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王国滅亡まで残り千日。下働きの俺は、聖女の処刑記録を破り捨てた  作者: restory-lab


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第3話 東区の火種

油の匂いは、扉の隙間から漏れていた


 ランプに使う程度の量ではない。


 もっと濃く、重い。

 鼻の奥にまとわりつき、喉まで焼けるような匂いだった。


 乾いた木材と古い藁の匂いに混じって、揮発した油の刺激臭が漂っている。


 まるで倉庫そのものが、火を待っているようだった。


「……ここ、本当に使われてない倉庫なのか」


 俺が尋ねると、少女は黒パンをかじりながら頷いた。


「たぶん。昼は誰も来ない。でも夜になると、たまに人が入ってる」


「何人くらいだ」


「二人か三人。顔は見てない。フードかぶってた」


「何を運んでたか分かるか」


「樽とか、布の束とか。あと、細い縄みたいなの」


 縄。


 その言葉が、妙に引っかかった。


 俺は扉に近づいた。


 古びた木の扉。

 錆びた蝶番。

 外から見れば、長く放置された空き倉庫にしか見えない。


 だが、扉にかけられた南京錠だけは違った。


 新しい。


 金具に錆がない。

 最近つけ替えられたものだ。


 さらに扉の下には、黒ずんだ染みが細く伸びていた。


 油だ。


 木目に染み込み、乾ききらずに鈍く光っている。


「鍵、開けられるか?」


「無理」


 少女は即答した。


「じゃあ、他に中を見られる場所は」


「裏に小さい窓がある。でも板でふさがれてる」


「案内してくれ」


 少女は少しだけ目を細めた。


「またパンくれる?」


「今はもうない」


「じゃあ銅貨」


「……一枚だけだ」


「三枚」


「一枚」


「二枚」


「一枚」


「けち」


「下働きに何を期待してる」


 俺が銅貨を一枚渡すと、少女はそれを素早く服の内側にしまった。


「こっち」


 彼女は倉庫の横に回り込んだ。


 狭い裏路地だった。

 壁と壁の間に、壊れた木箱や古い縄が積まれている。


 湿った土の上には、馬車の車輪跡が残っていた。


 新しい。


 しかも車輪跡の脇には、油の滴ったような黒い斑点が点々と続いている。


 少なくとも、数日前から完全に使われていない倉庫ではない。


 裏手に回ると、少女の言った通り、小さな窓があった。


 窓と言っても、人が通れるほどの大きさではない。

 換気用の穴に、板を打ちつけただけのものだ。


 板の隙間から、さらに強い油臭が漏れている。


 俺は板に手をかけた。


 釘は新しい。

 雑に打たれているが、しっかり固定されている。


 隙間から中を覗こうとしたが、暗くてよく見えない。


 ただ、奥に何かが積まれているのは分かった。


 樽。

 布の束。

 そして壁際に這うような細い影。


 縄か。


 それとも、導火線か。


「外せそう?」


「音を立てればな」


「じゃあ無理だね」


「なぜだ」


 少女は路地の向こうを指さした。


「この奥、酒場の裏口。人が来る」


 確かに、遠くから男たちの笑い声が聞こえる。


 ここで板を引き剥がせば、すぐに誰かが気づく。


 俺は手を離した。


 証拠が必要だ。

 だが証拠を掴むには、中を見るしかない。

 中を見るには、鍵を壊すか、板を外すしかない。


 そしてそれをやれば、俺はただの不審者になる。


 王宮書庫の下働きが、商会の倉庫に忍び込もうとしていた。


 そう見られれば終わりだ。


「……火消し隊に行く」


 俺はそう言って、表通りへ戻った。


 少女が後ろからついてくる。


「信じてもらえるの?」


「分からない」


 分からない、ではない。


 冷静に考えれば、かなり厳しい。


 油の匂い。

 新しい鍵。

 車輪跡。

 夜の出入り。


 俺には、それらが全部繋がって見える。


 だが、それは滅亡史を読んでいるからだ。


 他人からすれば、ただ少し怪しい倉庫が一つあるだけ。


 油は倉庫街なら珍しくない。

 鍵は壊れたから替えたのかもしれない。

 車輪跡も荷運びだと言われれば終わりだ。

 夜の出入りも、持ち主の都合かもしれない。


 放火だと叫ぶには、まだ弱すぎる。


 けれど、何もしない理由にはならなかった。


 東区の火消し詰所は、倉庫街から少し離れた場所にあった。


 石造りの小さな建物。

 入口には水桶と鉤付きの棒、濡らした布が積まれている。


 中には数人の男がいた。


 昼間から酒を飲んでいる者もいる。


 火事が起きていない時の火消し隊など、そんなものなのかもしれない。


「すみません」


 俺が声をかけると、隊長らしき男が振り返った。


 片目の下に古い火傷痕がある。

 年は四十前後。

 体は大きいが、目つきは鋭い。


「何だ」


