第12話 角笛
角笛の音が、地下へ伸びていった。
大きな音じゃない。ほんの短い一音だった。それなのに、黒い通路の奥へ吸い込まれ、何度も壁に返りながら遠ざかっていく。
俺は音が消えた先を見る。
「……何を呼んだ?」
『知るか! 残りを倒すぞ!』
『……逃げる』
クロの言葉に視線を戻す。
角笛を持ったゴブリンが、すでに後ろへ下がり始めていた。投石していたもう1体も、石を拾いながら同じ方向へ動いている。
こっちへ来ない。
戦う気がなくなったんじゃない。
知らせた。
だから逃げる。
「まずいな……」
何が来るのかは分からない。
同じゴブリンが増えるだけかもしれないし、もっと別の何かかもしれない。
分かるまで待つ理由はなかった。
『追うぞ!』
「2体ともじゃない」
『あ?』
「笛だ。もう1回鳴らされるのだけ止める」
角笛持ちは細い側道へ入ろうとしている。
距離はある。
「クロ、届く?」
『遠い』
黒剣じゃ無理だ。
走れば追いつけるかもしれない。でも、左手にはベルがある。さっきから腕も肩も重く、右肩の傷からはまだ血が流れている。
『俺様を置いて走れ!』
「無理」
『笛を止めるんだろうが!』
「投石が残ってる」
ベルを置けば速くなる。
その代わり、次の石をまともに受けるかもしれない。
それに。
角笛が何を呼んだのか、まだ分からない。
速く走るために守りを捨てる気にはなれなかった。
「このまま行く」
『なら急げ!』
角笛持ちが側道へ入った。
投石持ちも続く。
俺はベルを持ち直し、その後を追った。
◇
側道は狭かった。
床には崩れた石が散らばり、平らな場所の方が少ない。大盾を持ったまま全力で走れば、足を取られる。
それでも、歩いていたら笛に追いつけない。
速度を上げる。
『右!』
ベルの声。
顔を上げる。
投石持ちが振り返っていた。
「っ!」
石が飛んでくる。
頭じゃない。
胸。
ベルを寄せる。
ゴンッ!
「ぐっ……!」
大盾そのものはびくともしない。
でも、受けた衝撃は俺の腕へ返ってきた。
左手。
肘。
肩。
そして、支えようと力を入れた右肩へ。
「……っ!」
傷口が熱くなる。
一気に何かが流れた。
『ルカ!』
「止まるな!」
右肩を見る余裕はない。
ただ、さっきより血が増えたのは分かった。
投石持ちはまた石を拾う。
角笛持ちは先へ。
「まだ……!」
足元の瓦礫を避ける。
右。
左。
大きな石を跨ぐ。
その先で、投石持ちがもう1度振り返った。
『来る』
クロ。
今度はベルで受けない。
身体を左へ。
石が右側を抜ける。
「よし」
そのまま前へ出ようとして。
左足が、崩れた石の端へ乗った。
「っ!」
石が転がる。
足首が外側へ折れた。
痛みが走る。
「ぐ……!」
身体が傾く。
倒れる寸前でベルの下端を床へつき、どうにか踏みとどまった。
『おい!』
「大丈夫……」
左足を床へ戻す。
痛い。
でも、立てる。
体重をかけると、足首の奥がずきっとした。
走るのは。
かなり厳しい。
「最悪だな……」
前を見る。
距離が開いた。
角笛持ちが振り返り、また笛を口元へ上げている。
「もう1回……」
間に合わない。
黒剣では届かない。
走れない。
投げられるもの。
腰。
袋。
短剣。
違う。
床の先。
倒した槍持ちが使っていた短槍が、通路の端へ転がっていた。
「あれだ」
左足を引きずるようにして近づく。
ベルを床へ立て、短槍を拾う。
『投げんのか?』
「他に届かない」
短槍を握る。
重い。
投げ慣れてもいない。
角笛持ちの身体を狙う気はなかった。
そんな距離で当てられる自信もない。
狙うのは。
笛。
いや。
正確には、笛を持っている手の辺り。
「外れてもいい……構えさせなければ」
角笛が口へ近づく。
投石持ちもこちらを見る。
『石』
「今はいい」
『来る』
「分かってる」
短槍を肩へ引く。
右肩が痛む。
力が入らない。
それでも。
投げる。
「行けっ!」
短槍が真っ直ぐには飛ばなかった。
少し下がる。
外れた。
そう思った瞬間。
穂先ではなく、柄の部分が角笛持ちの手へぶつかった。
「ギャッ!」
角笛が落ちる。
石の床を跳ね、こちら側へ転がった。
「よし!」
『石!』
今度は避けられない。
ベルを上げる。
ゴンッ!
