第18話 今
『……まだ』
クロの声を聞いて、俺は動かなかった。
灰牙狼の身体はすでに宙にある。ベルの上を越え、そのまま右側の壁へ向かっている。
そこには、短槍を固定した亀裂がある。
俺にはもう、黒剣を振れば届きそうに見えた。
それでも。
振らない。
クロが見ると言った。
なら、待つ。
灰牙狼の前脚が壁へ伸びる。
短槍まで、あと少し。
あそこへ足を置けば、まともには蹴れない。姿勢が崩れる。その瞬間なら。
『……まだ』
もう1度。
クロは言った。
「分かった」
右肩が震えている。
ベルを支えているだけで、腕の奥が焼けるように痛い。それでも角度を変えない。
灰牙狼の足が壁へ近づく。
あと一瞬。
そう思った時。
灰牙狼の前脚が止まった。
「……え?」
足先が。
短槍のすぐ手前で、わずかにずれた。
踏まない。
灰牙狼は亀裂へ差し込まれた短槍を見ていた。
「気づいた……!」
完全には避けられない。
空中だ。
それでも灰牙狼は身体を捻り、前脚を短槍より上の壁へついた。
爪が石を削る。
ガリッ、と嫌な音。
蹴る。
短槍には引っかからない。
「外された!」
作戦を。
読まれたわけじゃない。
ただ。
前にはなかった邪魔な物を見つけて、避けた。
それだけ。
それだけで十分だった。
灰牙狼の軌道が、予定より高くなる。
黒剣の間合いから外れる。
『……まだ』
クロは動かない。
俺も。
動かない。
◇
完全に外された。
そう思った。
でも。
違った。
灰牙狼が壁を蹴った瞬間、後ろ脚が短槍の柄へ触れた。
ほんの少し。
カンッ、と乾いた音がする。
固定した柄が揺れる。
灰牙狼の身体も。
わずかに傾いた。
「……崩れた」
ほんの少しだけ。
予定していたほどじゃない。
それでも。
完全には避けられていない。
『来るぞ!』
ベル。
灰牙狼は俺の右側へ抜けようとしている。
高い。
遠い。
このままなら。
横を抜かれる。
黒剣を振っても届かない。
追う。
無理だ。
左足は、もうまともに踏み込めない。
右肩も。
ベルを動かすだけで限界に近い。
今までなら。
俺が何とかしようとしていた。
追う。
振る。
盾を動かす。
全部。
でも。
それじゃ間に合わない。
「ベル!」
『分かってる!』
返事が早かった。
「右!」
『俺様から見りゃ左だ!』
「どっちでもいい!」
『よくねえ!』
ベルが怒鳴る。
それでも。
俺たちは同時に動いた。
大盾を持ち上げる。
重い。
「っ……!」
右肩から力が抜けそうになる。
『もう少し下だ!』
「ここ?」
『違う! 角度だ!』
ベル自身は動けない。
でも。
盾として。
どこへ置けばいいかは、俺より分かっている。
俺は言われた通り、大盾を少しだけ内側へ傾ける。
灰牙狼が飛んでくる。
その進路へ。
真正面じゃない。
受け止めるためでもない。
逃げられる場所を。
1つ減らすために。
ベルの縁を差し込む。
◇
灰牙狼が気づいた。
空中で身体を捻る。
ベルを避けようとする。
でも。
壁を蹴った時に、短槍へ脚を触れている。
ほんの少し。
その小さなズレが残っていた。
いつもなら避けられる。
たぶん。
でも。
今は。
ベルの縁がそこにある。
灰牙狼の肩が、盾の端へ触れた。
ガッ。
完全に止まったわけじゃない。
弾き返したわけでもない。
ただ。
身体が浮いた。
回る。
灰色の毛。
牙。
開いた前脚。
ベルの黒い縁。
壁に残った短槍。
クロの刃。
全部が。
一瞬だけ。
はっきり見えた。
胸。
喉。
その間。
空いている。
今だ。
そう思った。
でも。
俺は動かなかった。
クロを見る。
クロは灰牙狼だけを見ている。
表情は変わらない。
何も言わない。
灰牙狼の身体が回る。
まだ高い。
まだ遠い。
落ちてくる。
少しずつ。
黒剣の間合いへ。
俺の呼吸が止まる。
一拍。
クロの唇が動いた。
『今』
◇
左足を踏み込んだ。
痛い。
そんなことは。
どうでもよかった。
1歩だけ。
それだけでいい。
右肩は上がらない。
だから。
振りかぶらない。
黒剣を低い位置から。
そのまま。
前へ。
灰牙狼の眼が俺を捉える。
身体を捻る。
避けようとする。
でも。
右にはベル。
左には壁。
後ろには短槍。
空中。
もう。
選べる場所が少ない。
クロの刃が。
喉と胸の間へ入った。
深く。
「っ……!」
手応え。
今までとは違う。
毛を裂いた感触じゃない。
皮膚。
肉。
その奥。
黒剣が止まる。
「入った……!」
灰牙狼が吠えた。
近い。
耳が痛むほど。
身体が暴れる。
「うわっ!」
黒剣ごと腕を持っていかれる。
『離さない!』
クロ。
「分かってる!」
柄を握る。
