第15話 盾を越える獣
灰色の影が、壁を蹴った。
高い。
ベルより上。
さっきまで正面からぶつかってきた相手が、今度は最初から盾の上を狙っている。
『上』
クロの声。
俺は大盾を持ち上げた。
右肩が痛む。
それでも、上へ。
灰牙狼がベルの縁を越える。
「っ!」
身体を引く。
左足が遅れた。
爪が背中をかすめる。
服が裂け、熱い線が走った。
致命傷じゃない。
でも。
当たった。
ベルを構えていたのに。
『ルカ!』
「平気!」
振り返る。
灰牙狼はもう離れていた。
追撃してこない。
少し距離を取り、こちらを見ている。
まるで今の動きが通じるか、確かめただけみたいだった。
『次は上だ! もっと高く構えろ!』
「分かってる」
ベルを少し高めにする。
その分、前が見えにくくなる。
灰牙狼の脚しか見えない。
いや。
途中から、それすら隠れた。
「……見えない」
『見えなくていい! 来たら俺様が受ける!』
「それじゃ遅い」
言った瞬間。
灰牙狼が動いた。
『右だ!』
『左、来る』
「どっち……!」
身体が一瞬止まる。
右を見る。
いない。
フェイント。
左。
もう近い。
「くっ!」
ベルを振る。
重い。
右肩が思ったより上がらない。
盾の向きが変わる前に、灰牙狼の肩がぶつかった。
ドンッ!
「ぐっ!」
横へ弾かれる。
壁が近い。
避けられない。
背中からぶつかった。
息が抜ける。
『ルカ!』
「……まだ」
右腕を動かす。
痺れている。
でも、動く。
ベルも持てる。
たぶん。
まだ。
灰牙狼はまた離れていた。
正面へ来ない。
上。
横。
死角。
こっちの盾の向きを見て、その逆へ回る。
もう分かっている。
ベルの正面が硬いことも。
大きすぎて向きを変えるのに時間がかかることも。
俺の足が遅いことも。
『もっと前に出せ!』
「見えなくなる!」
『全部隠せ! 俺様が受ける!』
「それじゃ動けない!」
『傷つくよりましだろうが!』
「見えない方が危ない!」
ベルが言い返そうとした。
その途中。
『来る』
クロ。
右。
いや。
正面。
灰牙狼が低く走ってくる。
ベルを出す。
ぶつかる。
盾は耐える。
俺は耐えない。
「っ……!」
右肩から腕の先まで、衝撃が走った。
傷が開いた感覚がする。
指が一瞬、痺れた。
ベルの取っ手が滑る。
『おい!』
落とす。
そう思った。
左手を添える。
どうにか支える。
大盾の下端が床へ当たり、鈍い音を立てた。
『……俺様が受けてるのに』
ベルの声が小さい。
「俺も一緒に受けてる」
言ってから。
ベルが黙った。
大盾には傷らしい傷がない。
灰牙狼の牙も。
爪も。
体当たりも。
ベルにはほとんど効いていない。
でも。
持っている俺は違う。
盾が壊れなければ守れている。
そんな単純な話じゃない。
◇
灰牙狼がまた距離を取る。
俺は右肩を押さえた。
包帯に血が滲んでいる。
左足も、さっき壁へぶつかった時に踏ん張ったせいで痛みが強くなった。
走るのは無理。
踏み込むのも遅い。
『……来る』
クロ。
黒剣を握る。
「距離は?」
『一瞬』
灰牙狼が近づく。
『今』
踏み込む。
黒剣を振る。
空を切る。
「……遅い」
『……うん』
クロの声が少しだけ沈んだ。
「もう1回」
灰牙狼が回り込む。
右。
今度は見える。
『今』
振る。
届かない。
相手の毛先だけが揺れた。
『……遅い』
「分かってる」
責められているわけじゃない。
クロはただ事実を言っている。
でも。