「っ……!」
右肩へ、また衝撃が走った。
傷口の奥まで引き裂かれたような痛み。
息が詰まる。
腕が一瞬、下がった。
『ルカ』
「まだ動く」
右手を握る。
指は動く。
黒剣も持てる。
でも。
さっきまでと同じじゃない。
右肩はもう、無理を続けていい状態じゃなかった。
◇
角笛を失ったゴブリンが、こちらを見た。
投石持ちも動きを止める。
俺は黒剣を抜く。
追いつける距離じゃない。
左足も痛む。
それでも、向こうが来るなら戦うしかない。
けれど。
2体は俺を見ていなかった。
「……?」
角笛持ちが、ゆっくり顔を横へ向ける。
さらに奥。
暗闇。
投石持ちも同じ場所を見る。
その顔から。
血の気が引いたように見えた。
「ギ……」
小さな声。
次の瞬間。
遠くから、別のゴブリンの鳴き声が聞こえた。
高い。
短い。
助けを呼ぶような声。
「増援……?」
ベルを構える。
でも。
声は途中で消えた。
不自然なくらい。
突然。
静かになる。
その後。
ドン。
低い音がした。
足音。
たぶん。
さっきまでのゴブリンとは違う。
ドン。
もう1度。
床から振動が伝わってくる。
『……なんだ?』
ベルの声が少し低くなる。
角笛持ちが後ずさった。
投石持ちも。
こっちじゃない。
奥を見ながら。
「こいつら……」
『……違う』
クロが呟く。
「何が?」
クロは暗闇から目を離さない。
『奥、嫌』
その直後。
低い唸り声が聞こえた。
遠い。
姿は見えない。
でも。
ゴブリン2体には、それだけで十分だったらしい。
「ギャッ!」
角笛持ちが走り出した。
さっきまで向かっていた側道じゃない。壁際の細い隙間へ飛び込む。
投石持ちも石を捨て、それを追った。
俺たちから逃げる時より。
速い。
『逃げるぞ!』
ベルが叫ぶ。
俺は追わなかった。
追えるかもしれない。
無理をすれば。
でも。
追ってどうする。
右肩から血が出ている。
左足首は踏み込むたびに痛む。
灯具の火も、もう強くない。
ここがどこなのかも分からない。
帰り道すら。
まだ見つかっていない。
そして。
暗闇の向こうには。
ゴブリンがあれだけ怯える何かがいる。
『……追わない?』
クロが聞いた。
「ああ」
『2体、残ってるぞ』
ベル。
「残ってていい」
『倒せるかもしれん』
「倒した後に、あれが来たら?」
ベルが黙る。
俺は黒剣を下ろした。
「もう十分だ」
5体いた。
3体倒した。
2体逃げた。
それでいい。
全部倒すためにここへ来たんじゃない。
「帰ろう」
その言葉を口にした時。
自分でも少し驚いた。
最初から。
ずっと。
目的はそれだったはずなのに。
ようやく、もう1度ちゃんと決め直した気がした。
◇
逃げる前に、床へ転がった角笛を拾う。
粗い作りだった。
骨か角を削り、中をくり抜いている。特別なものには見えない。
それでも持って帰る。
ゴブリンが笛を使った。
それは、俺が見たことだけじゃなく、物として残せる。
少し先に落ちた短槍も回収した。
『それも持つのか?』
「使えるものが少ないから」
自分の武器じゃない。
でも、長い物が1本あれば、床を調べるのにも使える。今の左足なら、杖代わりにもなるかもしれない。
灯具も拾う。
火は残っている。
ただし、油はかなり減っていた。
「……戻るぞ」
『どっちへだ?』
ベルに聞かれ、少し黙る。
帰り道はまだ分からない。
でも。
今いる場所に留まるよりはいい。
「来た方向」
短槍を床へつく。
左足へかかる体重が少し減った。
右肩を動かすと痛む。
ベルを持ち上げる。
「っ……」
重い。
さっきまでより、明らかに。
『無理すんな』
「無理しないと動かせないだろ」
『……少しずつでいい』
ベルにしては珍しく、声が小さかった。
クロが奥を見る。
じっと。
『……来る』
その言葉と同時に。
ドン。
足音。
今度は。
さっきより近い。
ドン。
もう1歩。
床がわずかに震える。
『……でかいな』
ベルの声から、さっきまでの勢いが消えた。
俺は暗闇を見ない。
見えるまで待たない。
「戻る」
身体の向きを変える。
左足が痛む。
右肩も。
それでも歩く。
後ろから。
低い唸り声が聞こえた。
逃げたゴブリンを追う理由は、もうなかった。
俺たちも。
同じものから逃げる側になった。




