第14話 灰牙狼
2つの眼が、暗闇の中で止まっていた。
低い。
ゴブリンよりずっと低い位置。
でも、小さくはない。
灯具を少し上げる。
灰色の毛が見えた。
次に。
牙。
長い。
口元から覗いている。
四つ足。
狼型。
ただ。
俺が知っている狼系の魔物より、明らかに大きい。
肩の位置だけでも高い。
前脚も太い。
身体を低く落としているせいで余計に分かりにくいけど、立ち上がればかなりの大きさになる。
『ルカ』
クロの声が低い。
「分かってる」
ベルを持ち上げる。
右肩が痛む。
左足も。
それでも。
構えないわけにはいかない。
狼型の魔物は動かない。
じっと。
こっちを見ている。
逃げたゴブリンの血が。
少し先の床に残っている。
こいつがやったのか。
証拠はない。
でも。
そう考えた方が自然だった。
『来る』
クロが言った。
「どっち――」
言い終わる前に。
眼が消えた。
「っ!」
反射的にベルを上げる。
正面。
来ない。
『横!』
ベル。
身体ごと右へ向く。
その瞬間。
衝撃。
ドンッ!
「ぐっ……!」
大盾が鳴った。
ベルそのものは動かない。
でも。
俺は違う。
身体ごと横へ持っていかれた。
1歩。
2歩。
左足が滑る。
「っ……!」
壁へ肩がぶつかった。
右肩。
傷。
全部まとめて痛みが走る。
息が止まる。
『ルカ!』
「……いる」
返事をしながら前を見る。
いない。
どこだ。
次。
左。
違う。
後ろ。
違う。
『前』
クロ。
顔を上げる。
いた。
さっきより離れた場所。
もう止まっている。
「……見えなかった」
移動したのは分かる。
でも。
途中が見えなかった。
気づいた時には横から来ていた。
ベルで受けた。
それでも。
俺ごと飛ばされた。
『速えな』
ベルの声から、いつもの軽さが消えていた。
狼型の魔物がまた姿勢を落とす。
「来る」
『正面!』
ベルを前へ。
今度は見失わないようにする。
地面を蹴る。
速い。
でも。
今度は見えた。
「正面!」
大盾を合わせる。
激突。
さっきより強い。
「ぐっ!」
両腕が沈む。
右肩が熱い。
傷口の奥へ何かが食い込んだみたいに痛む。
それでも。
止めた。
『受けたぞ!』
「まだ!」
魔物がベルへ前脚をかけた。
一瞬。
身体が浮く。
『上』
クロ。
「っ!」
大盾を上へ。
狼型が飛んだ。
ベルの上。
そこを越えようとしている。
俺も後ろへ下がる。
左足。
遅い。
「くっ」
爪が服を裂いた。
脇腹。
浅い。
皮膚まで少し入っただけ。
それでも。
ベルを正面に構えていたのに。
傷ついた。
魔物は着地すると、そのまま離れた。
追撃しない。
もう1度。
距離を取る。
俺たちを見る。
「……学んでる?」
ベルの正面は硬い。
だから。
上へ来た。
偶然かもしれない。
でも。
そう考えた方がいい。
◇
狼型が低く唸る。
俺は大盾の端から相手を見る。
正面は強い。
速い。
ぶつかった時の重さも大きい。
それだけじゃない。
防がれたら、すぐに違う角度へ変える。
追おうとしても距離を取る。
黒剣の間合いへ入る瞬間はある。
でも。
一瞬すぎる。
「クロ、届く?」
『……一瞬』
「一瞬か」
それじゃ遅い。
俺が見て。
判断して。
踏み込んだ時には。
もういない。
狼型がまた動く。
『右』
クロ。
右へ。
ベルを出す。
来ない。
「……?」
『左!』
ベル。
反対。
身体を向ける。
もうそこにいる。
「速っ――」
爪。
大盾を滑り込ませる。
ガリッ。
爪が盾面を擦る。
俺はそのまま黒剣を振った。
『届く』
クロ。
遅い。