「東区第七倉庫街で、放火の準備がされているかもしれません」


 詰所の空気が止まった。


 次の瞬間、奥にいた男が吹き出した。


「放火? おいおい、物騒な話だな」


 火傷痕の男は笑わなかった。


 代わりに、俺をじっと見た。


「名前は」


「カイ・エルノートです。王宮書庫で下働きをしています」


「王宮書庫の下働きが、なぜ放火の話を持ってくる」


「倉庫の一つから油の匂いがしました。鍵も新しい。裏手には最近の車輪跡があります。夜にフードをかぶった人間が出入りしていたという話もあります」


「倉庫の持ち主は」


「まだ分かりません」


「中は見たのか」


「隙間から少しだけ。樽と布のようなものが見えました」


「火種は」


「確認できていません」


「犯人は」


「分かりません」


 男は小さく息を吐いた。


「それで俺たちに何をしろと?」


「確認だけでも」


「令状なしに商会の倉庫は開けられん。貴族の荷が入っていれば、こちらが罪に問われる」


「でも、もし本当に火事になったら――」


「もし、では動けん」


 また同じ言葉だった。


 もし。

 証拠。

 責任。


 その三つの言葉が、俺の前に壁のように立ちはだかる。


 俺は拳を握った。


「火事が起きてからでは遅いんです」


「それは俺たちが一番よく知っている」


 男の声が少しだけ低くなった。


 ふざけているわけではない。


 この人は、火の怖さを知っている。


 それでも動けないのだ。


「小僧。お前の話が本当なら、今すぐ東区の警備兵に届けろ。倉庫の持ち主を調べさせろ。火消し隊だけでは、倉庫の扉は開けられん」


「警備兵が動かなかったら?」


「その時は、自分でできる備えをしろ」


「備え?」


「水を集める。道を空ける。油樽のある場所を避ける。火が出た時に人を逃がす。火を消すのは、その後だ」


 俺は言葉を失った。


 火を止めることばかり考えていた。


 だが、火が止められないなら、人を逃がす準備が必要になる。


 滅亡史には死者二百四十六名とある。


 火を完全に防げなくても、その数を減らすことはできるかもしれない。


「……ありがとうございます」


 俺は頭を下げた。


 火傷痕の男は、机の上に置いてあった木片を俺に投げた。


 反射的に受け取る。


 そこには、簡単な印が焼き付けられていた。


「それを見せれば、井戸の周りの荷を少しはどかせる。火消し隊からの注意札だと言え」


「いいんですか」


「勘違いするな。俺は何も信じていない」


 男は鋭い目で俺を見る。


「ただ、火事の備えをして損をする街はない」


 俺はもう一度頭を下げ、詰所を出た。


 外に出ると、少女が壁にもたれて待っていた。


「追い返された?」


「半分はな」


「半分は?」


「水を使えるようにする」


 俺は木片を見せた。


 少女は少しだけ目を丸くした。


「それ、本物?」


「たぶん」


「たぶんって」


「使えれば本物だ」


 俺たちは第七倉庫街へ戻った。


 まず、荷馬車で塞がれていた井戸へ向かう。


 荷馬車の持ち主は、最初は怒鳴った。


「勝手に動かせるか! この荷がいくらすると思ってる!」


 俺は火消し隊の木札を見せた。


「火消し隊からの注意です。井戸の前を空けるようにと」


「聞いてないぞ」


「聞いていなくても、火事になれば困るのはあなたです」


「火事など起きるか」


「起きてからでは、荷も倉庫も全部燃えます」


 男はしばらく俺を睨んだ。


 だが、周囲の商人たちが集まり始めると、舌打ちして荷馬車を動かした。


 一つ目の井戸が使えるようになった。


 次に、壊れかけの木蓋がかぶさっていた井戸へ向かう。


 これは少女が役に立った。


「あの蓋、前に子供が落ちかけたよ」


 少女がぼそりと言うと、近くにいた女たちが顔を上げた。


「本当かい」


「うん。足、ここまで落ちてた」


 少女は自分の膝のあたりを指さした。


 女たちがざわつく。


 火事よりも、子供が落ちるという言葉の方が効いたらしい。


 数人の男が集まり、木蓋を外してくれた。


 二つ目の井戸が使えるようになった。


 最後の井戸は、酒場の裏手にあった。


 ここは厄介だった。


 通路には空樽と木箱が積まれ、まともに人が通れない。


 酒場の主人は、俺を見るなり眉を吊り上げた。


「邪魔だ。ここはうちの裏だ」


「井戸までの道を空けてください。火事の時に使えません」


「火事、火事って、さっきから誰だお前は」


「王宮書庫のカイです」


「書庫? 本でも燃やしてろ」


 笑い声が起きた。


 俺は唇を噛んだ。


 ここで怒鳴っても意味がない。


 下働きの俺に命令権はない。


 言葉で動かせないなら、別の理由がいる。


 その時、少女が俺の袖を引いた。


「あの人、役人って言葉、嫌いだよ」


「役人?」


「前に誰かが帳簿見せろって言ったら、すごく怒ってた」


