第四話:洗濯物
吾輩は猫である。名前はまだない。
―― いや、正確に言うならば家族からは「モチ」だの「お猫様」だの、果ては「ダメ猫」などという無礼な呼称で呼ばれているが、吾輩が納得するに足る高貴な名は、まだ授かっていないという意味である。
さて。吾輩の職務は多岐にわたるが、その中でも特に重要視すべき任務の一つに「領土の再定義」というものがある。人間という種は奇妙なことに濡らした布を干し、乾いたそれをわざわざ室内へ取り込むという習性を持つ。そして彼らはその温もりを「仕舞う」などという暴挙に出る。これは由々しき問題である。温もりとはすなわち生命の徴であり、そこにこそ吾輩が介入すべき必然が存在するのだ。
その日、主人は外界より白く柔らかな布の群れを回収し、几帳面にも畳み始めた。四角く整えられた布の山は整然としてはいるが、同時に極めて無防備でもある。吾輩はその様を、床という低き次元から静かに観察していた。
まず重要なのは時機である。人間が「さあ、仕舞おう」と油断したその瞬間こそが、最も介入効果の高いタイミングに他ならない。吾輩は音もなく接近し、しなやかな跳躍でもってその頂へと到達した。
ふわり。
その感触はまさに至福と呼ぶに相応しい。太陽の残り香を帯びた布はほどよい温度と柔らかさを兼ね備え、吾輩の腹部を優しく受け止める。これは単なる休息ではない。吾輩はここにおいて、空間の主権を確立している。四角く整えられていた布は吾輩の体重と体温によってゆるやかに歪み、その幾何学的秩序を失っていく。だが、それこそが本来の姿なのだ。自然とは不定形であり、完全な直線などこの世には存在しない。
「ちょっと、モチ! どいてってば!」
主人が慌てて声を上げるが、吾輩は微動だにしない。むしろゆっくりと体を丸め、尻尾を顔の前へと持ってくることで、より安定した防御姿勢を取る。さらに吾輩は念には念を入れ、軽く身じろぎをする。するとどうだ。吾輩の毛皮から抜け落ちた数多の毛が、白き布の上に繊細に散布されていくではないか。これはいわば署名であり、不可逆的な所有権の刻印である。人間がいかに丹念にこれを除去しようとも、完全なる回収は不可能。この布はもはや吾輩の影響圏から逃れることはできぬのである。
「あーもう……また毛だらけじゃん……」
主人は肩を落としながら、粘着質の紙片(コロコロと呼ぶらしい)を取り出し、必死にそれを転がし始める。その姿は砂漠に水を撒く愚者にも似ている。努力は認めよう。結果は保証されぬがな。
吾輩は半眼でその様子を見下ろしながら、喉を低く鳴らす。人間はこれを満足の音と解釈するが、それは浅い。これは支配領域の安定を確認するための振動であり、同時に「ここは吾輩の場所である」という宣言に他ならない。
やがて主人は諦めたようにため息をつき「もういいや……いつものことだし……」と呟いた。勝敗は、この瞬間に決したのである。人間の秩序は再び瓦解し、吾輩の支配がこの空間に確立 ――すなわち、領土は再定義されたと言って良いであろう。
もっともその後「お仕置きじゃ!」などという報復宣言がなされたのち、吾輩の腹肉を揉みしだかれたことの次第は遺憾千万である。領土の確保という崇高な行為に対して労いの報酬どころか制裁を与えるとは、彼らの文明はやはり根本から歪んでいると言わざるを得ない。電光石火の如き爪撃でもってして、相応の報いを与えてやったが。
吾輩はたとえ不当な抑圧に晒されることになったとしても、この柔らかき布の上で得られる勝利の為とあらば、これからも人間の横暴に立ち向かうと誓おうではないか。
吾輩は猫である。名前はまだない。