分かっているからこそ、苦しい。
相手が間合いへ入る瞬間はある。
クロも見えている。
俺にも分かる。
身体だけが。
そこへ追いつかない。
◇
「広い場所は駄目だ」
『また狭いところへ行くのか?』
「少しでも速さを殺す」
周囲を見る。
左に細い通路。
奥は少し暗い。
幅は今いる場所より狭い。
あそこなら。
正面から来るしかない。
俺は身体の向きを変えた。
左足を引きずるようにして進む。
灰牙狼は追ってくる。
でも。
すぐには飛び込んでこない。
「……見てる」
『何をだ?』
「俺たちを」
たぶん。
次に何をするか。
狭い通路へ入る。
ベルを斜めに構える。
正面だけなら受けられる。
『来る』
灰牙狼が走る。
正面。
「今度こそ」
ベルを出す。
灰牙狼が直前で跳んだ。
「上!」
大盾を持ち上げる。
でも。
灰牙狼はそのまま越えない。
壁。
前脚が壁へ。
「……っ」
蹴った。
軌道が変わる。
斜め。
ベルの横。
「くそ!」
身体を捻る。
左足が耐えない。
膝が落ちる。
爪が脇腹をかすめた。
また浅い。
でも。
傷が増える。
灰牙狼は着地すると、すぐに離れる。
『壁を使ったぞ』
「見た」
狭い通路でも駄目。
壁を使えば方向を変えられる。
俺は奥を見る。
道が細くなっている。
崩れた石。
人1人なら通れそうな隙間。
普通なら抜けられるかもしれない。
今の左足とベルでは。
無理だ。
「……出口じゃない」
『戻るしかねえな』
戻る。
その先には灰牙狼。
脇道。
なし。
選べる場所が。
少しずつ減っていく。
◇
灰牙狼がまた壁際へ寄る。
さっきと同じ。
壁を使う。
そう思った。
「クロ」
『うん』
「次、壁を蹴る」
『……たぶん』
ベルを少し低く構える。
わざと上を空ける。
『おい、それじゃ越えられるぞ』
「分かってる」
灰牙狼が姿勢を落とす。
走る。
正面。
ベルを避ける。
跳ぶ。
壁。
さっきと同じ位置。
「今だ!」
ベルを少しだけ前へずらす。
灰牙狼が壁を蹴る。
軌道の先。
そこへ盾面を置く。
ドンッ!
「っ!」
灰牙狼がベルへぶつかった。
姿勢が崩れる。
床へ落ちる。
『今』
クロ。
右足を踏み込む。
左は使わない。
黒剣を振る。
今度は届いた。
灰色の毛が裂ける。
皮膚。
その下まで。
血が飛んだ。
「入った!」
灰牙狼が唸る。
すぐに跳び退く。
傷はさっきより深い。
それでも。
倒れない。
俺は息を整えながら、壁を見る。
「もう1回……」
同じ位置。
同じ壁。
同じ軌道。
使えば。
『来る』
灰牙狼が走る。
ベルを低く。
上を空ける。
跳ぶ。
「……違う」
壁へ行かない。
途中で身体を捻った。
着地。
反対側。
「もう使わない」
灰牙狼がこちらを見る。
学んだ。
さっきの1回で。
同じ手はもう通じない。
◇
右腕が重い。
ベルを持ち上げるだけで、肩の奥が痛む。
左足も。
さっきより体重をかけられなくなっている。
水も少ない。
息も上がっている。
クロは問題ない。
ベルも壊れていない。
俺だけが。
どんどん動けなくなる。
『……このままじゃ』
ベルが言った。
俺も分かってる。
『三人とも捕まるぞ』
「……」
周りを見る。
崩れた細道。
戻る道。
壁。
床。
逃げられる場所。
ない。
灰牙狼の低い唸り声が聞こえる。
近い。
まだ見えない。
でも。
すぐ来る。
ベルが俺を見る。
『ルカ』
「何?」
いつもの大声じゃない。
少しだけ。
間があった。
『俺様が残る』




