第1話 滅亡史の本
王宮書庫の地下には、誰にも読まれない本ばかりが眠っている。
歴代王の布告。
百年前の税収記録。
貴族が書き残した退屈な詩集。
魔法理論の写本。
それから、虫に食われて題名すら読めなくなった革表紙の本。
俺の仕事は、それらを分類し、埃を払い、傷んだ本を上の司書へ報告することだった。
王宮書庫の下働き。
それが今の俺、カイ・エルノートの身分だ。
貴族ではない。
騎士でもない。
魔術師でもない。
ましてや勇者などでは、絶対にない。
俺に与えられている武器は、古びた雑巾と、ひびの入った木のバケツだけだった。
だから、その本を見つけたときも、最初はただの廃棄候補だと思った。
地下三階の奥。
湿気のこもった棚の裏に、それは落ちていた。
黒い革表紙。
銀色の留め具。
そして表紙には、かすれた文字が刻まれていた。
――リベルシア王国滅亡史。
「……滅亡史?」
思わず声が出た。
リベルシア王国は、今も存在している。
俺がいるこの王宮も、王都も、城壁も、聖堂も、何一つ滅んでいない。
なのに、なぜ滅亡史などという題名の本があるのか。
悪趣味な予言書か。
それとも、誰かが書いた架空の歴史物語か。
普通なら、そこで棚に戻して終わりだった。
だが、俺はその本を開いてしまった。
最初のページには、こう書かれていた。
――リベルシア王国は、建国より三百十二年目、灰の月の末日に滅亡した。
指先が止まった。
灰の月の末日。
それは、今日から数えてちょうど千日後だった。
「……なんだ、これ」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
俺はページをめくった。
そこには、これから起こる事件が、日付つきで淡々と記されていた。
王都東区大火。
第二王子暗殺未遂。
聖女セリア・アステル異端審問。
北方魔族侵攻。
王都内乱。
聖女処刑。
王国滅亡。
まるで、誰かが未来を見て書いたようだった。
俺は笑おうとした。
馬鹿馬鹿しい。
こんなもの、ただの作り話だ。
未来の出来事が本に書かれているはずがない。
そう思って、ページを閉じようとした。
だが、ある一文が目に入った。
――王都東区大火。
発生日、青の月十七日。
死者二百四十六名。
出火地点、東区第七倉庫街。
青の月十七日。
それは、三日後だった。
息が詰まった。
偶然だ。
作り話だ。
誰かの悪戯だ。
そう考えようとしても、視線はその一文から離れなかった。
三日後。
二百四十六人。
東区第七倉庫街。
数字が、あまりにも具体的すぎた。
俺は本を抱えたまま、地下書庫の階段を駆け上がった。
信じたわけじゃない。
だが、確かめずにはいられなかった。
書庫の管理を任されている老司書、バルドは、いつものように受付台で帳簿をめくっていた。
「バルドさん」
「なんだ、カイ。地下の整理は終わったのか」
「王都東区で火事が起きます。三日後です。第七倉庫街です」
バルドの手が止まった。
彼はしばらく俺を見つめたあと、眉間に深い皺を寄せた。
「……お前、地下の空気にやられたか?」
「違います。本に書いてあったんです」
「本に書いてあったから火事が起きる? 馬鹿を言うな」
「でも、もし本当だったら――」
「もし、では兵は動かせん」
バルドの声が低くなる。
「証拠もなく倉庫街を騒がせれば、責任を取るのは誰だ? お前か? それともこの書庫か?」
返す言葉がなかった。
俺には身分がない。
信用もない。
証拠もない。
未来らしきものが書かれた本を拾っただけの、ただの下働きだ。
バルドはため息をつき、俺の手元を見た。
「その本は預かる。お前は今日はもう地下に降りるな」
彼が手を伸ばす。
俺は、とっさに本を胸に抱え込んだ。
「待ってください。せめて、もう少しだけ調べさせてください」
「カイ」
「お願いします」
俺は頭を下げた。
長い沈黙のあと、バルドは面倒そうに手を振った。
「日暮れまでだ。それ以上は許さん」
「ありがとうございます」
俺は本を抱えたまま、書庫を飛び出した。
王宮の廊下は、いつも通り静かだった。
磨かれた床。
壁にかけられた英雄の肖像画。
遠くから聞こえる貴族たちの笑い声。
誰も知らない。
三日後、東区で二百四十六人が死ぬかもしれないことを。
誰も信じない。
この王国が、千日後に滅ぶかもしれないことを。
俺は中庭の井戸の前で足を止めた。
そばには、掃除用の木のバケツが置かれていた。
朝、自分が使っていたものだ。
俺はそれを見下ろした。
剣はない。
魔法もない。
命令できる兵もいない。
倉庫街を閉鎖する権限もない。
できることは、それくらいしかなかった。
それでも俺は、バケツを握った。
三日後、二百四十六人が死ぬ。
その未来を、見なかったことにはできなかった。




