第13話 帰るために
重い足音から離れるように、来た道を戻った。
走れない。
左足を踏み込むたびに足首が痛み、右肩もベルの重さがかかるたびに熱を持つ。急げば転ぶ。転べば、今度こそ立てなくなるかもしれない。
だから、速くではなく。
止まらずに進む。
『……まだ遠い』
クロが後ろを見ながら言った。
「分かるの?」
『少し』
「近づいてる?」
クロはしばらく暗闇を見つめる。
『……分からない』
「そっか」
それで十分だった。
少なくとも、すぐ後ろにはいない。
『あそこ』
ベルが声を抑えて言った。
前方の壁に、浅い窪みがある。
部屋と呼べるほど広くはない。入口も狭く、奥行きも数歩程度。
ただ。
入ってくる方向は1つしかなかった。
「少し止まる」
『大丈夫か?』
「大丈夫じゃなくなる前に止まる」
窪みの中へ入り、ベルを壁へ立てかける。
左腕から重さが消えた瞬間、思っていた以上に力が抜けた。
「……重い」
『俺様の存在感だ』
「今は普通に重さの話」
『分かっとるわ!』
いつもの声量に戻りかけたベルへ指を立てる。
「静かに」
『……おう』
素直だった。
◇
最初に右肩を見る。
服は大きく裂けていた。
血も止まっていない。
槍に切られた傷そのものより、何度もベルで攻撃を受けたせいで広がっている。
「これは……まずいな」
『深いのか?』
「自分じゃ見にくい」
左手で服をずらす。
痛い。
でも、右腕そのものは動く。
指も握れる。
肩も、ゆっくりなら上がる。
骨まではいってないと思う。
そう思いたかった。
水で布を濡らし、傷の周りを拭く。
「っ……!」
思わず息が止まった。
『痛い?』
クロが近くにしゃがんでいる。
「痛い」
『そう』
「そこはもう少し心配してくれてもいいんだけど」
クロが首を傾ける。
『……心配』
「今考えた?」
『分からない』
「だよな」
少しだけ笑う。
そのせいで肩が動いて、また痛んだ。
「笑うのも駄目か」
『何やってんだ小僧』
「俺もそう思う」
包帯を肩へ回す。
片手だと上手く巻けない。
歯で端を噛みながら締め、どうにか固定した。
次は左足。
靴を脱ぐ。
足首が腫れ始めていた。
「……こっちもだな」
ゆっくり動かす。
痛い。
でも、動く。
折れてはいない。
布を巻き、その上から細い紐で固定する。
さっき回収した短槍を手元へ引き寄せた。
『まだ持ってくのか?』
ベルが聞く。
「ああ」
黒剣を見る。
「クロだけじゃ届かない距離がある」
角笛を止められたのも、この短槍があったからだ。
武器として上手く使えるわけじゃない。
それでも。
長さがある。
床を調べることもできるし、今は杖代わりにもなる。
「使えるものは持っていく」
『それで荷物増やしてりゃ世話ねえぞ』
「だから確認する」
残っている物を並べる。
水。
少ない。
食料。
もっと少ない。
包帯も、かなり使った。
灯具の油も残りわずか。
火口箱。
地図。
短槍。
角笛。
ベル。
クロ。
「長くは動けないな」
『どのくらいだ?』
「分からない」
水も灯りも、正確に何時間持つかまでは分からない。
でも。
余裕がないことだけは分かる。
ここを調べる時間は終わった。
最初から調査に来たわけじゃないけど。
今はもう。
知らない場所を知ることより、帰る方がずっと大事だった。
◇
地図を開く。
余白には、ここへ落ちてから歩いた道を簡単に書き足してある。
完璧じゃない。
距離も正確じゃない。
それでも。
何もないよりはましだ。
「来た道を戻る」
『あのデカいのがいるぞ』
「同じ場所にいるとは限らない」
『いたら?』
「その時考える」
『雑だな』
「今ある情報じゃ、それ以上決められない」
進んだ先にも出口があるかもしれない。
でも、それはただの可能性だ。
一方で。
戻れば、少なくともベルとクロを見つけた部屋までの道は分かる。
落下地点にも近づける。
どちらを選ぶかなら。
知っている方だ。
「帰るために、戻る」
言ってから。
ベルへ手を伸ばす。
取っ手を握る。
「っ……」
右肩に力が入っただけで痛んだ。
『持ち方変えろ』
「え?」
『左で全部持つな。下を床につけろ』
言われた通り、大盾の下端を床へつける。
『少し傾けろ。そうだ』
引きずるように動かす。
音は出る。
でも。
腕へかかる重さはかなり減った。
