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王国滅亡まで残り千日。下働きの俺は、聖女の処刑記録を破り捨てた  作者: restory-lab


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第4話 バケツ一杯の抵抗

予定を早める。


 倉庫の中から聞こえたその言葉に、全身の血が冷えた。


 青の月十七日まで、まだ三日あるはずだった。


 滅亡史には、そう書かれていた。


 だが目の前の倉庫では、すでに油の匂いが濃くなり、何かが割れる音が響いている。


 未来が、こちらの動きに気づいたみたいだった。


「詰所で聞くと言ったはずだ」


 警備兵が槍をこちらに向けたまま、一歩近づく。


 俺は両手を上げた。


「待ってください。中に人がいます」


「言い逃れか」


「違います。今、聞こえたでしょう。倉庫の中から声がした」


「お前の仲間ではないのか」


「俺が放火犯なら、わざわざ井戸を空けさせたりしません」


 警備兵の眉が動いた。


 だが、槍先は下がらない。


 疑われるのは当然だった。


 俺は火事が起きると騒ぎ、倉庫街を歩き回り、井戸の周囲を動かし、今は怪しい倉庫の前にいる。


 状況だけ見れば、俺の方がよほど怪しい。


 その時、倉庫の隙間から白い煙が漏れた。


 細い煙だった。


 だが、油の匂いを含んだそれは、ただの埃ではない。


「見てください!」


 俺は叫んだ。


 警備兵が振り返る。


 煙はすぐに濃くなった。


 扉の下から、這うように広がってくる。


 倉庫の中で、男の怒鳴り声がした。


「火が早い!」


「布を押さえろ!」


「くそ、煙が出すぎだ!」


 警備兵の顔色が変わった。


「……本当に中にいるのか」


「だから言ったでしょう!」


 俺は槍先を無視して、倉庫の扉へ走った。


 南京錠は閉まっている。


 中からは開けられないのか、それとも外から閉めたまま作業しているのか。


 どちらにしても、このままではまずい。


 油を含んだ布と藁束。


 それに火が回れば、倉庫全体が一気に燃える。


「鍵を壊せますか!」


「下がれ!」


 警備兵が槍の柄で南京錠を叩いた。


 一度目。


 金具が鈍い音を立てる。


 二度目。


 扉が震える。


 三度目。


 南京錠の留め具が歪んだ。


 その瞬間、中から強い煙が吹き出した。


 警備兵が咳き込む。


 俺も反射的に袖で口を押さえた。


 扉の隙間から、赤い光がちらついている。


 火だ。


 もうついている。


「火消し隊を呼びます!」


「待て、一人で――」


 警備兵の声を背中に聞きながら、俺は走り出した。


 足が重い。


 第七倉庫街を歩き回ったせいで、膝が笑っている。


 それでも止まるわけにはいかなかった。


 火消し詰所までは遠い。


 だが、今すぐ必要なのは火消し隊そのものではない。


 水だ。


 水と、人手だ。


 俺は一つ目の井戸へ駆け込んだ。


 昼間、荷馬車をどかしてもらった井戸。


 もしあのまま塞がれていたら、ここで終わっていた。


「火事だ!」


 俺は喉が裂けそうな声で叫んだ。


「第七倉庫街で火が出た! 水を運べ!」


 周囲の人間が一斉に振り向く。


 最初は誰も動かなかった。


 またあの下働きが騒いでいる。


 そんな顔だった。


 だが、倉庫の方から煙が上がるのが見えた瞬間、空気が変わった。


「本当に煙だ!」


「どこだ!」


「水桶を持ってこい!」


 誰かが叫んだ。


 そこからは早かった。


 商人が荷物を蹴飛ばして桶を持ち出し、女たちが井戸に縄を投げ、労働者たちが列を作る。


 俺も井戸に桶を落とした。


 水をくみ上げる。


 重い。


 腕が軋む。


 だが、その重さが今はありがたかった。


 何もできないと思っていた俺に、やれることがある。


 バケツ一杯の水。


 それだけでも、未来にぶつけられる。


「カイ!」


 声がした。


 ミラだった。


 いつの間に戻ってきたのか、路地の入口に立っている。


「お前、危ないから離れてろ!」


「子供たち、あっちに逃がす!」


 ミラはそう叫ぶと、返事も待たずに駆け出した。


 止める暇はなかった。


 だが、彼女の動きは正しかった。


 倉庫街の奥には、木箱の上で遊んでいた子供たちがいる。


 火が広がってからでは逃げ遅れる。


 俺は歯を食いしばり、桶を抱えて倉庫へ戻った。


 煙はさらに濃くなっていた。