刃が空を切る。
狼型はもう下がっている。
「くそ……」
当てられない。
攻撃力とか。
剣の切れ味とか。
そんな話じゃない。
そもそも。
届かない。
俺は息を吐く。
右肩。
左足。
もう長くは持たない。
相手は。
まだ息すら乱れていない。
「無理だ」
『何がだ?』
「倒すのは無理」
言い切る。
「逃げる」
ベルが黙る。
クロも。
「三人で帰るって決めた」
ここで意地を張る理由はない。
勝てない。
なら。
離れる。
『……分かった』
クロ。
『追ってきたら俺様が受ける』
「頼む」
身体の向きを変える。
左足が痛い。
走れない。
でも。
行くしかない。
◇
狭い通路へ入る。
広い場所よりは。
あの速さを使いにくい。
そう思った。
『後ろ!』
ベル。
足音は聞こえない。
でも。
来てる。
クロが振り返る。
『速い』
「分かってる!」
壁際へ。
通路の角。
あそこまで行けば。
正面から来るしかない。
そう思った。
角を曲がる。
ベルを半分だけ出す。
待つ。
来る。
今度は正面。
『来るぞ!』
ベル。
衝撃に備える。
足。
腰。
肩。
全部。
構える。
狼型が飛び込んできた。
真正面。
「今!」
大盾を出す。
激突。
ドンッ!
重い。
でも。
今度は下がらない。
壁が近い。
ベルの角度を少しずらす。
狼型の身体が横へ流れた。
「っ……!」
そのまま。
壁。
ぶつかる。
鈍い音。
初めて。
姿勢が崩れた。
『今』
クロ。
身体が動く。
考える前に。
黒剣を振る。
刃が。
灰色の毛を裂いた。
浅い。
本当に浅い。
皮膚へ細い傷をつけただけ。
それでも。
血が出た。
「……入った」
狼型がこちらを見る。
さっきまでと。
目が違う。
低く。
唸る。
距離を取る。
すぐには来ない。
俺を見る。
ベルを見る。
クロを見る。
正確には。
黒剣を見る。
「……灰牙狼?」
口から出た。
灰色の毛。
牙。
大型の狼型。
それに。
この速さ。
聞いたことがある。
灰牙狼。
でも。
「こんな浅い場所にいる奴じゃないだろ……」
細かいことまでは思い出せない。
それでも。
ここに普通に出るような魔物じゃない。
それだけは分かる。
灰牙狼が1歩下がる。
さっきまで。
俺たちを獲物として見ていた。
たぶん。
今は。
少し違う。
警戒している。
『傷つけたからな』
ベルが言う。
「だからって勝てるとは限らない」
『分かっとる』
「離れるぞ」
今のうち。
ほんの少しでも。
距離を取る。
◇
歩く。
速くはない。
でも。
止まらない。
右肩は。
ベルを持ち上げるたびに痛む。
左足首も。
踏み込むたびにずきっとする。
息も上がっている。
『このままじゃ持たんぞ』
ベル。
「分かってる」
『もう少し休め』
「止まったら追いつかれる」
『もう追いつかれてる』
「……それも分かってる」
後ろを見る。
いない。
クロを見る。
「来る?」
『……来る』
「どこから?」
クロが少し黙る。
『分からない』
「足音は?」
『ない』
嫌な感じがする。
速い相手が。
音もなく。
見えない場所へ消えた。
俺は歩く速度を落とさず、上を見る。
天井。
高い。
壁。
ところどころ崩れている。
足場にできそうな出っ張りもある。
「……まさか」
その瞬間。
小石が落ちた。
上から。
「ベル!」
大盾を持ち上げる。
右肩が悲鳴を上げる。
それでも。
上へ。
灰色の影が。
壁を蹴った。
高い。
俺たちの頭より。
ベルより。
さらに上。
『上!』
クロ。
灰牙狼は。
盾へ向かっていない。
盾の上を。
越えようとしていた。