「最初から言ってよ」
『俺様を地面に擦る発想がなかった』
「今は?」
『背に腹は代えられん』
「盾なのに?」
『細けえこと言うな!』
ベルの顔は少し不満そうだった。
それでも。
無理に持てとは言わない。
俺の肩を見て、ベルなりに考えたらしい。
黒剣は腰へ。
短槍は右手。
これなら歩ける。
速くは無理でも。
「クロ」
『何』
「行けそう?」
聞いてから、少し変な質問だったと思う。
クロの本体は俺が持っている。
人の姿のクロが疲れているようにも見えない。
それでも。
聞きたかった。
クロは俺を見る。
少し黙る。
『……一緒に行く』
「うん」
それだけだった。
命令を聞いてきたわけじゃない。
どちらへ行くかを尋ねたわけでもない。
クロが自分から言った。
ベルを見る。
『なんだ』
「いや」
『言え』
「何でもない」
『気になるだろうが!』
ベルも。
クロも。
さっきまで知らなかった相手だ。
本当に信用していいのかも、まだ分からない。
何者なのかすら分からない。
それでも。
ここまで来た。
2人がいなければ、ゴブリンには勝てなかった。
俺1人だったら。
たぶん。
とっくに動けなくなっていた。
「3人で帰る」
口にすると。
ベルが一瞬黙った。
クロも俺を見る。
「俺だけじゃない。ベルも、クロも」
『当たり前だ!』
ベルがすぐに答えた。
『俺様をこんな場所に放置する気だったらぶん殴るぞ!』
「触れないだろ」
『気合いで殴る!』
「無理だろ」
クロがベルを見る。
『……うるさい』
『いいところだっただろうが!』
少しだけ。
肩の力が抜けた。
痛みは消えない。
状況も良くなっていない。
それでも。
立てる。
「行こう」
◇
来た道を戻る。
短槍を杖代わりにしながら、左足へかかる負担を減らす。
ベルは引きずる。
完全には持ち上げない。
黒剣は腰。
灯具はできるだけ火を絞る。
歩く速度は遅かった。
それでも、さっきまでより身体は楽だった。
『右』
クロ。
「何?」
『石。大きい』
少し先を見る。
床から黒い石が突き出ている。
暗いままなら、引っかけていたかもしれない。
「ありがとう」
『……うん』
また進む。
『左、段差』
「分かった」
クロの言葉が少し変わっていた。
前は。
危険が近づいてから短く言うだけだった。
今は。
少し早い。
俺が何を知りたいのか。
ほんの少しだけ分かってきたのかもしれない。
こっちも。
クロの言葉を前より理解できる。
それだけで歩きやすかった。
◇
しばらく進むと。
床に血が落ちていた。
俺のものじゃない。
「……ゴブリン」
しゃがみ込む。
暗い色。
まだ完全には乾いていない。
血の跡は通路の奥へ続いていた。
逃げた2体。
そのどちらかだろうか。
足跡もある。
小さい。
乱れている。
走っている。
「こっちへ逃げたのか」
『さっきの奴らか?』
「たぶん」
跡を追う。
数歩。
十数歩。
途中で。
血の跡が急に増えた。
「……?」
壁に飛んでいる。
床にも。
でも。
死体はない。
足跡を見る。
ゴブリンのもの。
そのすぐ横。
何か別の跡。
大きい。
四つ足。
「獣……?」
俺は灯具を近づけた。
爪の跡。
深い。
ゴブリンの足跡を横切っている。
その先。
逃げていたはずの足跡が。
消えていた。
「……襲われた?」
返事はない。
ベルも黙っている。
クロが暗闇を見る。
『……静か』
確かに。
静かだった。
さっきまで遠くから聞こえていた重い足音も。
唸り声も。
今は聞こえない。
それが。
嫌だった。
「戻ろう」
小さく言う。
足跡を追う必要はない。
何が起きたのか確かめる必要も。
目的は。
帰ること。
身体の向きを変える。
その時。
暗闇の奥で。
何かが動いた。
「っ」
ベルを持ち上げる。
痛む肩を無視して前へ。
黒剣へ手をかける。
灯具を向ける。
何もいない。
いや。
いた。
遠い。
床に近い位置。
2つ。
目が光っている。
低い。
ゴブリンより、ずっと低い。
四つ足。
「……狼?」
身体は見えない。
目だけ。
暗闇の中に浮かんでいる。
『ルカ』
クロの声が小さくなる。
『……速い』
「何が?」
聞いた瞬間。
2つの眼が。
消えた。
「え?」
違う。
消えたんじゃない。
移動した。
次に見えた時には。
さっきより。
ずっと近くにいた。