 それだけ言って、少女は口を閉じた。


 なるほど。


 使えるかもしれない。


 俺は酒場の主人を見た。


「分かりました。では、この場所に井戸が塞がれていたことを、王宮書庫に戻って記録しておきます」


「あ?」


「万が一火事が起きた時、消火が遅れた理由として報告が必要になります。酒場裏の井戸は使用不能。理由は私物の放置。所有者は――」


「待て」


 主人の顔色が変わった。


 記録。


 その言葉は、意外なほど効いた。


「大げさなことを言うな。少し置いてあるだけだ」


「では、少し動かしてください」


 主人は低く唸ったあと、店の男たちに命じて空樽をどかさせた。


 三つ目の井戸が使えるようになった。


 日が傾き始める頃には、俺の足は棒のようになっていた。


 だが、第七倉庫街の三つの井戸は、すべて使える状態になった。


 狭かった通路のいくつかも、荷を動かしてもらった。


 火事を防げたわけではない。


 犯人を捕まえたわけでもない。


 それでも、朝よりは少しだけましになった。


 俺は井戸の縁に腰を下ろした。


 少女が隣に座る。


「ねえ」


「なんだ」


「あんた、本当に未来が分かるの?」


 俺は答えに詰まった。


 分かる、とは言えない。


 俺が知っているのは、本に書かれた断片だけだ。


「全部じゃない」


「じゃあ、何が分かるの」


「三日後に火事が起きるかもしれないこと。千日後に、この国が滅ぶかもしれないこと」


 少女は黒パンの最後の一欠片を口に入れた。


「ふうん」


「笑わないのか」


「火事はありそうだし」


 彼女は古びた倉庫の方を見た。


「それに、あの倉庫、やっぱり変だよ」


 俺もつられて倉庫を見る。


 夕暮れの赤い光の中で、古びた壁だけが妙に黒く沈んで見えた。


 しばらく、どちらも口を開かなかった。


 遠くで荷車の軋む音がして、風が油の匂いを運んでくる。


 少女は膝を抱えたまま、小さく呟いた。


「……あんた、さ」


「なんだ」


「本当に止めるつもりなんだね。火事」


「止められるならな」


「変なの」


 そう言ってから、少女は少しだけ笑った。


 俺はそこで、ようやく気づいた。


 そういえば、まだ名前も聞いていなかった。


「名前を聞いてなかったな」


 少女は一瞬だけ目を瞬かせ、それから肩をすくめた。


「ミラ」


「俺はカイだ」


「知ってる。さっき自分で言ってた」


 ミラは立ち上がった。


「夜、見張るなら手伝うよ」


「危ないから駄目だ」


「一人じゃ何も見えないでしょ」


「それでも駄目だ」


「じゃあ勝手に見る」


 言い返す前に、ミラは路地の奥へ走っていった。


 足が速い。


 俺はため息をついた。


 子供を巻き込むべきではない。


 だが、今の俺は、その子供の情報に助けられている。


 情けない話だった。


 その時だった。


 空き倉庫の方から、かすかな音がした。


 きしむような、木が鳴る音。


 俺は息を殺した。


 倉庫の裏手に人影がある。


 黒い外套を着た男が二人。


 片方が周囲を見張り、もう片方が鍵を開けている。


 夕暮れの影の中で、銀色の鍵が小さく光った。


 やはり、誰かが出入りしている。


 俺は路地の陰に身を隠した。


 心臓がうるさい。


 男たちは倉庫の中へ入っていった。


 扉が閉まる寸前、中が一瞬だけ見えた。


 積まれた藁束。

 油を染み込ませた布。

 壁際に並ぶ小さな壺。


 そして、床に引かれた黒い線。


 導火線だ。


 俺は喉の奥が乾くのを感じた。


 これは事故ではない。


 火災ではなく、放火だ。


 しかも、火を広げるために準備されている。


 俺は滅亡史を握りしめた。


 未来は、勝手に燃えるのではない。


 誰かが、燃やそうとしている。


 その事実に気づいた瞬間、背後で小さな声がした。


「――何をしている」


 振り返ると、そこには東区の警備兵が立っていた。


 手には槍。


 視線は、俺が抱えている滅亡史ではなく、空き倉庫の扉に向けられている。


「まさか、お前が火をつけるつもりだったのか」


 違う、と言おうとした。


 だが、言葉が出なかった。


 俺は倉庫を覗いていた。

 火事が起きると騒いでいた。

 井戸を動かし、人を集め、倉庫街を歩き回っていた。


 疑われる材料なら、いくらでもある。


 警備兵は槍先を俺へ向けた。


「王宮書庫の下働きだと言ったな」


 冷たい汗が背中を流れた。


「詳しい話は、詰所で聞く」


 その瞬間、空き倉庫の中で、何かが割れる音がした。


 続いて、油の匂いが一気に強くなる。


 男たちの低い声が聞こえた。


「予定を早めるぞ」


 俺は血の気が引いた。


 青の月十七日まで、まだ三日ある。


 だが未来はもう、前倒しで動き始めていた。

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