右肩が悲鳴を上げる。
指も。
腕も。
力が抜けそうになる。
灰牙狼の前脚が俺へ向く。
『させるか!』
ベルを前へ。
俺はほとんど動かせていない。
それでも。
ベルの縁が灰牙狼の身体へ食い込む。
逃げる方向を塞ぐ。
灰牙狼が暴れる。
盾へぶつかる。
壁へ爪を立てる。
黒剣がさらに深く入る。
『ルカ!』
「まだ……!」
左足が滑る。
膝が折れそうになる。
踏ん張る。
逃がさない。
ベル。
クロ。
俺。
3人で。
「帰るんだろ……!」
灰牙狼がもう1度吠えた。
声が。
途中で途切れた。
身体から。
力が抜ける。
重さだけが残る。
黒剣を握ったまま。
俺は動けなかった。
◇
静かだった。
荒い自分の呼吸だけが聞こえる。
灰牙狼の身体は、床に横たわっている。
動かない。
「……ベル」
『いる』
「クロ」
『いる』
それを聞いてから。
ようやく。
膝から力が抜けた。
「っ……」
その場に座り込む。
左足首が痛む。
右肩は。
もう感覚がよく分からない。
痛い。
熱い。
重い。
全部。
ベルも床へ下ろす。
大盾の下端が石へ当たり、鈍い音を立てた。
『……やった、か?』
ベルが灰牙狼を見る。
いつものベルなら。
もっと大声で言いそうなのに。
今は。
声が小さい。
クロが灰牙狼のそばへ寄る。
しゃがみ込む。
少し見て。
『動かない』
「……そっか」
勝った。
その言葉が。
すぐには頭へ入らなかった。
灰牙狼を倒した。
あれだけ速くて。
ベルを越えて。
何度もこっちの動きを変えさせた相手を。
俺が。
違う。
俺だけじゃない。
『見たか!』
ベルの声が少し戻る。
『最後の俺様の角度! あれがなけりゃ――』
『3人』
『……あ?』
クロがベルを見る。
『3人』
ベルが黙った。
俺も。
少しだけ笑った。
「そうだな」
『俺様も分かってたぞ!』
「今、完全に自分だけの手柄みたいに言ってたけど」
『気のせいだ!』
『違う』
『クロ!』
笑うと。
肩が痛んだ。
「っ……」
『笑ってる場合か小僧!』
「誰のせいだよ」
でも。
少しだけ。
息が楽になった。
◇
しばらく待ってから、灰牙狼へ近づいた。
本当に動かないことを、もう1度確認する。
黒剣を抜く。
血が落ちる。
クロの本体に大きな傷はない。
「大丈夫?」
『うん』
ベルを見る。
「ベルも?」
『俺様を誰だと思ってる』
「喋る盾」
『まだ言うか!』
「大丈夫そうだな」
灰牙狼の魔石を探す。
低位の魔物より時間がかかった。
身体も大きい。
傷ついた右腕では作業しづらい。
それでも。
どうにか取り出す。
「……大きい」
掌に収まりきらない。
ゴブリンの魔石とは比べものにならない大きさだった。
色も。
重さも。
違う。
『それがあいつのか?』
「ああ」
袋へ入れる。
重い。
でも。
持って帰る。
灰牙狼を倒した証拠になる。
ここに何がいたのか。
俺が口で説明するだけじゃない。
残せるものは。
残したい。
◇
短槍も回収する。
壁の亀裂から抜こうとして。
「……っ」
右肩に力が入らない。
『もう置いてけ』
ベル。
「さっき置いていかないって話したばっかりだろ」
『槍の話だ!』
「ああ」
少し笑う。
無理に持っていく必要はない。
でも。
杖代わりにはなる。
左足を考えると。
あった方がいい。
両手ではなく。
身体を使って少しずつ抜く。
石突きが外れた。
「よし」
『頑固だな』
「帰るため」
『なら仕方ねえ』
ベルも。
今度は何も言わなかった。
灯具を拾う。
火は弱い。
油もほとんどない。
急がないと。
でも。
走れない。
「……どうするかな」
立ち上がろうとする。
左足へ力を入れた瞬間。
「っ……」
また座り込む。
『無理すんな!』
「してない」
『してるだろ!』
「立とうとしただけ」
『それが無理なんだよ!』
「帰らないと」
分かっている。
身体は限界。
それでも。
ここに留まるわけにはいかない。
水も。
灯りも。
もう少ない。
俺は短槍を杖のように床へつく。
ベルを引き寄せる。
その時。
『……ルカ』
クロが言った。
「何?」
クロは灰牙狼が倒れていた奥を見ている。
『風』
「風?」
顔を上げる。
最初は分からなかった。
でも。
静かにしていると。
頬に。
ほんの少しだけ。
空気が触れた。
「……本当だ」
灰牙狼がいた先。
暗い通路の奥から。
空気が流れている。
地下の淀んだ空気とは違う。
少しだけ。
匂いが違った。
湿った石だけじゃない。
どこかへ。
抜けている。
俺は目を閉じる。
もう1度。
確かめる。
風は。
ある。
ベルの取っ手を握り直す。
短槍を床へつく。
クロを腰へ戻す。
「帰ろう」




