第9話 クロ
左の通路へ入ってから、しばらく歩いた。
ベルを少し斜めに構え、灯具の明かりを前へ向ける。道幅はさっきまでより狭く、黒い壁が両側から迫っていた。
クロは俺のすぐ横を歩いている。
「まだ、嫌な感じはする?」
『……しない』
「そっか」
それきり、クロは黙った。
ベルなら何かしら言葉を続けるところだけど、クロは必要がなければ本当に喋らない。
足音だけが続く。
『なあ、小僧』
「何?」
『俺様、もう少し前でよくないか?』
「駄目」
『即答するな!』
「前に出しすぎると何も見えないんだよ」
『攻撃が来たらどうする!』
「来る前に気づける方が大事だろ」
『俺様が受ければ済む!』
「俺も一緒に衝撃を受けるって、さっき分かっただろ」
『……』
ベルが黙る。
少しだけ進歩したらしい。
横を見ると、クロがこっちを見ていた。
「どうした?」
『……別に』
視線が前へ戻る。
何だったんだろう。
◇
少し進んだところで、通路が広くなった。
壁際に大盾を下ろし、俺もその場へ座る。
「少し休む」
『もうか?』
「お前が重いからだよ」
『鍛え方が足りん』
「落ちた直後の人間に言うことか?」
『動けるなら問題ない!』
「問題ある」
右肩をゆっくり回す。
まだ痛む。
動かせないほどじゃないけど、大盾を持ち続けていると負担が溜まっていくのが分かった。
水を少しだけ飲み、息を整える。
その間。
壁へ立てかけた黒剣が目に入った。
「……クロ」
『何』
「これ、少し持ってみてもいい?」
黒剣を指す。
『うん』
柄を握る。
冷たい。
ゆっくり持ち上げてみた。
やっぱり、不思議なくらい手には馴染む。
だからといって軽いわけじゃない。腕へはちゃんと重さがかかるし、剣そのものが勝手に動くこともない。
構えてみる。
剣なんて、まともに習ったことはない。
短剣なら迷宮で何度も使っているけど、それとは長さも重心も違う。
軽く前へ振った。
「うわっ」
刃先が思っていたより遠くへ流れる。
慌てて止めた。
『下手』
「分かってるよ」
『力、入りすぎ』
「じゃあ、どうすればいい?」
クロは俺の手元を見る。
『……少し下』
「こう?」
『違う』
「こっち?」
『……そこ』
握る位置をほんの少し変える。
さっきより収まりがよくなった。
「剣の使い方、覚えてるの?」
『分からない』
「でも、これは分かるんだ」
『うん』
俺はもう1度構える。
今度は振らず、刃先の位置だけを見る。
「この距離なら届く?」
『届かない』
半歩前へ出る。
「ここは?」
『届く』
もう半歩下がる。
「これは?」
『届かない』
答えが早い。
クロは考えていなかった。
少なくとも、そう見えた。
「距離は分かるんだな」
『……分かる』
「どうやって?」
クロが黒剣を見る。
しばらく黙ってから、自分の胸元へ手を当てた。
『知ってる』
「思い出した?」
『違う』
短い返事。
それ以上は続かなかった。
映像を思い出したわけでも、誰かから教わった記憶が戻ったわけでもないらしい。
ただ。
距離だけは身体のどこかに残っている。
そんな感じだった。
◇
休憩を終えて、また歩き始める。
しばらくすると、通路が3つに分かれた。
正面。
左。
右。
どれも似ている。
灯りを床へ向けるが、足跡らしいものはない。風もほとんど感じなかった。
『正面だな』
ベルが言う。
「理由は?」
『まっすぐだからだ』
「それだけ?」
『十分だろうが!』
「十分じゃない」
『なんでだ!』
「迷ってる時に、真っ直ぐだから正解なんて決まりはないだろ」
『分かりやすいぞ』
「分かりやすさと安全は別」
ベルが腕を組む。
俺はクロを見る。
「クロはどう思う?」
『……』
「どっちがいい?」
クロが3つの道を見る。
正面。
左。
右。
もう1度、正面。
『分からない』
「何も感じない?」
『……うん』
「そっか」
俺が頷くと、クロがこちらを見る。
『命令を』
あの言葉。
まただ。
「命令じゃなくて、クロがどう思うか聞いてる」
『……』
「分からないなら、分からないでいいよ」
クロは少しだけ目を伏せた。
