第2話 誰も信じない未来
未来を知っていることと、未来を変えられることは、まったく別の話だった。
俺はそれを、王宮を出てすぐに思い知った。
東区第七倉庫街。
滅亡史にそう書かれていた場所は、王宮から歩いて半刻ほどのところにある。
王都リベルシアは、大きく四つの区に分かれている。
王宮と貴族街のある中央区。
商人や工房が集まる西区。
聖堂と施療院のある北区。
そして、荷馬車と倉庫と労働者でごった返す東区。
俺のような下働きが歩いていても、誰も気に留めない場所だ。
むしろ、王宮の中よりはずっと呼吸がしやすかった。
だが今日は違った。
道を行き交う人間の顔が、やけにはっきり見えた。
荷車を押す男。
果物を売る女。
木箱の上で昼寝している子供。
酒場の前で怒鳴り合う労働者たち。
この中の二百四十六人が、三日後に死ぬかもしれない。
そう思った瞬間、胃の奥が冷たくなった。
「……落ち着け」
俺は胸に抱えた本を押さえた。
まだ決まったわけじゃない。
この本が本物だと証明されたわけでもない。
そもそも、未来など本当に書き換えられるのかも分からない。
けれど、無視はできなかった。
東区第七倉庫街は、想像していたよりも広かった。
倉庫が一つあるだけではない。
石造りの大型倉庫が五棟。
木造の中型倉庫が七棟。
その周囲に、小さな荷置き場や作業小屋がいくつも並んでいる。
滅亡史には、ただ「出火地点、東区第七倉庫街」としか書かれていなかった。
どの倉庫から火が出るのか。
誰が火を出すのか。
何が原因なのか。
肝心なことは、何一つ分からなかった。
「……雑すぎるだろ」
思わず悪態が漏れた。
未来の記録なら、せめて火元くらい書いておいてほしい。
だが、文句を言っても仕方ない。
俺はまず、一番近くにあった倉庫へ向かった。
入口には、太った男が腰掛けていた。
倉庫番だろう。
手には干し肉を挟んだパンを持っている。
「すみません」
「あ?」
「この辺りで、火の気が危ない場所はありませんか」
男はパンをかじる手を止めた。
「なんだ、お前。見ない顔だな」
「王宮書庫の者です。少し調べものをしていて」
「書庫?」
男は俺の服を見た。
古びた下働きの服。
王宮勤めとはいえ、威厳など一切ない。
案の定、男は鼻で笑った。
「本の虫が倉庫に何の用だ」
「三日後に、この辺りで火事が起きるかもしれません」
口に出した瞬間、自分でも馬鹿げていると思った。
だが言うしかなかった。
男は数秒黙ったあと、腹を抱えて笑った。
「ははっ! 火事が起きるかもしれません、だと? そりゃあ起きるかもしれねえな。明日雨が降るかもしれねえし、王様が踊り出すかもしれねえ」
「真面目な話です」
「真面目なら、なおさら帰れ」
男の声が少し低くなる。
「ここは商会の倉庫だ。荷の中身も配置も、部外者に見せるわけにはいかねえ。火事が怖いなら、火消し隊にでも言ってこい」
「火消し隊は、動いてくれますか」
「証拠があればな」
証拠。
またそれだ。
俺には何もない。
あるのは、未来らしき出来事が書かれた本だけ。
それを見せても、信じられる保証はない。
むしろ、頭のおかしい下働きとして追い返されるだけだ。
「……分かりました」
俺は頭を下げて、その場を離れた。
二棟目も同じだった。
三棟目では、入口に立っただけで追い払われた。
四棟目では、倉庫番に「盗みに来たのか」と疑われた。
五棟目では、火事の話をした途端、荷運びの男たちに笑われた。
「未来が分かるなら、明日の賭け試合の勝ち馬でも教えてくれよ」
「火事が怖いなら井戸でも掘ってろ」
「王宮の下働きってのは、ずいぶん暇なんだな」
笑い声が背中に刺さる。
腹は立った。
だが、彼らが間違っているとも言い切れなかった。
逆の立場なら、俺だって信じない。
知らない下働きが突然やって来て、「三日後に火事が起きます」と言う。
しかも根拠は、地下書庫で見つけた謎の本。
まともに聞く方がおかしい。
それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
俺は倉庫街を歩き回りながら、火元になりそうなものを探した。
油樽。
干し草。
木箱。
古い布。
荷馬車の車輪に使う松脂。
鍛冶場の小さな炉。
夜番が使うランプ。
商人たちが吸い捨てる煙草。
危ないものは、いくらでもあった。
逆に言えば、危なすぎて絞れなかった。
東区第七倉庫街全体が、火種の塊に見える。
「全部見張るなんて無理だ」
俺は路地裏の壁にもたれた。
額に汗がにじむ。
足はすでに痛い。
昼から歩き回って、分かったことは一つだけだった。
この火事は、起きてもおかしくない。
いや、いつ起きても不思議ではない。
問題は、それを誰も異常だと思っていないことだ。
俺はもう一度、本を開いた。
――王都東区大火。
発生日、青の月十七日。
死者二百四十六名。
出火地点、東区第七倉庫街。
そこから先の記述は、数行しかなかった。
――火は強風に煽られ、東区の居住区へ拡大。
――消火活動は遅れ、夜明けまで燃え続けた。
――この災害を機に、王都民の王家への不信は増大する。
「強風……?」
俺は顔を上げた。
今はまだ、風は弱い。
だが東区の通りは狭く、建物の間を抜ける風が妙に速い場所があった。
火が出れば、一気に広がる。
そして、消火活動が遅れる。
なぜ遅れる?
俺は周囲を見渡した。
倉庫街には井戸が三つある。
だが、一つは荷馬車で塞がれている。
もう一つは壊れかけの木蓋がかぶせられていた。
最後の一つは、酒場の裏手にあって、そこまでの道が狭い。
火事が起きてからでは、間に合わない。
「……水だ」
まず水を確保するしかない。
火元が分からないなら、せめて火が出たときにすぐ消せるようにする。
大きなことはできなくても、少しなら備えられる。
俺は近くの井戸へ向かった。
木蓋を持ち上げようとしたが、湿気で膨らんだ板が引っかかって動かない。
「くそっ」
両手に力を込める。
指先に棘が刺さった。
痛みで顔をしかめる。
それでも何度か引っ張ると、木蓋は嫌な音を立てて少しだけ持ち上がった。
「何してるの」
背後から声がした。
振り返ると、十歳くらいの少女が立っていた。
ぼろぼろの服。
細い腕。
だが、目だけは妙に鋭い。
少女は俺と井戸を交互に見た。
「水、盗むの?」
「盗まない。火事に備えるだけだ」
「火事?」
「三日後、この辺りで火事が起きるかもしれない」
少女は眉をひそめた。
また笑われると思った。
だが、彼女は笑わなかった。
「三日後って、青の月十七日?」
今度は俺が黙る番だった。
「……どうして、その日を知ってる」
少女は少し迷ったあと、倉庫街の奥を指さした。
「あっちの空き倉庫。昨日から変な匂いがする」
「匂い?」
「油みたいな匂い。あと、夜になると誰かが出入りしてる」
心臓が大きく跳ねた。
「どの倉庫だ」
少女は俺をじっと見た。
「教えたら、パンくれる?」
俺は懐を探った。
昼に食べようと思っていた硬い黒パンが一つだけある。
それを差し出すと、少女は素早く受け取った。
「ついてきて」
少女は路地の奥へ走り出した。
俺は本を抱え直し、その後を追った。
狭い路地を抜け、積み上げられた木箱の間を通り、誰も使っていないような裏道へ入る。
やがて、古びた木造倉庫の前に出た。
入口には鍵がかかっている。
窓は板で塞がれていた。
だが、確かに匂った。
油の匂い。
それも、ランプに使う程度の量ではない。
もっと濃く、重く、鼻の奥に残る匂い。
俺は息を呑んだ。
倉庫の扉の隙間から、わずかに黒い液体が染み出していた。
ただの不注意じゃない。
これは、火事が「起きる」んじゃない。
誰かが、火事を起こそうとしている。
俺は滅亡史を握りしめた。
ページの文字が、頭の中で何度も繰り返される。
青の月十七日。
死者二百四十六名。
出火地点、東区第七倉庫街。
残り三日。
未来は、もう火の匂いを放っていた。




