第21話 灰牙狼を倒した少年
右肩を上げると、まだ痛む。
治療院を出てから3日。傷そのものは塞がり始めているらしいが、だからといって元通りになったわけじゃない。腕を水平より少し上まで持ち上げたところで、肩の奥が引っ張られるように痛んだ。
「……っ」
『だから上げるなっつってんだろ』
窓際に立つベルが、呆れたように腕を組んでいる。もちろん、俺にしか見えていない。
「どこまで動くか確認しただけだよ」
『昨日も同じこと言ってただろうが』
『一昨日も』
ベッド脇の椅子に座ったクロまで加わった。
「覚えてたんだ」
『覚えてる』
『そこじゃねえだろ』
ベルの声を無視して、ゆっくり腕を下ろす。
左足首にもまだ鈍い痛みが残っていた。普通に歩くだけなら問題ない。でも、強く踏み込めばすぐ分かる。
迷宮へ戻れる状態じゃない。
治療師から言い渡された「最低1週間、探索禁止」は、どう考えても正しかった。
分かってはいる。
分かっているんだけど、何もしないで部屋にいるというのは、思っていたより落ち着かなかった。
『休むのも仕事だ』
クロが言った。
「誰に教わったの、それ」
『治療師』
「聞いてたのか」
『3回言ってた』
思わず黙る。
『ハッハッハ! 小僧、完全に見張られてんな!』
「ベルも人のこと言えないだろ」
笑った拍子に右脇腹まで少し痛んだ。
まだあちこち治りきっていない。灰牙狼と戦った時には気づかなかった小さな打撲まで、地上へ戻ってから順番に主張を始めている。
あの時は、痛いかどうかなんて考える余裕もなかった。
逃げる。
生きる。
3人で帰る。
それだけだった。
そして、本当に帰ってきた。
俺は机の上に置いたギルドタグへ目を落とした。
刻まれている数字は、今も変わらない。
レベル3。
何度見ても、そこだけ知らない誰かのタグみたいに見える。
◇
昼前。
宿にこもっているのにも限界が来て、俺はギルドへ向かった。
もちろん依頼を受けるためじゃない。治療師に見つかったら、今度こそ本気で怒られる。
歩く速度もいつもより遅い。右肩には荷物を掛けず、ベルも今は左手で持っている。
『俺様は自分で歩ける身体が欲しいぞ』
「それができたら助かるんだけどな」
『だろ?』
『盾は歩かない』
『夢がねえな、お前は!』
通りを行き交う人の声に紛れるように、2人の声が頭の中へ届く。
少し前までなら、こんなやり取りをしながら街を歩く自分なんて想像もできなかった。
ギルドの扉を開ける。
昼前だからか、依頼掲示板の前にはそれほど人がいない。受付へ向かおうとしたところで、横から聞き慣れない声が飛んできた。
「おい、あいつじゃないか?」
足が止まる。
「どいつ?」
「ほら。灰牙狼を倒したっていうF級」
俺は一瞬、周囲を見た。
それから、自分のことだと気づいた。
『小僧、お前だぞ』
「分かってる」
小声で返す。
離れたテーブルに、3人組の冒険者が座っていた。全員、俺より少し年上に見える。
「マジで? あれが?」
「そうらしい。3階で遭遇して、生きて帰ったんだと」
「3階に灰牙狼って話がまずおかしくねえか?」
「だから調査が入ったんだろ」
別に聞き耳を立てたつもりはない。
向こうの声が大きいだけだ。
そのまま受付へ歩こうとした。
「でも、あの盾と剣だろ?」
足が、少しだけ鈍る。
「古い武器を拾ったってやつ?」
「ああ。灰牙狼を倒せたのも、それが強かったからじゃねえの」
笑い声。
「F級が普通に倒せるわけねえもんな」
その言葉だけは、妙にはっきり聞こえた。
俺はベルの取っ手を握り直した。
『殴るか?』
「殴らない」
『冗談だ』
『半分、本気』
『クロ!?』
少しだけ、肩の力が抜けた。
言われていることは、間違っていない。
ベルがいなければ、最初の突進で終わっていた。
クロがいなければ、最後の一撃は届かなかった。
短槍だけでも無理だった。
壁だけでも無理だった。
俺1人では、灰牙狼には勝てなかった。
そこまでは事実だ。
以前の俺なら、その後にもう1つ付け足していたと思う。
だから、俺は何もしていない。
でも。
今は少し違う。
灰牙狼の跳び方を見たのは俺だ。
壁の亀裂を使おうと考えたのも俺だ。
ベルが作った道へ踏み込み、クロの『今』を信じて剣を突き出したのも。
俺だ。
ベルとクロだけでは勝てなかった。
俺1人でも勝てなかった。
3人だったから、勝てた。
それでいい。
『何笑ってんだ?』
ベルに言われて、初めて自分の口元が少し緩んでいたことに気づいた。
「別に」
そのまま受付へ向かった。
◇
「ルカさん。今日はどうされました?」
顔見知りの職員が、俺を見るなり右肩へ視線を落とした。
「依頼じゃないです」
「本当ですね?」
「信用ないな……」