『分からない』
「うん」
それ以上は聞かなかった。
今のクロに、無理やり答えを出させても仕方ない。
俺も分からない。
ベルも、たぶん分かっていない。
『たぶんとは何だ!』
「声に出してないぞ」
『顔に書いてある!』
「便利だな、お前」
『俺様だからな!』
意味は分からない。
俺は3つの道をもう1度見る。
「まず左を見る」
『なぜだ』
「一番狭いから」
『狭い方がいいのか?』
「魔物がいた時、横から回り込まれにくい」
『なるほど』
「危なそうなら戻る」
大盾を持ち直す。
クロも何も言わず、ついてきた。
◇
左の通路は、少しずつ下っていた。
壁を走っていた白い線も減り、代わりに床へ細い傷が増えていく。
何かを引きずったような跡だった。
「……何だこれ」
灯具を近づける。
1本じゃない。
何度も。
同じ場所を何かが通ったように、傷が重なっていた。
クロが止まる。
「クロ?」
『……』
返事がない。
床の傷を見ている。
「何か分かる?」
『分からない』
いつもの答えだった。
でも、動かない。
「嫌な感じ?」
クロの眉が、ほんの少しだけ寄る。
『……嫌』
「何が?」
『これ』
床の傷を見る。
俺にはただの引っかき傷にしか見えない。
「見たことがある?」
『分からない』
「思い出した?」
『違う』
クロが胸元へ手を置く。
『……嫌い』
それだけ。
理由は言わない。
たぶん。
言えないんだと思う。
記憶じゃない。
でも、何も残っていないわけでもない。
「戻ろう」
『いいのか?』
ベルが聞く。
「進む理由がない」
『敵がいるとは限らんぞ』
「いなくてもいい」
俺は引き返す。
「目的は帰ることだから」
ベルは何も言わなかった。
クロも。
ただ、来た時より少しだけ俺の近くを歩いていた。
◇
3つの分岐へ戻る。
残るのは正面か右。
「次は……」
そこで。
クロが右を見た。
しばらく動かない。
「クロ?」
『……右』
「え?」
『右』
今度は、はっきり聞こえた。
「何か感じる?」
『……分からない』
「嫌な感じは?」
『ない』
「じゃあ、どうして右?」
クロが黙る。
視線だけが、右の通路へ向いている。
『……こっち』
理由にはなっていない。
でも。
さっきとは違った。
俺が聞いたから答えたんじゃない。
命令を待ったわけでもない。
クロが、自分から言った。
「分かった」
『おい』
ベルが口を挟む。
『それで決めるのか?』
「うん」
『理由ないぞ』
「俺たちにもないだろ」
『俺様は正面だ!』
「真っ直ぐだから?」
『そうだ!』
「じゃあクロの右を試す」
『俺様の扱い!』
「危なかったら戻ればいい」
俺は右の通路へ入る。
クロが少し遅れて、隣へ来た。
表情は変わらない。
でも。
さっきより歩幅が少しだけ大きくなった気がした。
◇
右の通路は、緩やかに上っていた。
しばらく進むと。
頬に何かが触れた。
「……風?」
弱い。
気のせいと言われれば、それまでくらいの風。
でも。
止まっていた空気が、ほんの少し動いている。
『当たりか?』
「まだ分からない」
外へ繋がっているかもしれない。
別の場所へ続いているだけかもしれない。
期待はしない。
ただ。
さっきより進む理由はある。
大盾を持ち直し、そのまま坂を上る。
角が見えた。
その手前で。
クロが止まった。
『ルカ』
「何?」
『……いる』
声が低い。
俺も止まる。
「どこ?」
『前』
「何体?」
クロが暗闇を見つめる。
『2体』
耳を澄ます。
少し遅れて。
足音が聞こえた。
カツ。
カツ。
それと。
喉の奥で鳴らすような、低い声。
灯具の明かりを隠し、壁際から先を覗く。
いた。
小柄な人影が2つ。
緑色の肌。
ゴブリン。
先頭の1体は短い刃物を持っている。
もう1体は、その少し後ろ。
こっちへ向かって歩いてくる。
左右に道はない。
後ろへ戻るには、距離が近すぎる。
俺はベルの取っ手を握り直した。
もう片方の手を、黒剣の柄へ伸ばす。
『来るぞ』
ベルが言う。
クロは2体から目を離さない。
『……近い』
次の瞬間。
先頭のゴブリンが、こちらを見た。




