第五話:紙袋
吾輩は猫である。名前はまだない。
――いや、正確に言うならば家族からは「モチ」だの「お猫様」だの、果ては「ダメ猫」などという無礼な呼称で呼ばれているが、吾輩が納得するに足る高貴な名は、まだ授かっていないという意味である。
さて、吾輩の生活は多忙を極めるが、その中でも特筆すべきは「安息の地の確保」という極めて重要な任務である。外界は騒音と光と不規則な動作に満ちており、かかる環境下で精神の均衡を保つには、完全に隔絶された空間が必要不可欠である。ゆえに吾輩は日々、その条件を満たす場を探索し続けているのだ。
そして先日、ついに理想的な空間を発見した。
それは某百貨店の紋を戴いた、茶褐色の紙袋であった。
一見すればただの容器に過ぎぬが、その実、あれは極めて優れた構造体である。厚手の紙質は外圧を撥ね退けるに十分な剛性を備え、内部には微かに贈答用菓子の残り香という高雅な来歴まで刻まれている。適度な暗がり、外界との視覚的遮断、そして内部に満ちるほのかな匂い。しかも入口は一箇所に限定されており、防御の観点から見ても申し分がない。吾輩は一瞥した瞬間に、ここが新たなる領域として相応しいことを理解した。
音もなく接近し、慎重に頭部を差し入れる。
次いで前肢、胴体、そして尾。
――侵入完了である。
袋の内側は外界の喧騒から完全に切り離されていた。光は柔らかく減衰し、音はくぐもり、空間は吾輩の体温によって程よく満たされる。これはもはや単なる隠れ家ではない。外界から切り離された安息の地、すなわち吾輩の精神が最も安定するための装置に他ならない。
吾輩はゆっくりと体を丸め、その中心に己を据える。これにより空間の主権は完全に確立された。袋は今や、外界に属する物体ではない。吾輩という存在を中心として再編成された、新たな領域なのである。
だが、この完全なる均衡は、実に脆いものであった。
「モチ、何それ。かわいいじゃん」
主人の声が外界より侵入してくる。やがて袋の外側から、指先による軽微な圧力が加えられた。
ぐに。
袋の壁面がわずかに変形する。これは由々しき事態である。
『かわいい』などという浅薄な語で、吾輩の聖域侵犯を正当化しようとは片腹痛い。これは美学の問題であり、断じて愛玩の対象としての振る舞いではないのだ。
かかる状況においては、即時の対処が求められる。吾輩は内部から前肢を繰り出し、侵入してきた異物に対して適切な反撃を試みる。
ばしっ。
しかし敵は退かない。むしろ面白がって圧力を増してくるではないか。
ぐに、ぐに。
紙の繊維が悲鳴を上げるような感触が伝わる。構造体の限界が近い。にもかかわらず主人は手を引かない。なんという愚行であろうか。吾輩はさらなる反撃を決意し、全力でもって内側から応戦する。
がさり。
その瞬間であった。
――びりっ。
その音は、吾輩の耳底に安寧が両断される衝撃として響き、世界は裂けた。
外界の光が一挙に流れ込み、吾輩の住処は無惨にも崩壊したのである。紙袋はもはや袋としての機能を失い、ただの破片へと成り果てたのだ。完璧なる防壁は、主人の無遠慮な蛮行によって、回復不能な終焉へと追いやられたのである。
吾輩はゆっくりとその残骸から姿を現す。
主人は「あーあ、破れちゃった」と呑気な声を上げている。
何を言うか。これは明白なる破壊行為である。
そもそも、かかる事態を招いた原因はどこにあるのか。吾輩は極めて理性的に状況を分析する。袋は元来、外界からの干渉を前提として設計されてはいない。にもかかわらず主人は不用意に圧力を加え、その結果として構造体を破壊した。これは明らかに使用者側の過失であり、責任の所在は論を俟たない。
吾輩が防衛行動として適切な反応を取ったことについて、非難されるべき筋合いは、毛頭ないのである。むしろ問題は、かかる優れた空間資源を無理解のまま損壊させた主人の側にあると言わざるを得ない。
吾輩は尾を大きく振り、深い遺憾の意を表明する。
これほどまでに理想的な安息の地を喪失した事実は、誠に痛恨である。だが同時に、吾輩は学んだ。人間という存在は、優れた構造体を適切に扱うだけの知性を持ち合わせていないということを。
ならば吾輩が為すべきことは一つ。
新たなる安息の地を発見し、今度こそ人間の愚行から守り抜くことである。
―― あの紙袋に匹敵する聖域を。
吾輩は猫である。名前はまだない。