「治療院から連絡を受けていますので」
完全に包囲されていた。
「様子を見に来ただけです。迷宮の調査、何か分かったのかなって」
職員の表情が少し曇った。
「例の場所については、現在も調査中です。ただ、今のところ新しい発見はありません」
「やっぱり、穴は?」
「確認できていません」
分かっていた答えだった。
3階。
崩れた床。
地図にない空間。
ベルとクロが眠っていた場所。
俺たちが確かに通ったはずなのに、調査隊は入口すら見つけられていない。
「灰牙狼については?」
「魔石の鑑定は終了しています。成体の灰牙狼で間違いありません。討伐記録も正式に登録されています」
それだけは、消えていない。
机の端に置かれた書類へ目を落とす。
灰牙狼討伐。
討伐者、ルカ。
実際には3人なのに、記録上の名前は俺だけだ。
『俺様の名前も書け』
「無理だろ」
「何か?」
「あ、いえ」
危ない。
職員が首を傾げた。
「そういえば、最近はルカさんの話を聞きに来る方もいますよ」
「俺の?」
「灰牙狼を倒したF級冒険者がいる、と」
嬉しいような、居心地が悪いような。
どう反応していいか分からない。
「さっきも聞きました」
「ああ……」
職員は苦笑した。
「噂というものは、事実だけ広がるとは限りませんから」
たしかに。
俺が突然すごい力を手に入れたとか。
古代の武器が勝手に灰牙狼を倒したとか。
実は高位冒険者が一緒にいたとか。
いくつか聞こえてきた。
どれも微妙に違う。
でも、完全に笑えない話でもない。
「俺も、まだよく分かってないですから」
レベル1だった俺が、灰牙狼を倒した。
そのあと、レベル3になった。
測定晶は正常。
再測定しても3。
理由は分からない。
灰牙狼を倒したから。
そう考えるのが、一番自然だった。
でも、本当にそれだけなのか。
普通の魔物を何百体倒しても動かなかった数字が、あの1体だけで2つも上がった。
『考えても答えは出ねえぞ』
ベルの声。
「分かってる」
『顔に出てる』
クロにも言われた。
俺は小さく息を吐いた。
◇
ギルドの壁際には、大きな掲示板がある。
依頼ではなく、迷宮内の注意事項や調査情報を張り出すためのものだ。
何気なくそこへ目を向けた。
昨日まではなかった紙が、何枚か増えている。
「……帰還遅延?」
小さく読む。
ルーメン迷宮へ入った冒険者が、予定時刻を過ぎても戻っていない。
珍しいことではない。
探索が長引くこともある。
怪我で歩く速度が落ちることも。
迷宮内で休憩を取って、そのまま予定を変更する者だっている。
俺だって、少し前までならそう思った。
でも。
「これ、昨日の件ですか?」
職員へ尋ねる。
「ええ。昨夜報告された方です。まだ失踪扱いではありません。捜索対象として確認を進めています」
「帰ってないんですか」
「今朝の時点では」
胸の奥に、小さな引っかかりが残った。
灰牙狼。
消えた穴。
見つからない通路。
すぐ結びつけるのは違う。
そんな証拠はない。
「どの辺りです?」
「ルーメン迷宮の別区域です。ルカさんが落下した3階とは離れていますよ」
なら、関係ない。
そう思おうとした。
その時、ギルドの扉が開いた。
「すみません!」
息を切らした男が、受付へ駆け込んでくる。
「仲間が戻ってないんです!」
室内の視線が一斉に集まった。
職員がすぐ立ち上がる。
「落ち着いてください。お名前と、入った区域を」
「昨日の昼です。3人で入って、俺だけ途中で先に戻ったんです。でも、あいつらがまだ……!」
昨日。
今度は2人。
俺は掲示板を見る。
貼られている帰還遅延は、1件。
今、増えた。
『ルカ』
クロの声が届いた。
「うん」
まだ何も分からない。
偶然かもしれない。
迷宮では、帰還が遅れることくらいある。
それでも。
俺は、掲示板から目を離せなかった。
灰牙狼を倒して。
レベルが3になって。
ほんの少しだけ、前へ進めたと思った。
そして同時に、頭の隅には別の考えもあった。
もし。
灰牙狼より強い相手を倒したら。
また、数字は動くんだろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、自分でも嫌になるくらい胸が高鳴った。
強くなりたい。
ロゼと交わした約束に、少しでも近づきたい。
だから。
また格上と戦えば。
「……違う」
『何が?』
クロが聞く。
「何でもない」
俺は掲示板から視線を外した。
今はまだ、肩もまともに動かせない。
迷宮へ入ることさえ禁止されている。
なのに、そんなことを考えている場合じゃない。
受付では、職員たちが慌ただしく動き始めていた。
帰還遅延。
1件。
そして、もう1件。
それだけなら。
まだ、よくある話だった。