 警備兵は扉の前で咳き込みながら、歪んだ南京錠を外そうとしている。


「水です!」


「扉にかけろ! 中に入るな!」


 警備兵が怒鳴る。


 俺は扉に向かって水をぶちまけた。


 焼けた木が嫌な音を立てる。


 だが、これだけでは足りない。


 中で燃えているのは、油を染み込ませた布だ。


 水をかけても、表面を濡らすだけでは消えきらない。


 火消し詰所の男の言葉が頭をよぎる。


 水を集める。

 道を空ける。

 火が出た時に人を逃がす。

 火を消すのは、その後だ。


 俺は周囲を見た。


 昼間どかしたおかげで、井戸から倉庫までの道は通れる。


 人が列を作れる。


 それだけで、状況はまったく違った。


「こっちへ回せ!」


「桶を渡せ!」


「空になったら戻せ!」


 誰かが声を張り上げた。


 商人も、労働者も、酒場の男たちも、同じ列に入っている。


 昼間は俺を笑っていた男たちが、今は必死に水を運んでいた。


 俺も列に入る。


 井戸から水が来る。


 受け取る。


 前へ渡す。


 空桶が戻る。


 また水が来る。


 単純な作業だった。


 だが、それが火の勢いをわずかに押し返していた。


 倉庫の扉が内側から蹴られた。


「開けろ!」


 男の声だ。


 警備兵が目を見開いた。


「中にいる奴らだ!」


 次の瞬間、扉が大きく揺れた。


 南京錠の歪んだ金具が外れかける。


 警備兵が槍を構えた。


「出てこい! 東区警備隊だ!」


 返事の代わりに、扉が内側から蹴破られた。


 煙と一緒に、黒い外套の男が飛び出してくる。


 その手には、油のついた短剣が握られていた。


「どけ!」


 男は警備兵へ突っ込んだ。


 警備兵が槍の柄で受ける。


 鈍い音。


 男がよろめく。


 だが、すぐ後ろからもう一人が飛び出した。


 そいつは戦わなかった。


 煙を盾にして、路地へ走る。


「逃げるぞ!」


 俺は反射的に追いかけようとした。


 だが足が動かなかった。


 追えば、火から離れることになる。


 ここで俺がすべきことは、犯人を捕まえることではない。


 火を広げないことだ。


「逃げた!」


 誰かが叫ぶ。


「追え!」


 警備兵が一人に槍を突きつけながら怒鳴った。


 近くの男たちが、逃げた外套の男を追って走っていく。


 俺は倉庫の中を見た。


 煙の奥で、藁束が燃えている。


 壁際の布にも火が移りかけていた。


 床には黒い導火線のようなものが伸びている。


 その先には、小さな壺がいくつも並んでいた。


 油壺だ。


 あれに火が届けば、もっと大きく燃える。


「水を奥へ!」


 俺は叫んだ。


「壁際の壺に火を近づけるな!」


「お前、入る気か!」


 警備兵が怒鳴る。


「入らないと広がります!」


「死ぬぞ!」


「ここで広がったら、もっと死にます!」


 言い返した瞬間、自分の声が震えていることに気づいた。


 怖くないわけがない。


 煙は目に染みる。

 喉は焼ける。

 扉の向こうは赤く揺れている。


 俺は勇者じゃない。


 騎士でもない。


 魔術師でもない。


 ただの下働きだ。


 それでも、手にはバケツがあった。


 俺は濡らした布を口元に巻き、低い姿勢で倉庫へ踏み込んだ。


 一歩。


 熱い。


 二歩。


 煙で前が見えない。


 三歩。


 床に落ちた導火線が、赤く燃えながら油壺へ向かっている。


 間に合わない。


 俺はバケツを振り上げた。


 水を、導火線に叩きつける。


 白い煙が上がった。


 火が一瞬だけ弱まる。


 だが完全には消えない。


 その時、遠くから鐘の音が鳴った。


 誰かが火消し詰所へ走ったのだろう。


 続いて、人混みを割るような怒鳴り声が響いた。


「砂だ! 砂を持ってこい!」


 火消し詰所の男だった。


 火傷痕のある隊長が、入口に立っている。


「油の火に水だけかけるな! 布をどけろ! 燃えてない壺を外へ出せ!」


 空気が変わった。


 火消し隊が来た。


 俺はその声に従い、近くの油壺を抱えた。


 重い。


 腕が抜けそうになる。


 だが、これを置いたままにはできない。


 咳き込みながら外へ運ぶ。


 入口で労働者の男が受け取ってくれた。


「次!」


 火消し隊の怒鳴り声が飛ぶ。


 水を運ぶ者。

 砂を撒く者。

 濡れた布で火を押さえる者。

 燃えていない荷を外へ出す者。


 昼間に空けた道が、全部使われていた。


 井戸も、通路も、裏手の道も。


