」
「なら戦えば」
「戻る」
フィアはもう進行方向を変えていた。
俺も後ろを見る。
何も見えない。
でも耳を澄ますと、微かに爪が石を擦る音が聞こえた。
右。
前。
確かに1つじゃない。
「フィア」
「なに?」
「俺たちだけなら抜けられる?」
歩きながら、フィアが答える。
「私だけなら、たぶん」
「1人なら?」
「狭い方へ抜ける」
護衛が口を挟む。
「なら、お前だけ先に出て外から回れば」
「しない」
即答だった。
「なぜ?」
「一緒に入ったから」
「危険なら分けた方がいい」
「逃げるなら全員」
昨日聞いた言葉。
同じだった。
「それが一番安全?」
俺が聞く。
フィアは少し黙った。
「違う」
「え?」
「私1人なら、その方が安全」
「じゃあ、なんで」
「……知らない」
声が少し硬い。
これ以上は聞かない方がいい。
そう思った。
◇
元の通路まで戻ると、魔物の気配も遠くなった。
フィアが立ち止まって、静かに息を吐く。
「大丈夫?」
「平気」
護衛が周囲を確認してから、少し気まずそうに言った。
「さっきは悪かった」
「何が?」
「分かれた方がいいって言ったことだ」
「正しい時もある」
「今回は?」
「分からない」
またその言葉。
でも。
さっき、フィアだけなら帰れた。
それでも戻った。
理由は気になる。
でも、まだ聞かない。
◇
フィアが地図を広げる。
「こっちなら行けると思う」
「また、たぶん?」
「絶対って言う人の方が危ない」
「それは分かる」
少しだけ笑う。
別方向へ進む。
今度は魔物もいない。
しばらくすると、また人の痕跡が見つかった。
「ここ」
「同じ?」
「同じ人」
「繋がった?」
「一部だけ」
「でも進んでる」
「うん」
フィアが床、壁、天井の順に確認する。
次の瞬間。
止まった。
「また壁?」
「違う」
「何が?」
「風」
フィアが壁へ手を近づける。
「こっちは前より強い」
俺も真似をする。
やっぱり分からない。
「本当に?」
「うん」
フィアが壁際へしゃがみ込み、落ちている石粉を指先で確かめる。
「新しい」
「削れた?」
「たぶん」
「誰かが?」
「分からない」
今度は床を見る。
「……これ」
「何?」
「植物」
壁と床の隙間から、短い根のようなものが出ている。
緑色。
生きている。
「本物?」
「触らない」
「分かってる」
「ルーメンにはない」
フィアが言い切る。
そのまま壁へ耳を寄せた。
長い沈黙。
「水」
「え?」
「音」
俺も耳を澄ませる。
何も聞こえない。
でも。
『ある』
クロ。
「クロも?」
『水』
思わず口に出す。
「……水、ある」
フィアが俺を見る。
「聞こえるの?」
しまった。
「少し」
「さっきまで全然聞こえてなかったのに」
「今は分かった」
怪しい。
でも、フィアはそれ以上聞かなかった。
助かった。
「この向こう」
フィアが壁を見る。
「ルーメンじゃないかも」
背中が少し冷える。
「どういう意味?」
「そのまま」
「別の迷宮?」
「まだ分からない」
「でも?」
「空気。土。水。植物」
フィアが1つずつ挙げる。
「ルーメンにないものが多すぎる」
俺は壁を見る。
普通の石。
なのに、その向こうに水と土と植物があるかもしれない。
「……開ける?」
護衛が聞く。
フィアは首を横へ振った。
「今日はしない」
「なぜ?」
「帰る道を確認してない」
「ここまで来た道はあるだろ?」
「今は」
「今は?」
「帰る時も同じとは限らない」
あの穴を思い出す。
俺が通った道。
あとから消えた道。
フィアはそこまで知らない。
でも、考えていることは同じだった。
「一度戻る?」
「うん」
「せっかく見つけたのに?」
「見つけたから戻る」
「……なるほど」
見つけたから進む。
じゃない。
帰れることを確認してから進む。
この人は本当に。
最初から帰ることを考えている。
◇
帰り道。
フィアが先頭を歩く。
俺はその少し後ろ。
しばらく無言だった。
でも、やっぱり気になる。
「フィア」
「なに?」
「さっき」
「何」
「1人なら帰れたって」
「うん」
「それでも戻った」
「うん」
「なんで?」
少し長い沈黙。
「一緒に入ったから」
「それだけ?」
「それで十分」
それ以上は聞かなかった。
でも。
フィアは1人なら判断が速い。
1人なら逃げられる。
なのに、誰かと入れば全員で帰る。
だから1人が楽。
その言葉が、少し違って聞こえた。
◇
ギルドへ戻ると、ミナさんがすぐに俺を見る。
最初に右肩。
次に左足。
「怪我」
「増えてない」
「痛み」
「ない」
「走った?」
「走ってない」
「戦った?」
「してない」
ミナさんが満足そうに頷く。
「よし」
「そこからなんだ」
「そこが一番大事」
少し笑う。
「おかえり」
「ただいま」
フィアはもう気にしなくなったらしく、そのまま受付へ向かう。
「新しい痕跡を確認した」
ミナさんの表情が仕事のものへ変わる。
「内容をお願いします」
「未帰還者と思われる足跡。歩行癖が一致。黄土色の砂。壁際の湿気。土の匂い。それから生きた植物の根」
ミナさんの手が止まる。
「生きた植物?」
「うん」
「ルーメン迷宮内で?」
「少なくとも、私は見たことない」
「他には?」
「水音」
「壁の向こうから?」
「たぶん」
ミナさんが記録へ書き込む。
「結論は?」
フィアは少し考えた。
「まだ分からない。ただ、壁の向こうに今のルーメンとは違う環境がある可能性は高い」
ミナさんが俺を見る。
「ルカは?」
「同じ」
「根拠は?」
「俺には風も匂いもほとんど分からなかった。でも、フィアが見つけたものがルーメンにないものばっかりだった」
少し考えて続ける。
「それと、無理に壁を開けなかった」
「なぜ?」
「帰る道を先に確認するため」
フィアが短く頷く。
「正しいと思う」
ミナさんが少し安心したように息を吐く。
「じゃあ次は?」
フィアが地図を広げた。
「戻れることを確認してから、ここの先を調べる」
「ルカは?」
ミナさんが俺を見る。
「行く」
「フィアさん?」
フィアは俺の肩、足、それから目を見る。
「条件付き」
「また?」
「私が危険って言ったら止まる」
「うん」
「戻るって言ったら戻る」
「うん」
「自分で判断しない」
そこだけ引っかかった。
「それは無理」
フィアの眉が動く。
「なんで?」
「フィアが全部決めたら、フィアだけが責任持つことになる」
「……」
「だから、どっちが危険か。何が見えたか。それを教えて」
「その後は?」
「俺も考える」
「判断が遅くなる」
「全部任せるよりはいい」
「なんで?」
「一緒に入るから」
さっきフィアが言った言葉。
「一緒に入るなら、判断も一緒でいいだろ」
フィアはしばらく黙っていた。
そのあと。
「……変な人」
「またそれ?」
「でも」
地図を畳む。
「分かった」
ミナさんが横で少し笑っている。
「いい感じじゃん」
「何が?」
「別に」
絶対何か思ってる。
でも今は聞かない。
壁の向こう。
水。
土。
植物。
今までのルーメン迷宮にはなかったもの。
明日。
その先を見る。
でも今度は。
進むことより。
帰ることを先に決めてから。




