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吾輩は飼い猫である。名前はー  作者: めるのすけ


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第十話:夜の運動会

吾輩は猫である。名前はまだない。


――いや、正確に言うならば家族からは「モチ」だの「お猫様」だの、果ては「ダメ猫」などという無礼な呼称で呼ばれているが、吾輩が納得するに足る高貴な名は、まだ授かっていないという意味である。


さて、人間という種は一日の活動時間を昼に限定し、夜間を休息に充てるという実に非合理的な生活様式を採用している。彼らの蒙昧なる目は闇を見通すことができぬゆえ、光の恩恵なくして行動することが困難だからだ。彼らが暗闇で足をぶつけ小指の痛みに悶絶する姿は、進化の過程で何か大切なものを置き忘れてきた哀れな落後者の姿そのものである。やれやれ。


一方、吾輩は違う。

吾輩の活動は太陽の都合には左右されない。むしろ、夜――静寂が支配し、外界の雑音が排除された時間帯こそが、最も高度な運動と精神活動に適しているのである。

その夜も主人が寝床に沈み、規則的な呼吸音を発し始めたのを確認したのち、吾輩の内なる何かが静かに目を覚ました。


――始動の時である。


まずは準備運動。四肢を伸ばし背を弓なりにし、爪の状態を確認する。良好だ。次に室内の地形を再確認する。テーブル、椅子、棚、そして――窓辺に垂れ下がる布状の構造体。


カーテン。


あれは極めて優れた訓練装置である。垂直に近い角度、適度な柔軟性、そして爪の食い込みやすい繊維構造。登攀対象として、これ以上のものはそうあるまい。

吾輩は床から一歩踏み出す。次いで加速。瞬時に最高速へと到達し、跳躍。

――掴んだ。


前肢の爪が布地を捉え、後肢がそれに続く。体重を分散させつつ、重力に逆らって上方へと移動する。この一連の動作は単なる遊戯ではない。筋力、瞬発力、そして空間認識能力を総合的に鍛える、極めて高度なトレーニングである。


がさがさ。


繊維が擦れる音が、夜の静寂を切り裂く。頂点が近づくにつれ、わずかな揺れが発生するが問題ない。むしろその不安定さこそが、訓練の質を高める要素となる。

そして頂上到達。


吾輩はカーテンレールの上に身を乗せ、しばしその場に静止する。眼下には静まり返った室内。支配領域を一望するこの瞬間こそ、登攀の醍醐味と言えよう。

だが真の訓練は、ここからである。


下降。これが最も困難な工程だ。上ることよりも、降りることの方が遥かに高度な制御を要求される。吾輩は慎重に体を反転させ――


「ドンッ」


――着地。

やや勢いが過ぎたか。だが許容範囲内である。

その瞬間であった。


「……うるさいなぁ……何やってんだよ」


寝床という名の停滞した空間から、主人のか細き抗議の声が漏れ聞こえてきた。どうやらこの程度の振動で、意識の表層へと引きずり戻されたらしい。吾輩は一瞥を投ずる価値もなしと判断し、再び助走を開始した。第二回登攀演習の開始である。


がさがさ、ばさり。


「うわ、モチ!! やめろって!!」


主人が半ば叫びながら起き上がる。だがその動作は鈍い。覚醒直後の人間の反応速度では、吾輩の機動に追いつけるはずもない。吾輩は悠然とカーテンの中腹に張り付き、下方を見下ろす。主人は手を伸ばしてくるが、その反応は明らかに遅れている。回避は容易だ。


ひらり。


吾輩は別方向へと身を躍らせ、床へと降り立つ。続けてテーブルへ、棚へと跳躍を連ねる。これら一連の動きは、単なる逃走ではない。複雑な経路を用いた機動訓練であり、追跡者に対する撹乱行動の実演である。


「もう……勘弁してくれよ……」


主人は力尽きたようにベッドの縁に座り込む。なるほど、体力的限界か。人間の持久力の低さは以前から指摘している通りである。


吾輩はその様子を確認し、ゆっくりと動きを止める。訓練は十分だ。過度な運動は筋繊維に不要な負荷を与える。適切なところで切り上げるのもまた、優れた判断である。吾輩は最後の跳躍にて、主人の座るベッドへと降り立ち、喉を鳴らす。


ぐるぐる。


この振動は、主人に安眠を授けてやるための慈悲である。

主人は「……今さら甘えるな……」などと呟きながらも、無意識に吾輩の頭を撫でてくる。


よろしい。今回の訓練もまた、円滑に終了したと言えるだろう。


なお翌朝、主人がカーテンの繊維が一部解離しているのを発見したらしく、あたかもこの世の終わりの如き溜息をついていた。素材の耐久性に問題があった可能性が高いと考えられる。しかし適切な訓練に耐えうる設備を整えるのもまた、管理者たる人間の責務であるゆえ、今後の改善を期待することとしよう。


吾輩は猫である。名前はまだない。

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