 たった数時間前には無駄に見えた準備が、今は火と人の命を分けている。


 俺は何度も倉庫と外を往復した。


 途中から、腕の感覚がなくなった。


 目は涙でにじみ、煙で前が白くなる。


 それでも、火の勢いは少しずつ弱まっていった。


 最後に火傷痕の隊長が、燃え残った藁束へ砂をかぶせた。


 赤い光が、じわじわと消える。


 倉庫の中に残ったのは、焦げた木の匂いと、濡れた灰と、息を切らす人間たちの声だけだった。


「……消えたのか」


 俺は壁にもたれた。


 膝が崩れそうになる。


 隊長がこちらを見た。


「完全ではない。見張りを置く。だが、広がりはしない」


 その言葉を聞いた瞬間、肩から力が抜けた。


 火は止まった。


 少なくとも、今ここで大火にはならなかった。


 死者も出ていない。


 俺は胸を押さえた。


 心臓がまだうるさい。


 警備兵が、捕らえた黒外套の男を地面に押さえつけていた。


 男は何も言わない。


 顔を伏せ、唇を固く閉じている。


 もう一人は逃げたらしい。


 警備兵は、捕らえた黒外套の男を押さえつけたまま、ちらりと俺を見た。


 さっきまで槍を向けていた目ではなかった。


「……お前の言ったことは、本当だったらしいな」


「全部じゃありません。まだ終わってません」


 俺がそう答えると、警備兵は短く舌打ちした。


「面倒なことになった」


 火傷痕の隊長が焦げた倉庫の中を見回す。


「これは事故じゃないな」


 俺は頷いた。


「放火です」


「らしいな」


 隊長は低く言った。


「だが、誰の命令かまでは分からん。証拠の大半は燃えた」


 その言葉に、胸の奥が重くなった。


 火は止めた。


 だが、全てを止めたわけではない。


 逃げた犯人がいる。

 背後で命じた者がいる。

 そして、本番がまだ残っているかもしれない。


「カイ!」


 ミラの声がした。


 振り返ると、彼女が路地の向こうから走ってきた。


 後ろには、数人の子供がいる。


 全員、無事だった。


「子供たちは?」


「逃がした。そっちは?」


「火は止まった」


「よかった」


 ミラは短くそう言うと、急に黙った。


 俺の服を見ている。


 煤だらけだった。


 袖は焦げ、手の甲には小さな火傷ができている。


「……ばかじゃないの」


「自覚はある」


「死んだら意味ないじゃん」


「それも分かってる」


 ミラは不満そうに口を結んだ。


 だが、それ以上は何も言わなかった。


 俺は壁に背を預けたまま、滅亡史を取り出した。


 煙と水で、表紙は少し湿っている。


 急いでページを開く。


 手が震えた。


 王都東区大火。


 その項目を探す。


 見つけた瞬間、息が止まった。


 文字は、消えていなかった。


 ――王都東区大火。

 発生日、青の月十七日。

 死者二百四十六名。

 出火地点、東区第七倉庫街。


 その文字が、黒く滲んでいた。


 まるで、誰かが上から墨を落としたように。


 そして次の瞬間、文字が震えた。


 出火地点、東区第七倉庫街。


 その一文だけが、ゆっくりとかすれていく。


 代わりに、新しい文字が浮かび上がった。


 ――出火地点、未確定。


「……未確定?」


 俺は声を漏らした。


 死者二百四十六名。


 その数字は、まだ残っている。


 発生日、青の月十七日。


 それも変わっていない。


 けれど、出火地点だけが変わった。


 未来は消えたわけではない。


 ただ、場所を失っただけだ。


 俺が一つ火種を潰したから、別の火種を探している。


 そういうことか。


 隊長が俺の手元を覗き込もうとした。


「何を読んでいる」


 俺は本を閉じた。


「ただの記録です」


「そうか」


 隊長はそれ以上聞かなかった。


 ありがたかった。


 今は、説明できる自信がない。


 ミラが小さく尋ねる。


「終わったの?」


 俺は答えられなかった。


 倉庫の火は消えた。


 子供たちは逃げた。


 死者は出なかった。


 けれど、滅亡史にはまだ同じ数字が残っている。


 二百四十六名。


 その数字が、頭の中に焼きついて離れない。


「……いや」


 俺は閉じた本を握りしめた。


「まだ終わってない」


 青の月十七日まで、あと三日足らず。


 火は消えた。


 だが、死者二百四十六名という未来は、まだ消えていなかった。

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