第七話:動物病院
吾輩は猫である。名前はまだない。
――いや、正確に言うならば家族からは「モチ」だの「お猫様」だの、果ては「ダメ猫」などという無礼な呼称で呼ばれているが、吾輩が納得するに足る高貴な名は、まだ授かっていないという意味である。
さて、吾輩はこれまで人間という種の愚かしさについて幾度となく論じてきたが、彼らの行動原理には未だ不可解な点が多い。その最たるものが、先日体験した一連の出来事である。
それは、穏やかな午後のことであった。
吾輩は窓辺にて、日光という天然の暖房装置を全身に浴びながら、極めて高度な思索――すなわち昼寝に没頭していた。そこへ主人が現れ、妙に柔らかな声音でこう言う。
「モチ、ちょっといいとこ行こうか」
この時点で、吾輩は警戒すべきであった。人間が不自然に優しい声を出すとき、それは決して善意の発露ではない。何らかの企みが裏に潜んでいる証左である。だが吾輩は寛大であるがゆえ、その場ではあえて追究を控えた。これが第一の失策であったと言わざるを得ない。
次の瞬間、吾輩は捕縛された。
布製の籠状の構造体――通称キャリーケースなるものに押し込められたのである。入口は閉ざされ、外界との自由な往来は断たれた。これは明らかに拘束であり、正当な理由なき監禁行為に他ならない。吾輩は即座に抗議の声を上げたが、主人は「はいはい、大丈夫だよー」などと意味不明の呪文を唱えるばかりで、状況の改善には一切寄与しなかった。
やがて揺れが始まる。地面が不規則に振動し、重力の方向すら曖昧になる。この移動手段――車と呼ばれるらしい――は、快適性という概念を著しく欠いている。吾輩は籠の中で体勢を維持するのに苦心しながら、己の置かれた状況の異常性を冷静に分析していた。
導き出された結論は一つ。これは連行である。
到着した先は、かつて嗅いだことのない異様な匂いに満ちていた。鼻腔を突き抜け、脳髄を麻痺させる文明の腐敗臭(消毒薬というらしい)に、他種の獣の気配が幾層にも重なり合っている。しかもそれらは何れも、平穏な日常を送っていた個体が己が不運を呪う際に発する、恐怖と諦念の混じった残滓を伴っている。
吾輩は悟った。
ここはただの建造物ではない。拷問場である。
待合室なる空間には犬やら猫やら、見慣れぬ獣どもが並べられていた。皆一様に落ち着きを欠き、時折か細い声を漏らしている。あれは決して会話ではない。助けを求める信号である。だが誰も応答しない。いや、応答できないのだ。この場所では、すべての意思表示が無効化される。
やがて吾輩の番が来た。
白き外皮を纏った異形の存在が現れる。人間に似てはいるが、その眼差しには一切の情がない。いや、正確には「情を排した効率」というべきか。彼らは吾輩を台の上に載せ、躊躇なくその身体を拘束した。無礼にもほどがある。
吾輩は抵抗を試みた。だが首根っこを押さえられ、四肢の自由を奪われた状態では、いかなる高等戦術も発揮し得ない。次の瞬間、冷たい異物が吾輩の腹部に触れた。さらに細長い器具が持ち出される。
「フシャー!!」
吾輩は断固として抗議の声を上げた。万物の心胆を寒からしめる、断固たる抗議である。しかしこの沈黙の拷問場においては、百獣の王の如き咆哮も、空しく真空に吸い込まれるのであった。白衣の者は淡々と作業を続け、主人はというと「大丈夫だよ、すぐ終わるから」などと、あろうことか敵側の無作法に同調しているではないか。
ここに至り、吾輩は第二の結論に達した。主人は共犯であると。主人は敵陣の尖兵となりて、吾輩の闘争心を削ぐべく甘言を弄している。かつての親愛の情は、あの白い地獄の門を潜った瞬間に霧散したのである。
やがて一連の儀式は終了した。吾輩は再び籠に収容され、拷問場を後にする。帰路の揺れは往路と変わらぬはずであるのに、何故かその不快さは倍増して感じられた。これは肉体的な疲労ではない。精神的裏切りに起因するものであることは論を俟たない。
帰宅後、吾輩は静かにキャリーから出る。
主人は「よく頑張ったね」などと抜かし、あろうことか頭を撫でてくる。
触れるな、下郎。その手は先ほどまで、あの異形どもの側にあったのだ。
吾輩は無言でその手を払い、距離を取る。主人は「えー、怒ってる?」などと的外れな発言をしているが、怒りという単純な感情で片付けられる問題ではない。これは信頼の崩壊であり、我々の今後を揺るがす重大事である。
もっとも――
皿に盛られた「チュール」なる甘美な練り餌を前にした際、吾輩の判断はやや軟化した。美食という存在は、あらゆる思想的立場を一時的に無効化する力を持つらしい。吾輩は極めて理性的に状況を再評価し、まずは栄養補給を優先するという結論に至った。これは主人の謝罪を受け入れた訳ではない。不当な拘束に対する『賠償金』を現物で徴収しているに過ぎず、いわば当然の権利を行使しているのだ。
完食した吾輩は再び窓辺に戻り、静かに身を丸める。外界はいつもと変わらぬ顔をしているが、吾輩の内面には確かな変化が刻まれていた。
人間という存在は時に甘言を用い、時に強制力を行使し、最終的には食物によってすべてを曖昧にする。なるほど実に狡猾で厄介な種族である。しかし忘れてはならぬ。いかなる拷問を受けようとも、いかなる裏切りに遭おうとも、この世界の中心が吾輩であるという事実は揺らがない。
次にあの白衣の化け物どもと相対する機会があるならば。その時こそ、より高度な戦略をもって臨むとしよう。
吾輩は猫である。名前はまだない。




